第一章 17
チャイムが鳴って、昼休みが始まる
乾燥して固まっていた絵の具が
自分たちの色と水気を取り戻していくように
騒がしく、動きだしていく
瞬は立ち上がらず
小さく溜め息をつく
姉から何の連絡もなく
「大丈夫だった?」と送ったメールにも返信がなく
きっと
別れ話は失敗したんだろうな、と
ぼんやりそう考える
目の前の光景が
自分とは全く別のパレットのことのようで
少しだけ、眩しい、と、思う
「瞬、今日の昼はどうする?」
桐登という色が
自分のパレットにそっと置かれる——その
色を絵筆に付けたい
——だけど
「ごめん、今日は一人で食べるよ」
「そっか、じゃあ、また今度な」
少しだけ痕跡を残して
桐登の色がパレットからなくなる
さらに小さく、溜め息
弁当を持って立ち上がり
誰の色とも衝突しないように
瞬は教室を出る
目指すのは屋上
立ち入り禁止ではないがほとんど誰も来ず
瞬のお気に入りの場所
姉と二人で透明な風を受けながら過ごす昼休みは
もう他の全てが滅んでしまってもいいとさえ思える
今日も
もしかすると先に姉が来ているかもしれない——
少しだけそう考えて
でもすぐに、それはない、と思い返す
屋上への階段は、いつも蛍光灯が消されていて
薄暗く灰色
そこに一本、白い線を力強く引きながら
瞬は階段を上る
その
途中に
携帯電話が震えて
線が途切れる
一瞬、景色が明るくなって薄青色に染まり——でも
ポケットから取り出した携帯を見て
黒く塗り潰される
——和真からだった
景色のなかで不可思議な幾何学模様が揺れて
それが大きくなっていく隙間を縫うように
いそいそと階段を上る
屋上へのドアの前で立ち止まり電話に出ると
「潤子ちゃんに電話しても出ないが大丈夫なのか」
と黒い第一声
「僕にも返信がないんだよ
でも学校にはいるはず」
負けじと白い声を飛ばす
和真は電話の向こうで受け流すように「まあいい」と言い
「先に瞬に伝えておく」と前振りをして
「昨日の血液検査の結果だが
潤子ちゃんに耐性が見られた」
耐性——と、聞こえた
それは
それはきっと、瞬にとってすぐに理解できる言葉だった
しかし瞬の白色は
自らが容易に違う色を呈することを許さない
そっと
そっと水面に石を入れるように
「どういうこと?」
と訊く
「まだ断定はできないが
潤子ちゃんも荒神の病を克服できるかもしれない
だが今はまだ、必要以上の接触は避けてくれ——しかし
一応、潤子ちゃんから誰かに接触するのも避けたほうがいい」
言いたいことはたくさんある
瞬にとってはそのような状況の方が多い
だがいつもそれらをこらえて
瞬は自分の白い色で上塗りをする
だが
今日は違う
言いたいことはたくさんある
そのなかから、とりあえず一言何かを言うべきだと分かっている
しかし
何と言っていいか分からない
「おい、瞬、聴いてるのか」
はっ——と、元の灰色の世界に戻ってきて
瞬は一言、「聞いてるよ」と答える
「姉さんには僕から言っておくよ」
電話を切って
誰の気配もしないことを確認して
「——やったあ」
握りしめる拳——
もう、我慢できずに声と気持ちを放出する
それは瞬の白い色と
久しく混ぜることのなかったきらきらと輝く宝石のような黄金色
もう
もう——
我慢しなくていい
姉と手を繋ぐことも
すぐ近くで喋ることも
もっともっともっと、
いろんなことを諦めることなくすることができる
景色が
灰色から銀色に変わっていく
そして世界は
一面の雪原のようにどこまでも白く続き
そこに
姉の
透明な薄青の足跡が付けられる
もう一度
「やったあ」
と声を出す瞬の白以外の明るい色が、びっくり箱のように飛び出していく
こんなに——
こんなに自分の感情が漏れたことはなかった
「ありがとう」
と感謝する
自分の手が何かで濡れて
瞬はようやく自分が泣いていることに気付く
緩んだ顔は、まだしばらく元に戻せそうにない
ぽろぽろと銀色の涙が白い地面に落ち続けて
どんどん世界が輝いていく
電話、しないと——
そう、思いはしてもまだできない
でも早く姉に伝えたい
他者との接触の危険性や今堀先輩とのこともある——
いやでも、それらは全て口実だ
瞬は
ただ——
ただ、姉とこれからずっと一緒にいられるという
ただそれだけを伝えたくて
携帯電話を握りしめた