14話 トドメの一撃
私が入行した当時の都市銀行は、新卒時の学歴――大学と学部によって、出世コースか脇役部署への配属かが既に決められていました。
遡れば、大学受験の時に出世するか否かの分かれ道だったのです。上層部は旧帝大の国立大学卒業者が多くを占めていました。
その上層部に引き立てられるのは、やはり同じ大学出身者でした。いわゆる学閥で組織が固められていたのです。
私の出身大学は、学閥の主流派だったことが起因して、学閥の先輩が出世する度にその腹心として私もポジションを上げていくことができました。
その出世スピードは、同期会に出席する度に羨望の的となる程のトントン拍子でした。しかし好事魔多しで、私が信望していた役員が失脚したことによって、私を役員へ推薦してくれる上長がいなくなると、私は部長よりも上役――役員へ上がることができなかったのです。
それに対して、私と同じペースで出世をしていた他の同期が役員へ選出された時、私は入行以来初めて彼に嫉妬を覚えました。
同期会による彼の役員就任パーティーへは、私は悔しさと嫉み妬みによる感情から出席することができませんでした。彼の役員就任は、私にとっての屈辱にさえ思え、彼の喜ぶ顔を見たくなかったのです。
役員になった彼には定年が存在しないのに対して、部長どまりの自分には役職定年が控えていることも、彼に対する物羨が激しく増幅したのです。
さらには、彼の地位を羨むだけでなく、私よりも出世した彼に対する鬱憤も累積し、その結果彼の人格までもが憎くなったのでした。
もちろん、彼が私に対して、何かしら誹謗したり悪態を吐いたことなど一度もなく、彼が私よりも先に出世するまでは同期の中でも気の置けない存在として心を寄せていた一人でした。
それなのに、私が出世レースの敗北者になった途端に、掌返しで彼を憎むようになったのは、他者よりも優位性を保っていたいという嫉妬心がそうさせたのです。隆雄さんの心の移ろいは、まさにあの時の私と同じだったのです。
私が飼葉を与えている一歳馬たちは、幸いにも体調に大きな支障をきたすこともなかったので、通常の飼葉に適宜ビタミン剤を投与するだけで、しばらくは問題ありませんでした。
ところが、四月中旬になって、日中の最高気温が十度を上回る日々が続くようになると、一歳馬たちの便が緩くなり始めて、ついには半数近くの馬が下痢気味になってしまいました。
下痢は、病気か感染症または寄生虫などから誘発されるので、とりわけ体質が強くない仔馬によっては要注意です。私の知識では対応できないので、
「下痢の症状改善方法を教えてください」
と、私は頭を下げて隆雄さんへ教えを請いました。
「あなたは頭がいいんだから、方法なら本やネットで調べれば、すぐに分かるだろ。調べる努力もしないで、聞けば分かるだろうと安直な仕事はしないでくれよ」
ガムを噛んでいる隆雄さんは、口中で粘り気のある音を立てながら、当て擦った悪意地に、かつ面倒くさそうに喋ってきました。
下僚への物言いと下品な咀嚼音からは、隆雄さんの卑賎な稟質が露見していました。僻心に染まったナポレオンコンプレックスの男は、女々しく陰湿に難癖をつけて、自己を優位に立たせようとする姑息な性根をひけらかしてきます。
下痢をした一歳馬を再び見に行くと、先程よりも体調が悪化したと見えて、目の輝きが失せて、さらに脚元を小刻みに震わせていました。早急な処置が必要なのは、馬産素人の私でも一目瞭然でした。
本やネットで調べたところで、原因を特定した対処法を講じることは容易ではありませんし、調べているうちに更に重篤な状態に陥るかもしれません。
馬の命に関わる可及的速やかな対処を施すためには、やはり隆雄さんの迅速な助言が必要だと考えた私は、再び隆雄さんへ教えを請いに行くことにしました。
「だから調べれば分かるだろ」
肥育場で馬の屠殺を始めようとしていた隆雄さんは、私の足元に唾を吐き捨てて、癇声を浴びせてきました。そして、手にしたノッキングガンを肥育馬の眉間に突き立てました。
嫉妬という人間的我意と個人的遺恨を剥きだした隆雄さんは、目前の肥育馬を直接的行動で殺すだけでなく、体調悪化した生産馬も間接的に殺すことを厭わない下衆な行動に出てきました。
隆雄さんにとっての馬は、命ではなくて単なる商品なのでしょう。肥育馬は屠殺して金に換えて、生産馬は売って金に換えるだけの単純作業であり、隆雄さんには命を通商しているという感覚は皆無であることが判りました。
いつもの決まった屠殺時間を知っているのか、あるいは屠殺する隆雄さんの妖鬼的雰囲気を察知したのか、肥育場の木々には何十羽ものカラスが集まっていました。
その異様な光景は、魔界からの使いを観客にした隆雄さんの凶行を潤色するには充分でした。
左手でノッキングガンの撃鉄を起こした隆雄さんは、右手の人差し指で引き金を引くと、ドスッと鈍い音を立てて金属棒が馬の眉間に突き刺さり、馬の胴体は達磨落としのように地面に落下しました。
あとは意識不明のまま動脈を切られて失血死させるだけです。ところが横臥した馬は、競走馬時代を思い出したのか、四肢を交互に動かせて走る真似をし始めました。
断末魔的な筋肉の痙攣というより、過去の記憶が蘇ったことによる本能の行動に思えました。隆雄さんのノッキングガンから放たれた金属棒が微妙に急所を外してしまったのでしょう。
馬は口から泡を吹いて、苦しみの吐息を大きく漏らしました。混濁しながらも意識が保たれているのが見て取れました。
痛みを感じているであろう馬に対して、隆雄さんは息の根を止めてあげるだけの優しさの片鱗も見せずに、命の終焉を楽しむかのように馬を見下ろしたまま微動だにしませんでした。
私は、馬の痛苦を少しでも早く和らげてあげようと、近くにあったシャベルを手にして、馬の頭上へ振り上げました。
シャベルを持った私の腕が一番高いところまで上がった時、無残にも寂滅していく馬の哀れさを見た私の心奥には、この世から消えるのは馬ではなくて隆雄であるべき、という声が脳幹に響き渡りました。
そして、私はシャベルをどちらに振り下ろそうかと一瞬だけ迷いました。
(了)