5話 寮の異性
淡田牧場は、隆雄さんがサラブレッド生産担当で、淡田社長が食肉担当です。いわば、息子が馬の命を創り、親父が馬の命を絶つ役割りです。
対極的な役割分担がそうさせているのかは分かりませんが、ダービー馬の生産を夢見る隆雄さんは、強い馬づくりを目指している生産馬には、金に糸目を付けない飼料配合をしています。
対する淡田社長は、「動物園行きの馬に、旨い餌を食べさせても無駄だべ」と言って、低廉な飼料しか与えていません。
元銀行員の私から鑑みると、隆雄さんは、バブルの頃の投資家と同じで、夢追い人はいつかは破綻する運命が待ち受けているでしょうから、馬の販売想定価格を設定した原価管理が必要だと思っています。
一方、社長は倹約家で原価意識が強いとも言えますが、単なる姑息な拝金主義者といった感じです。なにしろ、リリーエンドの土葬理由は、高齢馬ゆえの低廉な買取り査定額を考慮すると、運搬費などの諸経費で赤字売却になってしまう、という守銭奴的理由からだったのです。
このようなタイプは、コツコツと小金を貯めつつも、いつかは何らかの事情で一気に大金を失ってしまいがちな人が多いのです。
お金の使い方と貯め方については、私の方から着実なアドバイスをしたいところではありますが、いかんせん勤務してからまだ二週間の私からは、ずけずけと献言するわけにもいきませんので、私の仕事が一丁前と認められた段階で、いずれ経営分析論的な経理アドバイスができれば良いかなと思っています。
淡田牧場の規模は、繁殖牝馬厩舎に母馬と当歳馬が一緒に過ごす馬房が八つと、離乳した一歳馬と売れ残った二歳馬を飼育している厩舎に十馬房だけの零細経営です。
肥育場の馬は、仕入れと出荷の時期がまちまちなので、滞在している馬の数は一定ではありませんが、概ね数十頭から五十頭くらいの間で推移しているようです。
競馬界の動向として、三歳秋頃までに一勝もできなかった馬が大挙して引退するらしいので、毎秋は食肉用としてのサラブレッド仕入れ価格が安くなるとのこと。
中には、市場セリ価格で一億円で売られた馬もいるようなのですが、脚にケガを負って引退した馬は乗馬にもなれずに、その仕入れ値は五万円だったそうです。
競走馬を金融商品と考えれば、恐ろしい程の暴落率を孕んだ投資対象です。ですから、サラブレッドへの投資は大きな利回りを期待するというより、大きなレースを勝ちたいという名誉欲のための道楽的金融商品と言えましょう。
私は、人生の安定を求めるがゆえに、一心不乱に銀行業務を全うしてきましたが、振り返ってみると、人生における楽しみも銀行の利息並みに微々たるものでした。
いや、むしろ、妻もいなくなり、東京では雇用させる機会も見つけられなかったのですから、現段階までの人生はマイナス金利だったと言えましょう。
穴が二メートルに達するまで、さらに一時間を要しました。最近では、労働の喜びとでも言いましょうか、具象的な成果を視認できるガテン系の仕事の充実感による脳内モルヒネの分泌が、私の神経を安寧にさせるくれます。
ランナーズハイにも似た愉楽的で多幸的な肉体疲労感が、私の心をトランス状態の深潭へといざなってくれるのです。
予めトラクターに結び付けていたロープを手繰って、掘った穴からよじ登ると、太陽は山陰に隠れて、薄暗くなっていました。
カラスは、不動のままに、使者の役目を継続しています。リリーエンドは、今や魂のない形骸と化したとはいえ、奴らの胃袋へ提供するつもりはありません。
人間の都合で廃馬にされて、最期は鳥獣の餌になるなんて、それはあまりにも悲惨過ぎます。
カラスの動静を気に掛けながら、私はリアカーの後部を穴に近づけて、荷台を下へ傾けました。すると、分断されていた部位は纏まって穴隙へと落下し、一番重い胴体が地面にぶつかった時の鈍重な音は、幽冥界が開扉した音のように感じられました。
埋葬後、繁殖牝馬の夜飼い――晩御飯の手伝いを終えて、その日の仕事が終わったのは夜八時でした。始業時間は毎朝五時ですから、仕事の拘束時間は十五時間になります。
途中、合計四時間の休憩があるので、法定労働時間プラス残業三時間が、私の毎日のルーティンワークとなっています。
淡田牧場の求人募集要項には、週休二日制と書かれていましたが、こちらへ来てから全休日となった日はまだ一日もありません。生き物を扱っている職業ゆえ、一日に何回も餌を与えなければならないので、人間が休暇をとっている暇がないのです。
しかし、今のところ私が疲弊し切っていないのは、仕事の段取りを全て把握できていないので、毎日がまだ緊張感の中で仕事をしているからかもしれません。
また、私が寝食している寮は牧場の敷地内にあるので、東京で経験していた鮨詰め満員電車による通勤ストレスがない分だけ、余計な疲れを上塗りすることもないのが幸いしているのだと思います。
寮は、平屋2DKで、二部屋を二人でシェアしています。築四十年を超えた寮は、玄関土間にある引き戸を開けると、すぐに四畳半ほどのダイニングキッチンになっています。
玄関を背にして、右側にキッチンと風呂場、そしてトイレが設えられており、左側に居住部屋が二つ連なっている構造です。部屋は隣り合わせになってはいますが、押入れが緩衝地帯となっているので、隣室のテレビ音が煩く感じることはありません。
部屋に籠っていれば、自分だけのプライベート空間で寛ぐことができるのですが、個人の生活が重なり合う共用スペースを使う時は、同居人である牧場の先輩に気を回さなくてはいけないのが難点でもあります。
しかも、その同居人が年下の女性なので、手狭な空間での共同生活には何かと隙意が生じてしまいがちなのです。
彼女――香苗さんは、この牧場が淡田社長によって買い取られる以前からここで働いている古参でもあるので、先住猫の特権とばかりに、私という男性の存在を全く気に掛けないマイペースで自己中な挙動をすることが多く、私は香苗さんの大胆な行動に気後れすることが多々あるのです。
面食らった出来事といえば、入寮して間もないある日、ボディにバスタオルを巻いただけの入浴後の香苗さんが、冷蔵庫の前で缶ビールを一気飲みしている状況に遭遇してしまったことがありました。
そんな露わな姿を男性に見られた時の女性は、「キャー」と言って、恥じらいを見せるのがステレオタイプだと思うのですが、香苗さんは自分の恰好のことは全く気にせずに「お疲れっす」と言っただけで、天井を仰ぎ見る角度になるまでビールをぐいぐいっと飲み続けたのです。
また、降雪が続いた日は、香苗さんは「干すところがないから仕方ないべさ」と言って、自室だけでなくキッチンにまで洗濯物――シャツや下着を吊るし始めたのです。
目のやり場に困った私は、キッチンの利用を極力避けるしかありませんでした。。仕事が終わってからのプライベート空間で、他人のペースに巻き込まれるのは精神的に宜しくありません。
異性的な魅力に欠落した女性ならば、こちらも気を遣うこともないのでしょうが、香苗さんは四十路が近いとはいえ、その挙動には自然と懐柔させられる妙な魔性美を持っていました。
胸まで伸びた濡羽色のストレートロングヘア―を掻き上げながら、流し目をした時の奥二重は、吸い込まれそうな程の艶麗な女性美を魅せるのです。
そうかと思えば、会話では男性的で磊落なさばさばした口調で喋る、まこと不思議な魅力をもつ女性なのです。
(つづく)