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9話 浮浪者

 その日の午後は、新しい繁殖牝馬を迎え入れるために、私は香苗さんの運転する二トン馬運車で函館港まで行くことになりました。


 イレギュラーな仕事でしたが、これは社長と隆雄さんからの共通した業務指示だったので、上役のコミュニケーション不足によるとばっちりを食って叱責されることはありません。


 内地から北海道への馬匹輸送は、馬を乗せた専用トラックが青函フェリーを利用して津軽海峡を渡り、函館から再び陸路で各牧場へ運ぶのが一般的です。


 しかし、固定給の労働者を使い倒すことによって、経費を削減したつもりの社長の考え方で、私達は函館港で馬を自社トラックへ乗り換えさせることになったのです。


 北海道の最低賃金を時給九百円として、淡田牧場と函館間の往復に六時間を費やすと、人件費は二人で一万八百円になります。さらにガソリン代を加算すると、二万円を超えることになります。


 函館から淡田牧場への輸送代は馬一頭一万五千円ですから、私と香苗さんに別の仕事をさせて、牧場の生産性を上げた方が、経営学的には有益となるはずですが、従業員のサービス残業を前提に考えている社長の頭には及ばないことなのでしょう。


 真っすぐに延びた片側二車線の国道三十六号線の左側には、青天に凪いだ太平洋が広がっていました。鈍色の海原に長閑に煌めく波頭は、寂寥たる人生にも一縷の逸楽が存在していることを教唆してくれるかのようでした。


 一方、左側の追越し車線は、先を急ぐ大型トレーラーが数珠繋ぎとなって、私達の二トントラックを抜き去っていきました。その様は、ゆっくり歩む人生を嘲笑する、働き中毒患者の悲哀にも感じられました。


 カーラジオから流れる演歌は、どれもが人生の憂愁を謳った歌詞ばかりでした。「いじけることだけが生きることだと」と謡う声を聞いて、私の胸は圧迫されて息苦しくなり、「何もない春」という結びの歌詞に、北海道へ来てから味わった空虚感を助長しました。


 さらに、砂浜の波打ち際には、無数の昆布が寄せては返す波に蠢いていました。それはまるで、生ある物体の残喘のごとく、私の末路を物語っているようでした。


 歌のアウトロの終止音が完全に消えてから、二秒ほど間を空けて、気象予報士を名乗った男性アナウンサーが「道南地方の最高気温が今年になって初めて十度を超えました」と告げました。


 それを聞いて、春の息吹を感じたくなった私は、助手席側のドアウィンドウを少しだけ開放しました。すると、小さな隙間から颯颯たる涼風が勢いよく流れ込んで、車内が一瞬で潮の匂いに満たされました。


 日本全国どこでも同じ海の薫香は、ここは何もない隔絶された土地ではなく、歴々として日本の風土に黙座していることを感じて、私の中の煩慮が薄紙を剥ぐように溶融していきました。


 そして、再びウィンドウを閉め切ろうとするや、香苗さんは「そのまま開けておいて」と言って、ハイライトに火を点けました。


 運転席側のウィンドウを全開にした香苗さんから吐き出された煙のほとんどは、車外へ消え去っていきましたが、一部の煙が魔法のランプから放たれた煙のように揺らめきながら、私の方へ纏わりついてきました。


 驕傲な社長と同じ銘柄から放出されたその煙の臭いは、一瞬で私を生理的な嫌悪へといざないました。


「香苗さんは、ハイライト派なんですか?」

 香苗さんが喫煙者であることは分かっていましたが、「部屋が臭くなる」と言って、寮内では喫煙しなかったので、彼女がどんなタバコを吸っているのかは知りませんでした。


「一番好きなのはセブンスターさ。でも、タバコは今、一箱五百円くらいするっしょ。したから、社長のパチンコの景品タバコをたまに半額で買い取ってるのさ」


 香苗さんが社長と同じ銘柄の有害物質を吸い込んでいると、同じような有害人種になるような気がしてきました。と同時に、「香苗とエッチはしたと?」と言った社長の言葉が蘇活してきました。


 社長の愚問を想起すると、社長に対する嫌忌と敵愾が回生し始めたので、追い越す車両のナンバープレートの数字でおいちょかぶをしてみたり、全く別の思考回路を働かせて、脳内に投影された社長の顔をデリートすることに努めました。


 登別を通過して、室蘭に近づくにつれて、潮の香りから化学的な臭気が感じられるようになり、積載量の大きなトレーラーやダンプカーの通行量が多くなってきました。


 白老地区から続いていた何もない風景は、近未来映画に登場してくるSF都市のような銑鉄生産用の高炉群へと変貌してきました。


 赤信号で停止すると、香苗さんは、短くなった咥えタバコの最後の一服を深く吸い込んでから、灰皿で揉み消しました。軽く折れたフィルターに付いた口紅は、成熟した女性の深淵に存在するエロスを表出しているように感じました。


「見て、あれが三十六号よ」

 前方の左側歩道を凝視した香苗さんの視線を辿っていくと、褐色になったボロ布を纏って、原始人のような毛髪と髭を蓄えた路上生活者らしき浮浪者が私達のトラックへ向かって――札幌方面へ歩いてくるのが見えました。


 落ちぶれて遁世した身なりに反比例して、背中に棒でも入れたかのように背筋をピンと伸ばして歩く姿勢が滑稽千万でした。


「あの浮浪者、三十六号って呼ばれてるのさ。札幌から室蘭にかけて往復している目撃情報があって、そこを通る国道の名前、三十六号って渾名されたんだべな」

「何のために往復しているんでしょうかね?」

「それがなんでか分からんのさ。三十六号は、私が小学生の頃から目撃しているから、もう三十年も札幌室蘭の間を行ったり来たりしてるんだべな」


 信号が青に変わりました。香苗さんは、ゆっくりとアクセルを踏んで、三十六号の脇を通り過ぎました。歩道を歩く三十六号を間近で見た私は、彼の年齢を推察しようとしましたが、日焼けと垢で黒くなった皮膚と状態からは、実年齢を推測するのは困難でした。


 香苗さんが三十年程前から目撃していることと、歩様と姿勢から推認すると、六十歳前後くらいの年齢でしょうか。


「三十六号は、どんな理由で浮浪者になったんでしょうね?」

 私は、彼の人生がなぜ転落したのか気になりました。


「騙されて気が狂った、という噂は聞いたことあるけど」

「騙された?」

「不動産屋を経営していた時に、国道三十六号線に地下鉄を敷設するという詐欺話に引っ掛かって、沿線の土地を買い漁ったんだって。それで会社は倒産して、大金持ちからド貧乏に転落して一家離散。挙句の果てに、精神状態がおかしくなって、買った土地を今でも巡回偵察している、っていうのがあたしが聞いた噂。したっけ、哀れな話でないかい」


 銀行勤務時代、そのような話は、作り話ではなく実話としてたくさん経験してきたので、三十六号が浮浪者になった噂話はあながち嘘ではないかもしれません。


 バブル景気の時、青天井に膨張する経済の中にあって、身の丈以上の投資をしている調子者の社長に対しても、銀行は営業成績を上げるために巨額な融資を継続していました。


 社会の全てが、背伸びをした経済で潤っていた時代だったのです。東京近郊のゴルフ場へのヘリコプター移動、ミニカー収集のようなスーパーカーコレクション、軽井沢と清里での別荘購入など、プライベート使用にも関わらず、銀行は設備投資あるいは運転資金として、青二才の社長へも一億円単位で融資をしていました。


 東京の地価は、僅か一年の間に二倍三倍と急上昇したエリアもたくさん有りました。それが一転して、バブル経済が崩壊するや、巨額な借金を抱える債務者をもたくさん生み出したのです。


 ランボルギーニの助手席に愛人を乗せていた社長が、リアカーの荷台に段ボールを乗せて廃品回収の仕事をしている姿を目撃したこともありました。


 とはいえ、そのような類の人間は、竜宮城で酒池肉林するような放蕩三昧の快楽人生を一度は味わったわけですから、現状のマイナス人生との差し引き計算をしても、プラス人生あるいはプラマイゼロ人生と言えるのかもしれません。


 果たして、三十六号はどんな人生を歩んできたのでしょうか。愛人を何人も囲っていたような金満社長であったならば同情する余地はなく、ザマアミロという気持ちさえ抱きます。


 対して、純粋に事業計画を推進していたにも関わらず、詐欺に遭って転落してしまったのであれば、三十六号には哀憫の情を感じてしまいます。


「香苗さんは、その噂は本当だと思いますか?」

「本当でも嘘でも、あたしには関係ないっしょ。したけど、三十六号を目撃すると、社会に役立ってもいないのに、そやって生きるのも有りだ、って言われているようで、なんか元気をもらっている気もするさ」


「ああいう浮浪者でも、廃品回収の小銭稼ぎのために、捨てられたゴミを拾っているわけだから、少しは社会の役に立っていると思いますよ」

「そう言われれば、そだね。したら、あたしは何か社会の役に立ってるんだべか」


 香苗さんは、左サイドミラーで巻き込み確認をして、左へハンドルを切りながら自問自答するように呟きました。


「国会議員だって全員が社会の役に立っているようには見えないし、個々の社会貢献度は、深く考える必要はないんじゃないですかね」


 私は肯定も否定もしないグレーな汎用的返答をしました。今の私も、社会に役立っているかどうかを問われれば、言葉に詰まってしまいます。深く考えたくはありませんでした。



(つづく)

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