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12話 人間の性根

 繁殖牝馬馬厩舎へ導き入れたコインキャットを、リリックエンドがいた馬房に入れると、

「栗毛のいい馬だ」

 と言って、隆雄さんが普段の温和な表情で厩舎に入ってきました。


「コインキャットは、蛍光灯の下でもピカピカな毛色ですね」

「晴れた日は、馬体が太陽に輝いて、もっと綺麗ですよ。栗毛の馬に興奮度を高める種馬も多いですから、いい仔を授かると思います」


「なぜ、栗毛に興奮するのでしょうか」

「馬の目にも、栗毛は綺麗に映るんじゃないですかね。種馬にしたら、綺麗な子孫を残せるという本能的な生殖反応かも」


「人間の男も美人好きが多いのと同じなのかもしれませんね」

「顔や模様が綺麗な馬は、競馬を引退した後は乗馬ウマとして転用できる可能性も高いんです。人間と同じで美男美女は得ってわけですね。ただし人間の美人は、性格が良くないのが多いですけどね。香苗さんみたいに」


 随分ストレートな物言いをするなと思いましたが、いつの間にか、香苗さんは姿を消していました。


「香苗さんの性格は、さばさばと割り切った面がありますけど、性格が悪いとは、私には思えませんが……」

「香苗さんは、仕事を頼んでもやってくれない時が多いから困っているんです。前の経営者からこの牧場を買い取った時に、香苗さんの雇用は継続するという約束をしてしまったものですから。正直なところ、浪塚さんに早く一人前になってもらって、香苗さんには辞めてもらいたいと思っているんです」


「残業代がつかないし、給料が遅れる時もある、と香苗さんは言ってましたが」

「僕の給料もそうです。親父の金払いがルーズなのは困ったものです。それでも僕は、朝飼い夜飼い、放牧集牧、それに深夜は三時間おきに監視カメラで馬房の映像を見て、馬の体調に異常がないかを毎日チェックしているんです。だから僕は三時間以上ゆっくり寝たことなんかないんです。だって、競走馬を生産しているんですから、いつかはダービー馬を生産したいじゃないですか。だから、その夢に向かって、残業代も貰わずに頑張ってるんです。それなのに、香苗さんは全く協力的じゃないんです」


 隆雄さんは社長の息子であり、その考え方は同族経営者側の一方的な見解です。従業員が経営陣の夢に乗っかって無給で働く義務はありませんし、給与遅延と残業代未払いは経営者側の疎慢であり、裁判になれば経営者側敗訴は確実です。


 自己の懈怠を棚に上げておいて、従業員の勤怠を不当評価する淡田親子への不信感が益々強くなってきました。


「浪塚さん、親父と僕から相談したいことがあるのですが、今から我家に来てもらえませんか。時間は取らせませんので」


 渡りに船でした。常に高腰な社長と、スイッチが入ると自己中に転じて逆ギレしかねない隆雄さんとは、角を立てずに労働条件の改善提案をした方が良いと思われるので、堅苦しくない社長宅で話ができるのは歓迎でした。


 前経営者の住居をそのまま利用している社長宅は、経年劣化した焼杉板の色むらによって、築百年にも見紛われるほどの荒ら屋でした。トタンを張った屋根は、重力に負けて歪曲し、塗装も剥げ落ちています。


 東京近郊にこのような家屋が建っていたならば、廃墟に間違わるほどの凋残ぶりですが、樽前山を背にした低山の麓に位置する牧場の中にあっては、むしろ野趣の一部のごとく、奇妙な味わいを醸し出していました。玄関脇には主のいない犬小屋と鎖が、おそらく当時のままに残されています。


 玄関から中へ入ると、外壁から想像できた通りに、年季の入った内装と調度品が据えられていました。隆雄さんに導かれて、居間まで行くと、

「早うここへ座りんしゃい」

 と、徳利酒を飲んでいる赤ら顔の社長が手招きをしました。


 居間へ入るついでに次の間へ視線を送ると、田舎の家ではよく見受けられる大型仏壇が鎮座していて、社長の奥様でしょうか、この家の中で一番の善者だったことが窺える、楚々として微笑んだ中年女性の白黒写真が飾られていました。


 居間に入ると、隆雄さんは社長の隣りに座り、私は折畳みタイプの座卓を挟んで二人と向き合うかたちで腰を下ろしました。座椅子に凭れて上体を反らした二人は、時代劇で見る御代官よろしく、その場における天下人を気取った姿勢で座っています。


 私には座椅子は充てがわれないのは当然としても、座布団さえ出さない二人のデリカシーの無さは、労働基準法に則った労務管理や賃金台帳管理まで気を配れる人材ではないことが推度できます。


 社長は、肘まで持ち上げる大きな動作で、御猪口を一気に飲み干して、

「相談は資金繰りばい」

 と、口火を切りました。


 牧場仕事が不慣れな私への相談は、日々の業務に関することよりも、私の経験――銀行業務に関する相談だと、あらかた惟っていた通りでした。


「借入ですか?」

 社長が切り出した話材を更問すると、隆雄さんは、

「コインキャットに、ディープインパクトの種を付けます。その四千万円が必要なんです」

 と、身を乗り出して、さらに語り始めました。


「ディープインパクトの三代父と、コインキャットの四代父が同じで、これは18・75%同じ血量になるんです。これは奇跡の血量と言われていて、この配合でダービーを勝った馬が何頭もいるんです。それに、ディープインパクトの父と、コインキャットの母方の父も相性が良くて、この配合からもダービー馬が出ています。この配合で産まれた仔馬なら、ダービーを勝ってもおかしくない良血馬ですから、オスなら一億円を下回りません。メスなら安くても八千万円で売れます。だから、種付け料四千万円さえあれば、うちの牧場は大儲けできる上に、ダービー馬生産牧場という栄誉も授かれる可能性が大きいんです」


 掌に爪の跡が付きそうなほど拳をを握り締めた隆雄さんは、舌端に潤滑油を垂らしたかのように、早口で熱く捲し立てました。


 隣に座る社長は、予め隆雄さんからの提案に合意していたと見えて、隆雄さんが息継ぐたびに同調する首の動きをしています。


 隆雄さんの口調からは仕事に対する高温な情熱を感じましたが、所論した内容からは経営判断能力が零に等しいと言わざるをえません。


 借入利息や固定費を念頭に入れずに、不確定な販売希望価格から借入元金を引いただけのドンブリ算数しかできない隆雄さんと、それに何の疑いもなく追従する社長の経営陣二人を察するに、牧場経営は暗澹たる行く末しか残されていないのは自明の理でしょう。


「現状の借入金残債はいくらでしょうか」

 淡田牧場の経営状況を惟うと、貸付限度額に余裕はないかもしれません。私の質問に対して、淡田親子はお互いに顔を向き合わせて、残債――自社の財務体質を把握していないと言わんばかりに、顔を横に傾げました。この素振りから、今まで希望通りの融資額を受けるのは難しかったことが窺えます。


 立ち上がった隆雄さんは、箪笥の抽斗からジップロックを引っ張り出して、中に入っていた書類――農協取引約定書と融資計算書を私に差し出してきました。返済予定表を見ると融資残高は一千二百万円でした。


 場の資産価値と返済実績からざっと考量すると、追加融資可能額は二千万円が限度と思われます。四千万円の借入に対する長期返済金は、少なくとも毎月五十万円となり、淡田牧場の経営体質を鑑みると、それだけで首が回らなくなりそうです。


「淡田牧場の経営規模を勘案いたしますと、希望の半額二千万円が適当なところかと」

 率直な私見を述べると、社長は茹でダコから酢ダコへと急に顔色を変えて、

「だけん、あんたの意見は聞いとらんばい。つべこべ言わんで農協へ行って四千万を借入してきんしゃい」

 と、捲し立てて、ハイライトを咥えて点火し、大きく吸い込みました。


 咥えタバコで腕組みをする社長の上から目線は、こちらの意見を叶えるための同調圧力に屈服しろという心肝を露悪していました。


 下衆な独尊を貫く額には、酒によって毒心が増幅されたのか、今まで見たこともない六本もの横皺が浮かび上がりました。顔と前頭部との境界線のない禿頭の社長は、頭の天辺まで皮膚が紅潮しています。


 夢を叶えたいだけの隆雄さんは、純乎たる無垢な気持ちからの融資希望なのでしょうが、原価意識が欠落したままでは、いずれ牧場は破綻を来たします。


 とは言え、権威勾配の最下層にいる私が異議を申し立てたところで、恫喝されて強制的に借入申請に行かされるだけのことです。


 結局、私は表面上は社長と隆雄さんへの恭順を繕って、労働条件の改善提案の話も切り出すことができずに、「かしこまりました」と言うほかの選択肢はありませんでした。


「浪塚さん、ありがとうございます。よろしくお願いします」

 と、隆雄さんは言葉上では実直な謝意を伝えてくれましたが、座布団の上で胡坐をかいたままの態度から見て取れるように、居丈高な性根は隠しきれないでいます。


 この先何か意にそぐわないことが起きれば、一瞬にして癇性を展観させることが予見されます。


 ジキルが不在で、裏表なくハイドを露呈する部類の社長は、慣れてしまえば単純な対応力でその場をやり過ごすことができます。


 その一方、社交的にはジキルを装っている隆雄さんは、いつ何時ハイドが露呈するか分からないので、付き合うには面倒くさい部類と言えましょう。




(つづく)

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