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4話 現実

 世の中は、理想と現実、表と裏のギャップが存在することは常ですが、勤務二週間にして淡田牧場の現実と裏の実態には閉口すべき事実がたくさん見えてきました。


 乗馬クラブというのは名ばかりで、競走馬登録を抹消――引退した後の転用目的を、便宜的かつ一時的に「乗馬」として登録するだけのことらしいのです。


 もちろん乗馬クラブに転売される馬もいることは事実ですが、多くは食肉か加工品に転用されてしまうのです。


 つまり、ハイセイコーのような種牡馬入りできる名馬以外のほとんどが、乗馬として再就職したかに見せかけて、すぐに乗馬からも廃用されて殺処分されてしまうのです。


 淡田牧場の定款には、間違いなく乗馬クラブと書かれていましたが、乗馬など一頭もいません。乗馬として淡田牧場にやってきた元競走馬は、すぐに乗馬としての登録を抹消されて、肉と馬油、そして皮革製品用に肥育される運命が待ち受けているのです。


 淡田牧場で乗馬登録抹消された馬は、墓場のある山を一つ越えた所の肥育場に暫定的に押し込められています。


 ですから、馬が牧場の表玄関から裏山へ移動させることは、肥育場か墓地へ行くことを意味します。すなわち、死への一方通行路なのです。


 肥育場の馬は、すぐに屠殺されるわけではなく、肉が柔らかくなるような飼料を与えられてから出荷されます。


 肉といっても全頭が人間用の食肉になるわけではなく、高齢の競争馬は肉が硬くて黒ずんでいるので、主に動物園にいる肉食獣のエサになるそうです。


 馬には重種、中間種、軽種サラブレッド、ポニー、そして在来種などの種類に分かれるのですが、そのうちのサラブレッドは比較的脂身が少なく、昨今のヘルシーな赤身ブームのおかげで、そこそこの売上は築いているようです。


 とりわけ、競走馬としての調教が始まる前に用途変更された馬――身体的欠陥で競走馬になれなかった仔馬――は、肉が硬くなっていないので、まずまずの価格で取引きされるとのこと。対して、速く走るためにビタミン剤を投与されて調教された馬は、脂身が黄色くなって、見た目が良くないので安価に取引されるそうです。


 北海道で乗馬クラブ勤務といえば、小さな頃に観た西部劇――ララミー牧場やシェーンを思い出して、壮大で牧歌的かつ浪漫的な心象を抱いてしまいがちですが、淡田牧場での勤務は人間の営みの根源を支える第一次産業の範疇を超えていませんでした。


 競走馬として生を受けたとして、走るだけ走らされた馬のほとんどは、産業廃棄物として処理されてしまうのです。


 私は穴を掘り進めるうちに、私の人生とリリーエンドの馬生には重なり合うものを感じ始めました。現役時代の私は、走りたくない日があっても鞭撻されて業務を遂行し、常に上のポジションを狙うために営業成績を上げることに尽力していました。


 それを繰り返すうちに、いつしか立ち止まることが不安になり、四六時中仕事に奔走していることで安心感を覚え、睡眠不足でも仕事をし続けることに自己陶酔していました。そして退職した今、仕事以外には何の取り得もなかった自分に気づいたのです。


 軟質な火山灰質の土壌は、野良仕事が似つかわしくない私でも、一時間後には馬を葬るには相応な大きさまで、苦労なく掘り進めることができました。


 リアカーの荷台に目を移すと、リリーエンドの瞼が薄く開きかけていました。確か、殺処分した場所でリアカーに積み込んだ時には、瞼は閉じたままだったはずです。


 馬の大きな眼球を覆う皮膚が乾燥した影響だと思うのですが、薄気味悪くなった私は、「屠殺したのは私ではありません。どうか安らかに。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と、どちらの宗派でも天国で成仏できるように、御念仏と御題目の両方を唱えながら、そっと指でリリーエンドの瞼を閉じてあげました。


 魂は無くとも、この馬の眼球に写った最後の影像が私になってしまったのです。祟りを恐れるあまり、もう一度、御念仏と御題目を唱え始めたところで、遠くから甲高いツーストロークエンジン音が近づいてくるのが聞こえてきました。


 音の方向に顔を向けると、スノーモービルに乗った厩舎長の隆雄さん――淡田社長の息子がこちらに向かって滑走してきました。私よりも一回り年下の隆雄さんは、牧場仕事が全く未経験な私に対して、懇切丁寧にイロハを教えてくれる好青年です。


 彼の身長は、私よりも頭一つ分ほど低い百六十セン程度ですが、背の低い男性ほどアグレッシブな性格――ナポレオンコンプレックスを絵に描いたように、小柄な体に似合わず溌溂と意欲的に仕事をする姿勢には好感が持てます。


 また、九州弁丸出しの社長に対して、標準語で話す隆雄さんとの会話は、生まれも育ちも東京の私とは波長が合っていました。


 スノーモービルを穴の手前で停止させた隆雄さんは、

「浪塚さん、穴の深さは一メートルくらいじゃ、まだ足りないです。これくらいじゃ、熊が死臭を嗅ぎつけて、掘り起こしちゃいますんで」

「もっと掘るんですか?」

「ええ、北海道はヒグマなんで、図体もデカいですから、少なくとも二メートルの深さは必要ですね。手伝ってあげたいところですが、一歳馬の集牧時間なので、申し訳ありませんが、浪塚さん一人であと一メートル掘り下げてください。よろしくお願いします」

 と、追加発注をしてきました。


「かしこまりました」

 語先後礼で私は応えました。


「浪塚さんは、相変わらず堅苦しいなあ。ここは銀行じゃないんだから、もっとラフにいきましょうよ」

 と、隆雄さんは片手を軽く挙げて、「じゃあ、よろしく」と言ってスノーモービルを発進させて、遠ざかって行きました。


 釣られて私も、「じゃあ」と呟いて、隆雄さんの後ろ姿が見えなくなるまで、片手を挙げて見送りました。


 長年の銀行業務は、顧客だけでなく、金融庁や日本銀行との折衝もあったので、長年染みついた礼節を重んじる態度は、なかなか改められませんでした。



(つづく)

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