13話 捻くれる上司
翌朝、一歳馬の集牧後のブラッシングを終えた私は、軽トラックを運転して、隣り町にある農協の融資窓口へ向かいました。
国道三十六号線を走行しながら、札幌方面へ向かっているであろう三十六号を探していると、左側歩道を歩く原始人の後ろ姿が見えてきました。速度を落として、横顔を確認すると、昨日見た三十六号に間違いありません。
室蘭と札幌間の距離は、道路標識によると、百三十キロと表示されていました。三十六号が半日歩き通した場合は、およそ五日間で往復できる距離です。休みなく歩いて、一ヶ月で六往復もしていることになります。
昨日と同じく、背筋を伸ばして真っすぐ前を見て歩く三十六号の姿は、太平洋戦争における玉砕寸前の日本兵のごとく、生に執着することなく、いつ死んでもいい開き直りの生命力が宿っており、かえって大地に根差した雑草のような逞しさをも感じました。
私は、三十六号の食生活が気になり、アクセルを踏み込んで五百メートル先のコンビニへ急いで向かいました。
そして、買ったおにぎりとお茶をレジ袋に入れたまま、駐車場のベンチの上へ、あたかも忘れ物のように置き去りにしました。歩道からベンチまでの距離はわずか二メートルです。レジ袋を開いたまま置いたので、一瞥して中身に気づくはずです。
軽トラを盾に身を隠した数分後、三十六号が近づいてきました。すると、三十六号はレジ袋とその中身を一瞬だけ見やったかと思うと、まったく興味を示さずに通り過ぎて行きました。
瑕疵が根差す淡田親子の人格とは真逆に、三十六号は痩せても枯れても人としての道心を損なっていないようでした。
農協の融資担当者との面談では、淡田牧場の財務体質強を諫言されました。
「馬産事業においては、血統が良くても牡馬と牝馬では販売価格が異なり、売上計画は運に大きく左右される」「脚が曲がって産まれてくる仔馬の確率は少なくはなく、製造業でいえば不具合品率が高い」「肥育事業は手間暇の割りには利益率が低い」
と、担当者は牧場経営の不安定要素を列挙して述べてきました。
初めにネガティブな要素を提示して、それに対する事業計画を真摯に検討しているかどうかを洞察する手法です。これは、銀行の融資審査担当だった時の私がよく使った手法でした。
投資による売上総利益がいくら増大するのか、安定的営業利益はいくらか、原価計算はしっかりできているかなど、社長または経理担当者の会社会計に対する意識の高さを推し量るのです。簡単に言えば、ザル会計の会社には、金は貸さないということです。
担当者の心中が読めるだけに、高額な種付け投資を下支えする安定的収入の確保があるか否かが審査の主軸になると思われます。
金融機関は、「晴れの日に傘を貸して、雨に日に傘を取り上げる」と言われています。これは、融資先が好調な時は高額融資をして、経営悪化した場合は融資を引き揚げることを意味しています。
したがって、淡田牧場が四千万円の融資審査を通すためには、馬産リスクを補う投資回収計画と安定収入の確保が必要になってきます。
投資回収計画は、月次売上と費用を一覧表化すれば良いだけなので、私の得意分野でもあります。問題は安定収入の確保です。
仔馬の販売価格は数百万円から一千万円単位の誤差が生じ、肥育馬の価格は季節と需要によりグラム単価が乱高下します。
私の脳内に、「四千万を借入してきんしゃい」と言い放った社長の言葉がリフレインしてきました。「無理でした」と言えば、「脳なしたいね」と暴圧的な態度で睨みを利かしてくるのは間違いありません。あるいは、「クビばい」と解雇通告をするかもしれません。
私は咄嗟に、
「淡田牧場は、季節ごとに野菜を作って、多角農業経営を始めます」
とジャストアイデアを述べました。
融資制度一覧表を見ていた担当者は、
「それは妙案ですね。安定的収入が見込める畑作ならば、そちらの融資枠も追加できますし、不安定な馬産売上のリスクヘッジにもなります」
と、貸付使途項目の馬産融資と畑作融資にチェックを入れて、融資申請書類一式を渡してくれました。
牧場に戻った午後、早速私は、畑作による安定収入の必要性を社長と隆雄さんへ説きました。幸い牧草地の隣りに十反ほどの休閑地があり、そこでデントコーンを作付けすることになりました。
コーンは馬の飼料にもなり、飼葉代が節約できると同時に、余剰分を販売することによって現金収入の増大が企図できます。
これらの販売計画を盛り込んだ中長期事業計画と綿密な月次キャッシュフロー計画を策定して、融資申請書類を纏め上げた私は、すでに借入希望金額五千万円の融資審査が通る確信を持ちました。
殊に三月は事業年度締めであり、融資担当者にとってもノルマを達成できるか否かで、人事考課や夏の賞与査定が変わってくる重要な月です。
担当者が内部での稟議を通し易いように、投資による淡田牧場の経営分析概況と損益計算書を追加添付したのが功を奏したのか、二週間後、希望金額通りの融資金が振り込まれたのです。
その満額振り込まれた通帳を眺めながら、社長は、
「さすが、あんたさんは内地の大銀行におった人ばい。今まで申請した通りに金ば借りられたことなんかなかったとよ。感心感心」
と、初めて私を讃える言葉を投げかけてくれました。
対して、隆雄さんへ叱咤するような目線を注いだ社長は、
「浪塚さんを見習って、隆雄も自分の使う金ば自分で借りられるようになりんしゃい」
と、戒めの言葉を投げ掛けました。
私を険のある眼光で瞥見した隆雄さんは、親の言う事を聞かない思春期の少年のような捻くれた表情を見せて、次に全く関係ない方向へ顔を向けて軽く舌打ちをしました。
やばい、と私は直感しました。
半開きの流し目で不貞腐れる隆雄さんの視線は、集団の中の優越が逆転された時に表顕する嫉妬心が宿っていました。
隆雄さんは社長の息子であり、絶対的な権威の庇護下にある身分です。淡田牧場は、従業員二人だけの零細経営ではありますが、組織の大小は関係なく、組織における社長は尊大な権限を持っています。
むしろ、家族経営の社長は、我儘な圧倒的権威を把持していますから、社長と従業員は、王様と奴隷に等しい存在でもあります。
王様の息子という権勢を誇示していた隆雄さんが、奴隷的地位の私の方が優勢であると評価されたことは、護ってきた根城の崩壊をも意味します。
この時発生する感情が嫉妬であり、相手方を突き落とそうという力学が働いてしまいます。
嫉妬に駆られた人間が起こす行動は、虐めによる積極的妨害、または無視することによる陰湿的阻害であり、そのような感情が隆雄さんに出穂してしまったことが、隆雄さんの様相から明察できたのです。
案の定、隆雄さんの態度は翌日の朝飼いから一変しました。
集牧した一歳馬を各馬房に入れた隆雄さんは、
「僕は浪塚さんに教わる立場になったので、僕の方から浪塚さんへ教えることは何もなくなりました。馬の餌は浪塚さんの判断に任せます」
と言って、私に視線も合わせずに、各馬の体調に合わせた飼葉作りのノウハウを教えてくれないままに、とっとと厩舎を出て行ってしまいました。
私の経験上、拗ねた隆雄さんの態度は、嫌がらせのほんのまだ序章なのだと思いました。嫉妬心は、集団組織内における序列が狂った時に垣間見せる人間の本性です。
下位の者に抜かれた上位の者は、再び下位の者を見下したいがために、その失敗や転落を望む性が存在するのです。
会社組織に従属していた時の私は、他者からの嫉妬に苛まされたこともありますし、その逆もあります。その時の経験から隆雄さんの心奥がよく分かるのです。
(つづく)