7話 日々の仕事
翌朝、私の仕事は、隆雄さんから飼葉――馬の食事の作り方を学ぶことから始まりました。
牧場に来る前は、馬は草と人参だけを食べているのかと思っていましたが、サラブレッドは速く走るための体型を作るために、草だけでなく、穀類と豆類、そしてビタミン剤を組み合わせた混合飼料を、一頭ごとに配合のバランスを変えて、飼い葉桶に盛り付けて与えていたのです。
青草を食むことができない秋冬は、干し草だけを摂取していると便秘になりがちなので、その時期だけは便通改善のために人参などの生ものを与えるのだそうです。
馬は、人間と同じく糖度の高い野菜や果物を好む傾向にありますが、それらを過剰摂取すると太り過ぎてしまうので、競走馬に相応しいアスリート体型にならないのだそうです。
また、一頭ごとに腸内環境も違いますし、それぞれに適した飼料配合とサプリメント量を調整した飼葉を作らなければならないのです。
隆雄さんは、「飼料配合のやり方は、ノートに書いておきました。これを見ながら、その日の馬の体調に合わせた飼葉を、今日から浪塚さんが作ってください」と言って、手書きのマニュアルノートを差し出してきました。
「体調の良し悪しは、どこで分かるのでしょうか」
「馬体の毛艶と目の輝き、そして放牧から帰ってくる時の歩様ですね。毛艶については、とにかくピカピカに光っている状態が健康な証でもありますが、寒い時期は冬毛が生えているので、毛艶だけで体調判断するのは難しいと思います。食欲とか息遣いとか、総合判断が必要ですね。そのためには、元気な時の馬の状態を一頭一頭覚えておいてください」
「ご教示、ありがとうございます」
「またまた浪塚さんは、ほんとに堅いなあ」
「私のようなシニア世代を雇っていただけましたことを、たいへん有難く思っておりますので」
「雇ったのはうちの親父です。だから僕は雇用主じゃなくて、同僚ですよ。浪塚さんよりもこの仕事が長い分だけ先輩ではありますが、僕は上司じゃありませんので、そんな感じの付き合いでお願いします。ですから、『ご教示』とか『ございます』っていう言葉遣いはやめてくださいね」
「はい。分かりました」
「では僕は、夜間放牧していた一歳馬を集牧して行きすので、浪塚さんはノートを見ながら、飼料を準備しておいてください」
隆雄さんが厩舎を離れた後、私は厩舎横の飼料庫に入って、マニュアルノートに書かれた内容を読み上げていきました。「馬が戻ってきた段階で、疲れているようであれば大豆の量を増やす、下痢気味であれば整腸剤を投与する」などと、馬の体調を考慮した飼料の作り方が懇切丁寧に書かれていました。
「それは、業務引継書だべさ」
飼料庫のコンクリート壁に香苗さんの声が反響しました。声の方向へ顔を向けると、今喋った香苗さんの言葉が白い息に化けて、寒気の中を漂っていました。
「引継書?」
「そう。浪塚さんが一通り仕事ができるようになれば、隆雄さんは楽できるっしょ。浪塚さんを早く一丁前にして、隆雄さんは馬の営業に専念したいと思ってるんだべな」
「隆雄さんがそういう考えだとは知りませんでした。だとすれば、馬を扱うのは重労働ですし、わたしよりも若い人を雇うべきだったのではないでしょうか」
「今の若い人は、牧場仕事のような泥臭い仕事は嫌いっしょ。今まで何人か試しに雇ってみたんだけど、早くて一日、長くても一週間で辞めていったわ。だから、転職するには一苦労しそうな、行き場のないシニア世代を雇った方がいいってことで、浪塚さんを採用したんだべさ」
「そういう理由だったんですか」
「それに、浪塚さんが還暦を過ぎても働いてくれれば、高齢者雇用助成金がもらえるとかで、給料負担が減る、って淡田社長が言ってたさ」
「私は、いろいろと打算込みの採用だったんですね」
「したっけ、あの親子の本心には気をつけた方がいいと思うわ」
「たしかに社長は、高腰な物言いですけど、隆雄さんは仕事を丁寧に教えてくれますし、今のところ私とは良好な関係だとは思います」
「今のところは、ね。そのうち分かるべや」
言うだけ言うと、香苗さんは飼料庫から繁殖牝馬のA厩舎へと向かっていきました。
上司あるいは先輩が楽をするということは、すなわち後人が育つことであり、組織の発展をも意味します。隆雄さんが生産馬の営業に専念するならば、牧場の売上増大を図ることでもあり、それは歓迎すべきことだと思うのです。
香苗さんは、馬の命に係わること以外は、サービス残業を全くしない人でした。それは、現代的な働き方としては、もちろん正統的な考え方ではあります。
対して、小規模家族経営の社長と隆雄さんは、労働基準法の適用外ですので、就労規則には疎い面があり、それが香苗さんの合理的な考えと離隔しているのでしょう。
一歳馬八頭分の飼い葉桶に、基本ベースの飼料を投入し終わったところで、ボス馬を引き連れた隆雄さんが厩舎へ戻ってきました。
一日の行動を習慣化されて、集牧後の食事タイムを理解している馬達は、御することもなくボス馬の後ろに隊列を作って厩舎内に入ってきました。
一頭ずつ仕切られた馬房内へ各馬を導き入れた私は、隆雄さんの指導に従って、各馬の体調に合わせた飼料追加をした飼い葉桶を馬の前にぶら下げました。
朝飼いと飲水の提供を一通り終わると、隆雄さんは繁殖牝馬の馬房へ当歳馬の様子を見に行き、私は各馬の馬房に入って、馬体に異常がないかを確かめながらブラッシングするルーティンワークに取り掛かりました。
淡田牧場の馬は、比較的安い種馬と交配された仔馬ばかりとはいえ、一歳馬八頭の売却目標価格は全頭で最低四千万円で、それを下回ると赤字だそうです。
もし脚にケガを負って、競争能力を失ってしまうと、その金額分の損失を丸ごと負うことになります。
ですから、破傷風やフレグモーネ――傷口からバイ菌が侵入することによる炎症――を避けるためには、些細な傷でも見逃すわけにはいきません。
一歳馬のブラッシングと馬体確認を終えたところで、淡田社長が厩舎にやって来て、「肥育場の馬の餌やりを教えちゃるけん、一緒に来んしゃい」と権高に言い放つや、「おい、これ」と言って、私の眼前五センチほど先に鍵を突き付けてきました。
「これは?」
「これはって、馬鹿かね? おまえさんがスノーモービルを運転しんしゃい」
面前に鍵を呈することがスノーモービルを運転する意味だとは、私の脳では即座に理解できませんでした。もう少し丁寧に、「これで運転」とか言ってくれれば、すぐにその含蓄を斟酌できたと思うのですが、社長は自らの説明不足の責はどこ吹く風の表情でした。
その不善な態度と、人を「馬鹿」呼ばわりした言葉の暴力に、私の脳内には社長に対する厭悪の念が生起し始めました。障害競走中の馬が落命した瞬間に表顕した、他者の死を喜んだあの邪悪な心が、私の心奥に再び湧出してきたのです。
私の脳幹の深いところで巣窟していた黒い影が、幾重もの棘をもった悪鬼となって私の脳を突き刺し始め、顔の神経線維に軽微な電流が走破し、下瞼が小刻みに震え出してきました。
それに気づかれたくなかった私は、心とは裏腹に、
「至らずに申し訳ございませんでした」
と言って、社長から鍵を受け取って、顔を背けました。
後ろに社長を乗せたスノーモービルを運転した私は、肥育場への道中にあるリリーエンドの墓を拝もうとして、墓前でスノーモービルを停止させました。
すると社長は、声高に「墓に要はなか。早よう行きんしゃい」と癇癪を起した子供のように喚いて、私を叱責しました。
「かしこまりました」
社長に言われるや、私はアクセルレバーを押し込んで、スノーモービルを発進させました。このような輩には面従腹背するのが一番です。
肥育場には、牡馬十五頭と牝馬十頭が、それぞれ五十平米ほどの囲いの中に押し込められていました。人間の姿を認識した馬達は、嘶いたり前掻きをしたりして、早く早くと飼料を要求し始めました。
私は、社長に言われるがままに、肥育場に設えたサイロから運び出した干し草を馬達に投げ入れました。待ち侘びた餌に一斉に群がると思いきや、集団内に序列ができているようで、強そうな馬から順番に干し草を食べ始めました。
肥育された将来は死が待ち受けているにも関わらず、それを知らない馬達は集団内の統制を図るために序列を作っているのです。哀れな光景でした。
「オスは闘って序列を決めよるばってん、メスは知らんうちに序列が出来上がるばい。人間社会と同じで面白か」
男は武力で他者を制圧し、女は威力で他者を従順させるのは、生きとし生けるものの本能的行動なのでしょうか。さしずめ、社長は雇用主という圧倒的な立場――権威勾配の頂点に君臨して、陰湿に被雇用者をマウンティングするメスタイプだと言えましょうか。
組織における序列は、サラリーマンを長く続けてきた私には理解できることですが、淡田社長のように他人を頭ごなしに罵倒するタイプの人物とは、今まで接点がありませんでしたので、適切な受け答えの仕方に苦慮しているのが本音ではあります。
(つづく)