ハンスとグレーテと森の魔女
山間のとある小さな村に、若い魔女が訪れた。
善良な魔女は、自分を受け入れてくれた村の人々の為に惜しみなく魔法を使い、村の生活はとても豊かなものになった。
しかしやがて、豊かな生活に慣れてしまった村人達は、次第に魔女により多くを求めるようになった。
もっと水を、もっと食べ物を、もっとお金を――。
魔女は言った。
「私は皆さんの幸福を望んでいますが、自分の足で歩もうとしない人間の求めに応じることはできません。何故ならその先に幸福はないからです」
すると村人達は魔女に不満を抱くようになり、いつしかその不満は彼女への迫害へと変わった。
魔女の夫が死ぬとその迫害はさらに強くなり、やがて魔女は幼い娘を残したまま、村を追い出されてしまった。
魔女は人の立ち入らぬ、薄暗い森へと逃げ込んだ。
悲嘆に暮れる魔女だったが、森には彼女を責める者はおらず、鳥や動物達は毎日彼女に木の実や果物を届けてくれた。
お礼に魔女は、動物達の傷を癒したり、厳寒の冬には彼らを家に迎え入れたりして過ごすようになった。
一方、魔女が居なくなり魔法の恩恵を失った村からは笑顔が消え、やがて前よりももっと貧しい村となった。
それから長い月日が流れた、ある日の晩のこと――。
この年は国中が飢饉に見舞われ、森の近くの小屋に住む貧しい木こりの一家もまた、毎日のパンを口にすることも儘成らぬほどの貧困に喘いでいた。
「これから一体どうすればいいんだ――。もう食べる物もほとんど残っていない。物を売るにしたって、せいぜいがこの靴ぐらいのものだ。このままでは子供たちを養うどころか、家族揃って飢え死にしてしまう」
木こりがそう言うと妻が答えた。
「なら子供たちを森に捨ててくればいいのさ。あたしの母親だって、小さい頃に私を捨てて何処かに行っちまったんだ」
木こりは最初反対したが、子供達を残しても2人だけでは生きてゆけないし、このままでは一家4人ともが死んでしまうということで、妻の提案を渋々受け入れた。
隠れてこれを聴いていた息子のハンスとその妹のグレーテは深く悲しみ、酷く落ち込んだ。
しくしくと泣き止まない妹に、ハンスは精一杯強がり嘯いてみせた。
「大丈夫だよ、グレーテ。心配いらない、僕がきっとなんとかしてみせるさ」
ハンスは両親が眠ったのを確認してから、密かに小屋を抜け出し、近くの小川から丸くて白い石だけを拾い集めてから、ベッドへと戻った。
明くる日の朝――急かすように子供達を起こし、母親が言った。
「今日は森に薪を拾いに行くよ」
両親に連れられて、ハンスとグレーテは森の中へと足を運んだ。
道中ハンスは両親に気付かれぬよう、昨晩拾った石を点々と落していった。
森の真ん中で、ハンスとグレーテが集めた粗朶を積み重ねていると、母親が2人に言った。
「私達は木を伐ってくるから、戻って来るまでここで待っているんだよ」
しかし日が沈んでも両親は戻っては来なかった。
グレーテが泣き出しそうな顔でハンスを見ると、ハンスは笑顔で妹の頭を撫でた。
やがて月が昇ると、ハンスの落した白い石は月光を反射して綺羅綺羅と光り始めた。
それを道標にして辿り歩いて往くと、明け方には木こりの小屋の屋根と煙突の煙が見えた。
次の日の朝になると、母親は再びハンスとグレーテを森へと連れ出した。
父親の姿はどこにも見当たらなかったが、小屋には綺麗に磨かれた彼の靴があった。
夜通し歩いて疲れ果て一日中眠ってしまったハンスは、昨晩石を集めることができなかったので、悩んだ末に石の代わりに無け無しのパンを小さく千切って落とすことにした。
一昨日よりももっと森の奥深くにまで分け入ると、母親が言った。
「私が戻って来るまで絶対にここを動くんじゃないよ。この森にはそれは恐ろしい魔女がいるからね。見つかればあんたたちは八つ裂きにされて喰われちまうよ」
2人をそう脅すと母親はその場を去っていき、そして戻って来ることはなかった。それでも夜になれば帰り道が判ると思っていた兄妹は、不安がることなく夕方まで眠りに就いた。
しかし2人が目を覚まし、夜になって雲の切れ間から月が覗いても、ハンスが落して来た筈のパンは何処にも見当たらなかった。
2人が眠っている間に、森の小鳥や動物達がすっかりパンを食べてしまったのだ。
途方に暮れ、泣きじゃくるグレーテを宥めながら、ハンスは森の中を彷徨った。
兄妹が迷子になって3日目――疲労と空腹で倒れる寸前の2人の前に、綺麗な白い鳥が現れ、何処からともなく声が聞こえた。
(子供たち、その白い鳥についておいでなさい――)
ハンスとグレーテが不思議な声に従いその鳥の後を追うと、すぐに木々の隙間から一軒の家が見えてきた。
家の方から堪らぬほど良い匂いが漂ってきたので、2人が近付いてみると、その家はパンや砂糖や水飴で出来たお菓子の家だった。
ハンスとグレーテは競うようにその家に齧り付いて、のべつ幕無しに貪り食べた。
2人が満腹になって一休みしていると、お菓子の家の中から老婆が姿を現した。
「あらあら可哀想に、余程お腹が空いていたんだねえ。さあ中へいらっしゃい。暖かいスープを出してあげるからね。服も綺麗なものに替えてあげよう」
ハンスとグレーテは綺麗な服に着替えて、暖かいスープとおやつを食べ終えると、老婆に経緯を話した。
「なんて惨い仕打ちをするんだろうねえ。辛かったろうに――」
老婆は同情して涙を流した。
「私はもう目も満足に見えないけれど、あなたたちがとても良い子だというのは分かるよ。帰るところがないなら、ずっとここにいてもいいんだよ」
老婆が手を差し出すと、ハンスとグレーテはその手を握った。
「おやおや、手もこんなに痩せ細ってしまっているねえ。――特にお兄ちゃんの指はだいぶん細い。これは何かの病気かもしれないから、しばらくは寝たままでいたほうがいいよ」
「お婆さんは、なんでそんなに優しくしてくれるの?」
グレーテが訊いた。
「私も昔はあの村に住んでいたんだよ。でも追い出されてしまったのよ」
「なぜ?」
「きっと私が魔女だったからだろうねえ」
ハンスとグレーテはそれを聴いて目を丸くした。
「お婆さんは悪い魔女なの?」
「いいや、そんなことはないさ。だからあなたたちは何も怖がることはないんだよ」
魔女はそう言ったが、兄妹は不安げに顔を見合わせた――。
ハンスは魔女の言い付け通りに毎日のほとんどをベッドで過ごし、その間グレーテは家事の手伝いをした。
魔女は朝と就寝前になると、必ずハンスの指を触って肉付きを確認しに来るのだった。
だが訝しんだハンスは自分の指ではなく、食事で残った骨を差し出して自分の指だと謀った。
そうして、ひと月ほど経ったある晩のこと――ハンスはグレーテに言った。
「あの魔女はきっと、僕たちを食べるつもりなんだ。だって毎日僕の指を触っては「太らないねえ」といって、残念な顔をしているもの。だから僕はこの骨を僕の指だと言って騙してるんだ」
「そうなの? とてもそんなふうには見えないわ――。だって明日は私の誕生日だと言ったら「大きな竈でとっておきのパンを焼いてあげる」と言ってたもの」
「それはきっと、僕がいつまで経っても太らないから、いよいよ焼いて食べてしまうつもりなんだ。いいかい、グレーテ――」
翌朝、魔女が竈の支度を手伝って欲しいとグレーテに言うと、グレーテはすぐにハンスに声を掛けた。
薪に火を点けると昨晩ハンスに言われた通り、魔女を呼び出して言った。
「ちゃんと火が回っているか分からないから、中の様子を見て欲しいの」
どれどれと魔女が竈の中を覗くと、隠れていたハンスが勢いよく飛び出して魔女の背中を押した。
魔女が竈の中に転げ込むと、すかさずグレーテが鉄の戸を閉めて閂を掛けた。
「なにをするんだい、子供たちや。ここを開けておくれ!」
魔女の懇願の声は間も無く、業火に焼かれる断末魔へと変わった。
すぐに逃げ出したハンスとグレーテは、それを聞くこともなく、喜び勇んでお菓子の家を後にした。
誰も居なくなったお菓子の家のテーブルには、パン生地で作った大きな文字が焼かれるのを待っていた。
“グレーテへ お誕生日おめでとう”
~おしまい~