2話 北の大地で
旧帝大の国立大学を卒業後、ホワイトカラー職しか知らない私が、シャベルを持って穴掘りの仕事をするとは、今までの人生において考えたこともありませんでした。
私の経歴をしたためた履歴書を見たハローワークの職員は、「引く手数多のご経歴ですよ」と言ってくれましたが、現実は厳しいものでした。
五十歳後半ともなれば、年下の社長も多く存在しますから、年長者を雇い入れることに抵抗があったのか、あるいは社長よりも高学歴だったことが嫌われたのか、面接した会社は三十社を超えましたが、正社員採用としては、どこからも色好い返事をもらえませんでした。
契約社員としてならば、消費者金融の取立て業務や、公共料金の徴収係などの仕事がありましたが、銀行業務から比べたらどれもが都落ちした気分になりそうで、自分のプライドが許せませんでした。
「年齢不問」「正社員希望」「五十五歳以上」「勤務地東京」の単語をハローワークのパソコンで選択ソートしても、抽出された人材募集データは、配管工やボイラー技士などの技術系資格をもったブルーカラー職ばかりで、銀行と同じような、私とマッチングするデスクワークでの正社員募集は皆無だったのです。
信用金庫に勤めていた大学の同級生は、同じように五十五歳で退職したのですが、彼は取引していた中小企業に経理職として転職を早々に決めていました。
資金繰りが大変な中小企業へ熱心に融資斡旋してきたおかげで、その会社の社長にいたく気に入られたとのことです。
対する都市銀行勤務の私は、上場した大手企業ばかりを相手にしていたので、客先の社長と会ったこともありません。
客先の経理責任者と懇意になったところで、数年でお互いに人事異動してしまうことが常でしたし、コネを有効に使うことはできなかったのです。
都市銀行と信用金庫では、ビジネス規模も扱う金額の大きさも違うことから、都市銀行時代の私は金融業の頂点にいることを自負し、信用金庫の仕事を蔑んでいました。
ところが、人的パイプ作りにおいては、ワンツーワンの性格が強い信用金庫勤めの同級生の方が勝ち組だったと言えましょう。
次なる就職口に悪戦苦闘している日々を過ごしていた私は、自分はすでに世間から役立たずのレッテルを貼られたのではないか、という自己嫌悪の沼に嵌まり出していました。
中学から大学まで学業成績は常にトップクラスで、就職は誰もが羨む都市銀行勤務。そんな自分がどこからも採用されなかったのです。
すると、今まで努力してきたことは一体何のためだったんだろうと哲学的に考え始めるようになりました。勉強が苦手で成績の悪い連中は、テストの点数のプレッシャーなど感じないで、好きなように生きているように見えました。むしろそっちの方が人間的で幸せな生き方だったのではないでしょうか。
失業給付金を支給してもらうためには、ハローワークへ月に一回は通って、就職活動状況を報告しなければなりませんでした。
しかし行く度に、雇用が決まらない私は焦燥感とともに、今まで構築してきた矜持が瓦解させられていく自分に嫌厭し、この世から消失したくもなっていました。それに追い打ちをかけて、妻が熟年離婚を切り出してきたのです。
「人生百年、これからは私は私で好きな事をして生きていきたいわ」
思い起こせば、私は仕事を最優先にした人生を送ってきて、妻のために尽くしたことなどありませんでした。有名銀行で出世することが、妻のプライドも高められて、彼女の幸せも満たされると勘違いしていたのです。
私の若い頃は、残業や休日出勤をすればするほど、高い人事評価を受けた時代でした。それゆえ平日は、ほぼ毎日が終電帰りで、土日は接待ゴルフ三昧の日々を送ってきました。
上司は「モーレツ」という言葉が流行った世代であり、私は「二十四時間働けますか」というCMが流行った世代です。会社人間として家畜化された、いわゆる社畜化人間が美徳とされ、仕事第一の人生を送ることこそが出世の鉄則だったのです。
我が家に子供がいれば、夫と妻は子供を鎹にして係累されていたのでしょうが、家庭を顧みなかった私と、休日もほったらかしにされていた妻との間には、乖離する斥力しか生まれなかったようです。
趣味が高じて日本舞踊の師範にまでなった妻は、仕事以外に取り得のない夫に愛想をつかしたのかもしれません。今思えば、妻と共通の趣味をもって、もう少し妻とコミュニケーションを深めていればよかったと悔やまれます。
記入済み離婚届を目の前に差し出されて初めて、私は不完全な夫であったことを内省したわけですが、時すでに遅く、妻の意志は揺るぎないことを悟り、離婚に同意したのです。
妻へは退職金と企業年金半額を渡すことで合意しました。住まいは、妻が出ていった後の4LDKは広過ぎましたし、いずれは高齢者用マンションへ居を移そうと思っていたので、残債を償却して売りに出すことにしました。
ところが、購入した時よりもタワーマンションの人気と評価額が下落しており、売却益を得ることはできませんでした。銀行の金を管理することには長けていましたが、私的な金を運用することは不得手だったようです。
物件の受け渡し期日までには職を見つけて、その職場近くでワンルームマンションを借りようと思っていたのですが、半年続けたハローワーク通いの進展は見られず、無職のままにマンションを立ち退くことになってしまい、しばらくハローワーク近くののビジネスホテルに泊まりながら、職探しを続けました。
相変わらず、私の希望条件に合致する求人案件はありませんでしたが、ある日「勤務地」の選択項目をチェックし忘れたところ、「勤務地北海道」「淡田牧場」がヒットしたのでした。
淡田牧場のハローワーク資料によると、「競走馬生産と乗馬クラブを併設したサラブレッド牧場。北の大地で乗馬を飼育しながら、ダービーの夢をみませんか」「年齢・経験不問。委細面談。寮完備」と書かれていました。
競馬については詳しくなかったのですが、私が小学生の頃に、ハイセイコーが国民的アイドルホースとして大人気だったのを思い出しました。
地方競馬で連戦連勝のハイセイコーが中央競馬へ移籍した後も、並み居るエリート馬をなぎ倒す強者ぶりは、高度経済成長期におけるサクセスストーリーの象徴として、競馬に興味をもたなかった層にも共感を集めたのでした。
なにしろ、私が毎週買っていた少年マガジンの表紙にハイセイコーの写真が大きく掲載されるほどでしたから、まさに老若男女を問わずの人気だったのです。
ハイセイコーを思い出せば思い出すほどに、小学生で純粋だった頃の私が蘇りました。「夢を見ませんか」というキャッチに魅せられて、心機一転、私は淡田牧場の採用面接を受けることにしたのです。
そして私は今、この牧場の寮に住みながら、毎朝四時起きの五時から勤務の生活を続けているのです。
(つづく)