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第一章 16

あらゆる音を飲み込むように

自分のなかから心臓の音が聞こえる

学校の玄関に人影はなく、本当なら

朝が少しずつ瞼を開けていくような

そんな音が聴こえるはず——だが

これから起こることに怯える自分の血の悲鳴が

今日の朝を激しく震わせている

下駄箱から

取り出す上履き——

今堀とは屋上渡り廊下で会う約束をしている

時間までにはまだ少しあるが、きっと

今堀君はもう来ているだろう、と、そんな予感の音がする

潤子は——

足を、進める

誰一人として他の生徒に会うこともなく

廊下を歩き、階段を上り、また少し廊下を歩き

階段を上る——鋭い高音が両耳を貫通し

息が、切れる——そして

足が、止まる

——それでも

潤子の音は消えることなく

どんなに心臓や血の音が激しく騒ごうとも

どんなに荒くなる呼吸に金属のような冷たい音が混ざってこようとも

潤子は

俯かない

今堀君とは付き合えない、この朝で、ちゃんとお別れをする——

それは思考でも感情でもなく

潤子の紛れもない意志として、再びその足を動かし始める


息を、整える——そして

辿り着く屋上渡り廊下

湿った生ぬるい空気のなかで

何重にも音が分裂していく——そこに

今堀が立っている

今堀だけが、立っている

彼の音は、この湿度とは相性が悪い

もっと颯爽と軽やかに流れる彼の音は

決して気持ちが悪いわけじゃない——けれど

それは潤子が求めている音ではない


「おはよう」


先に挨拶をされて


「昨日、あれから考えたんだけど」


一方的に話を続けられる

少し重たい空気がわずかに抵抗してくれて

それでも

彼の音はしっかりと、潤子まで届いてくる


「もう少しだけ時間をもらえないかな

 荒神さんの体調のこととか

 そういうの全然知らずに何もできないって悔しいんだ

 俺は本当に荒神さんのこと好きだから

 できれば

 荒神さんを支えたい」


それは、包み込もうとしながらも突き刺さってくる優しく不器用な音

その音は潤子の口に絡みつき

彼女の喉から声を掻き消していく

水面の波紋が細かく分かれて潤子の音の邪魔をする

これは、食い込んでくる善意

断ればさらに食い込んでくるだろう

その時、自分の音はばらばらになって、元に戻れないかもしれない

そう、思うと何も言えず、何も返せず

しかし

それでも——

潤子の意志だけは自分の音をまだ保ち、最後の抵抗として

首を横に振る——だが


「どうして」


その意志をいとも簡単にへし折ってくる今堀の突風のような音

よろめく

でも

断り続けなければならない——と

それはもう、音というよりも

潤子がやむをえず発する騒音のようなものとなって

彼女の喉で声を形成していく


「ごめんなさい

 一度付き合うって言いながら断るの

 本当にごめんなさい

 でも病気のことを考えると

 やっぱり他人に付き合わせちゃ駄目だって思って」


それでも


「俺のこと

 信じてもらえないかな」


潤子の音は

けっきょく今堀の音を止めることができず

その波紋を乱すこともできず

むしろ

自分の発した精一杯の音とともに潤子へ返ってくる

もう、打ち明けたい

荒神の秘密、自分の秘密、そうすればきっと引いてくれる

だけどもし、それでも手を握ってこられたら——

逃げたい——

逃げたい

音が聴こえない

ぽっかりと空いた音の穴

沈黙のなかの沈黙


「ごめんなさい」


ただ言えた、一言——

今堀君が何か言ってる、でも

それはよく聞こえない


「混乱しちゃって——

 ごめんなさい、すぐに決められない」


「じゃあ——」


はっ——と、地上に立っていることを自覚して

潤子は前を見る、そこに

今堀が立っていて、その、口が

音を立てる

湿気のなかを旋回しながら昇っていく

物静かな、はっきりとした波紋


「荒神さんが決められるまで

 時間をもらっていいかな」


その言葉の意味は、分からない

ただ

私は今堀君と別れられなかった、と

それだけは理解しながら


「うん」


首を縦に振る

縦に、振る——しか、なかった

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