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8話 下衆な雇い主

 救いとしては、社長は私よりも十歳ほど年長だったことと、九州弁の安穏な語尾が、我慢の閾値を引き上げてくれたことでした。


 もし社長が年下で、人品骨柄を否定されるかのような罵詈を浴びせられたなら、組織における忍耐力を養ってきた流石の私でさえ、とっくに堪忍袋の緒が切れていたかもしれません。


「食用として出荷できそうな馬を二頭選んでみんしゃい」

 社長がいきなり命じてきました。


「食用と言われましても、私には判別することが……」

「テストばい。どれか選んでみんしゃい」


 毛艶が良い馬が肉質も良さそうとは思うのですが、吹きさらしの肥育場に囲われた馬達は、どれもが冬毛が生えていて、馬体には光沢感がまるでありませんでした。


「社長、申し訳ありません。私にはまだ選ぶことができません」

「『ことができない』ってのは、英語で言うとキャンノットやけん、おまえさんは能力が無かと?」


「はい、能力がありません」

「それならそうと、最初っから能力が無いって言いんしゃい。そしたら、こっちだって素直に教えちゃるばい」

「はい、すみませんでした」


 社長の揚足取りな口撃は、現任訓練の範疇を逸脱した、もはや虐めとも言うべきものでした。行き場のないシニア世代を雇用してやったという優越感なのでしょうか。


 確かに、もし私がここを辞めたとして、すぐに転職先を見つけることは簡単ではありませんし、年金を支給される年齢までは生活を維持するために働かなくてはなりません。したがって、短気は損気、我慢するしかありません。


「寒い時季は、バラ肉が人気あるけん、肥えた馬から出荷するたい。つまり、集団の中で力が強かった馬が、たくさん食べて太って、そげな馬から真っ先に屠殺されて食われちまうんだから、滑稽なことばい」


 競馬は速い馬が強者となって生き残っていきますが、引退した馬は強者から廃用されてしまう。なんとも皮肉な経済動物です。


「馬は一日に二十から三十リットルの水を飲むけん、朝昼晩は巡回して水桶を確認せないかん。おまえさん、明日からそれを日課にしてくれん?」


 社長はそう言って、皺苦茶になったハイライトの紙箱からタバコを取り出して、火を点けました。眉毛を釣り上げてタバコを吸いこむ社長の額には四本の横皺が表れました。


 機嫌がいい時には軽く眉毛を上げるだけなので、横皺は三本だけ表出しますが、機嫌が悪いとその本数は最高五本にまで増えます。


「はい。しかし、隆雄さんからは生産馬の飼葉作りをするように、と言われておりまして、生産馬と肥育馬の両方をいっぺんに餌やりするのは、私一人では大変だと思うのですが」


 額に五本の横皺をつくった社長は、これは命令であるという目遣いを放ち、口角を上げるや、タバコの煙を私に向けて吐き出してきました。


「あんた、『はい』って真っ先に返事したとに、餌やりできらんとは、どっちね?」

「最初の『はい』は、社長が仰った事を理解しましたという意味で、餌やりをする行動につきましては不可能である旨をお伝えした次第です」


「隆雄は、馬を少しでも高く売るために、馬主への営業を重点的にさせるけん、おまえさんは香苗と協力して、生産馬と肥育馬の面倒ばみてんしゃい」

「はい。かしこまりました」


 この場は、社長に帰順するしかありません。私は了解の意を社長に伝えながら、ここの人間関係の強さも、肥育馬の屠殺順と同じになればいいのに、という社長への怨嗟が私の心底を涵し始めました。


「香苗とエッチはしたと?」

 単刀直入、今までの会話とは全く脈絡のない愚問を、社長は投げかけてきました。思いついたことを咀嚼しないままに、脳と口が直結している単細胞人間なのでしょう。


 返答に困った私の表情を汲み取った社長は、

「そうか、まだか。香苗はバツイチやけん、あんたの好きにできる女とね」

 と、男尊女卑的な言振りをしました。万物は己を中心に流転しているのでしょう。


「最初は、香苗を隆雄の嫁にと思うとったばってん、隆雄はバツイチ女とは結婚しとうないらしゅうて、人間の男と女は、馬の交配のようには上手くいかんもんたい。隆雄の嫁が見つからんば、この先、わしの種も途絶えるけん、どげんすればよかとね」


 微かな嘆息混じりの社長の言葉尻からは、自分の子々孫々が継続しない寂寥の翳が一瞬だけ浮かび上がりました。しかし、社長のような高慢ちきな傲岸者の血胤は淘汰された方が、ハラスメントやストレス社会の軽減に寄与するのではないでしょうか。


「ところで、あんた、子供はおらんやったか?」

「はい」

「なして作らんかったと?」

「そればかりは授かりものですから」

「授かるもなんも、子供は授けるもんたい。あんた、種無しとね?」


 一般企業であれば、淡田社長のハラスメント発言はレッドカード……一発退場処分に相当することは間違いありません。しかし、同族ワンマン経営者に雇われた従業員が、社長へ異議を申し立てることは、自らの退場を意味します。


 二十代の血気盛んな頃でしたら、私も上司に具申することも少なくはありませんでした。


 しかし、役職者になった頃から、周囲の異なる意見を調整して組織を束ねることで、高い人事評価を得られることを体現してき私は、長いものに巻かれる――上役に無抵抗であることが安寧秩序であると涵養されてきたのです。


「そうかもしれませんね」

 私の口を突いて出たのは、社長の言葉を全否定することもなく、私の生理的欠如を肯定することもない言葉でした。


 実際、子宝に恵まれなかった私と元妻は、妊活における医学的異常もなかったので、文字通り、授からなかっただけのことでした。


 原因があるとすれば、平日は終電帰りで、休日は接待ゴルフ三昧だった私の生活リズムとストレスだったかもしません。


 社長は、フィルター近くまで短くなったタバコを根元まで吸い込み、

「肥育場におるオスは、去勢させとるばってん、みんな種無したい。あんたの仲間やけん、仲ようせんばな」

 と、口と鼻から煙を放散しながら言い放ちました。


 銀行員時代には遭遇したことのない、この下衆な人種に対して、私の沸点が限界に達しそうになった時、社長の遥か後方に鎮座する樽前山の溶岩ドームが目に飛び込んできました。


 遥か昔に高温で噴出したマグマが冷え固まった大自然の遺存物と、刹那に激する私心を比較すると、矮小で愚盲な社長に憤怒することが馬鹿らしくなって、私の漲った血潮が沈静化していきました。


 肥育場から一歳馬の馬房へ戻ると、眉間に縦皺をつくった隆雄さんが、

「どこへ行ってたんですか?」

 と、私に対して初めて語気を荒げて問い質してきました。


 野卑で奸悪な社長の舌鋒は、方言による語尾のイントネーションによって、多少は柔軟化されて聞こえるのですが、苛立った感情を押し殺すことなく発した隆雄さんの標準語の語勢は、金属的な重みと冷たさを伴って、私の肋骨を刺激しました。


「社長と一緒に、肥育場の馬へ餌やりに行ってきました」

「だったら、僕にそう言ってから一歳馬の馬房から出ていくべきじゃありませんか? 馬は食後に急に疝痛を起こすことがあるんです。放っておいたら死んじゃうんですよ。何百万円もする新車が乗る前に廃車になるのと同じことなんです。そうなったら、浪塚さん、あなたはその損失を補ってくれるんですか?


「申し訳ございませんでした」

 私は、社長の一方的な勢いで連行されたようなものでしたが、それは黙したまま、隆雄さんへ畏まった謝意を述べました。


「以後、気をつけてください」

 隆雄さんは、不満なことがあると相手の言い分を聞かずに、一気に自己の見解を捲し立てる気質ということが分かりました。


 このような人間は、部下にミスを押し付けて、自己の責任を回避する保身術が身についた中間管理職に多いタイプであり、全幅の信頼を置くことができない、私の苦手な種族です。

 

 あの親子の本心には気をつけた方がいい、と言った香苗さんの示唆がわずか数時間のうちに了知することになりました。


 最高幹部と中間管理職が、設定した目標達成のための業務オペレーションを統一しなければ、組織は迷走し、延いては業績悪化へと転落しいきます。


 淡田牧場の経営者は社長で、中間管理職は隆雄さん一人だけなのですから、部下を統率する指示系統は、親子で綿密に意思疎通していただきたいものだと、私はこの牧場へ来てから初めて不満を感じました。



(つづく)

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