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6話 死を喜ぶ

「おかえり。馬の埋葬は大変だったっしょ」

 帰寮すると、キッチンで料理を作っていた香苗さんが、労いの言葉を掛けてくれました。


「二メートルも掘るとは思いませんでした」

「春になったら、ここら辺まで熊が降りてくるからね」

「熊、見たことあるんですか?」

「あたしは一度も見たことないさ。でも、痕跡ならあるわ」

「痕跡?」

「三年前の夏、外で飼っていた社長の愛犬が、朝になったら頭だけになっていたのよ。熊が首から下を咥えて持ち去ったらしいの」


 社長宅は寮と同じく牧場の敷地内にあります。ということは、山から牧場のある平地まで熊が降りてくることは珍しくないのでしょう。

 香苗さんは、実際に熊を見た経験はないようですが、野生動物の行動が活発になる朝晩は気をつけた方が良さそうです。


「生きたまま殺られたんですかね」

「犬の頭に抉られた傷跡があったから、犬は殴られて一瞬で気絶したんだべな。したらば、社長は『気を失っている最中に首輪から引き千切られたはずやけん、おそらく犬は苦しまずに死んだはずばい』って言ってた」

「リリーエンドの殺し方と同じですね」


 馬の屠殺は隆雄さんの仕事でした。屠殺方法は、まず最初にノッキングガンの銃口を馬の眉間に当てて、引き金を引きます。


 すると、一センチほどの細い金属棒が銃口から飛び出して、眉間に突き刺さるのです。当然、馬は一瞬で意識を失って、地面に崩れ落ちます。


 そして、すぐさま動脈にナイフを突き刺して、失血死させるのです。家畜は安楽死させてから解体するのだと思っていたのですが、死んでから血抜きをすると固まった血が肉に残留してしまい、商品価値を損なってしまうらしいのです。


 だから失神中に、つまり生きているうちに血抜きをして、失血死させてから解体するのだそうです。リリーエンドは病気持ちだったので、食肉には転用しませんでしたが、肥育馬と同じような手法で屠殺されたのです。


「リリーエンドは、あたしがここに就職した時に産まれた子っこだったのよ」

「すると、二十年の付き合いですか。愛着も一入の馬だったんですね」

「リリーエンドは普通に競走馬になれたから、現役時代はここにいなかったし、実際は十年ちょっとの付き合いだけどね」


 リリーエンドは、中央競馬と地方競馬で九歳まで走り続け、引退後に牧場へ帰ってきて、昨年まで毎年仔馬を産んだ牧場孝行の繁殖牝馬だったと、香苗さんは説明してくれました。


「育てた馬が屠殺されるのは悲しくないですか?」

「経済動物の宿命だべさ。屠殺される時が寿命だった、と思うようにしてるさ」


「香苗さんも社長に近い考え方なんですね」

「馬はペットでも友達でもないっしょや。したっけ、生産牧場での仕事が長くなると、自然とそういう考えになるっしょ」



「でも、役に立たなくなったからと言って、殺してしまうのは……」

「可哀想って言いたいんだべか」


「ええ」

「じゃあ、どうすれば?」


「せっかく広い放牧地があるのですから、放し飼いにしてあげるとか」

「毎年、繁殖牝馬が入れ替わるとして、十年も経てば放牧地には、競馬で稼ぎもしない、子供も産まない十頭のメス馬がいることになるっしょや。一頭の馬が草をなんぼ食べるか知ってる?」


「四六時中、草を食べているから、一日数キロは食べそうですね」

「一頭当たり、毎日十キロ以上は食べるのさ。したら、十頭で一日百キロの草を平らげることになるわけ。そうなったら、現役の繁殖牝馬と仔馬の食べる牧草が無くなっちゃうべさ。だから、するべき仕事がない馬は、廃用にするしかないんでないかい。それはあたしの考えじゃなくて、経済動物に対する考え方っしょや。競馬を引退した馬も、乳が出なくなった牛も、最終的には肉と革製品になって、あたし達の役に立ってくれるわけだし、畜産農家はそれが飯の種なんだべさ」


 人間の手によって命を授けられた経済動物は、命ある時は働けるだけ働かされて、廃用後は頭から尻尾の先まで肉と加工品にされる運命が待ち受けているのでした。


 人間の食生活を維持繁栄するために、合理的追及をした結果が野生動物の家畜化です。狩猟の負担から脱した人間は、やがて豊かになり、動物を愛玩したり戦わせたり、経済動物の意味合いの中にはペットと娯楽も含まれるようになってきたのです。


 その結果、愛でた経済動物が廃用される時に、可哀想という感情が芽生えてしまうのでしょう。畜産経済における家畜の飼育は、金融経済における貨幣の運用と同じように、無機質な商品として認識した方が気が楽になりそうな気がしてきました。


「食べる?」

 包丁を置いた香苗さんは、切った食材を皿に盛りつけながら、訊いてきました。

「なんですか、それは?」

「馬刺しよ。今朝、社長が肥育場から加工センターへ、昔で言う屠殺場なんだけど、そこへ運んで行った馬のお裾分け」

「馬の肉はちょっと……。今日、馬を埋めてきたばかりですので」

「あら、そう。今日の今日じゃ、やっぱり刺激が強過ぎたべか」


 穴に落としたリリーエンドは、自らの重さによって腹が裂けてしまい、そこから消防ホースのような太さの腸管が飛び出し、透徹した寒気の中を湯気だけがゆらゆらと蠢いていた場景が、モノクロでフラッシュバックしてきました。


 あまりにも強すぎた刺激からの防衛反応によって、私の大脳皮質が色彩の記憶を滅絶したようで、穴の中だけが黒白の濃淡で脳内に映射されました。


「北海道でサラブレッド生産に携わる人は、馬を食用と見なしていないので、馬肉を食べないって聞いたことがありますが、そうでもないんですね」

「淡田社長がここに来る前は、あたしだって馬肉は避けてたさ。でも、社長から『食べて供養だ』って教えられて、試しに食べてみたら美味しかったし、それで今では抵抗なく食べられるようになったわけ」


 哺乳類を食すことにおいて、多くの人がそうであるように、私も牛と豚は物心ついた時には既に食用としての概念が植え付けられていたので、命を戴くことへの感謝、すなわち供養する気持ちなど微塵も持たないままに食べてきました。


 自らの命を継続するために、他者の命を没却して生きてきたことは、食物連鎖の頂点に立つ人間の営みとしてならば正論化されるべきことでしょう。


 しかし私は、今思えば罪深いことだったのですが、娯楽に使役された馬が落命した時に、本気で喜んでしまったことが過去に一度だけありました。それは、競馬好きの友人の予想に乗っかり、大穴馬券が的中した時のことでした。


 競馬に詳しくない私は、百円の馬券が数十万円の配当になると予想した友人の買い目をそのまま信じて、テレビに映るレースを見ていた時、竹柵や水濠を飛越する障害競走で、断然の一番人気に支持されていた馬が障害物から着地するや、右前脚を滑らせて転倒してしまったのです。


 全体重が負荷された前脚は、蛸の足のように柔らかく拉げてしまい、首は百八十度反り返って、頭部と背中が縫い合わされたように密着していました。即死です。私と友人は、その映像を見た瞬間、「やった!」とガッツポーズを決めました。


 この人気馬が競争中止になったおかげで、二番人気馬が一着となり、友人が予想した低人気馬が二着三着に入線し、三連勝単式馬券――一着二着三着を順番通りにあてる難度の高い馬券――が的中したのです。配当は、三十五万円にもなりました。


 友人は、「あの馬が落馬したおかげで、配当が十倍は増えた」と言い、高額配当を手に入れた私も、咄嗟に「ラッキーだった」と口走りました。しかし、「ラッキー」と言った直後、その言葉は一番人気馬が絶命したことによって齎された幸運であったことに気づいたのです。


 その時私は、死から得られた富を喜ぶ邪悪な利己主義が、私の心奥に棲息していたことに驚きを覚えたのでした。それはまるで、死肉を食らうカラスと同じ欲望だったのかもしれません。



(つづく)

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