02-09
―――七星大学附属病院、入院病棟。
ナースコールのボタンを押すと、大原和希は「お願いします」と一言だけ伝えた。
ほどなく数人の看護師が現れ、熱を測ったり聴診器で心音を確認したり、血圧まで測ったりして、病室は一時騒がしくなった。
最後に点滴の針を抜いて絆創膏を貼ってもらうと、彼はベッドから立ち上がった。
その様子に、飛鳥は目を丸くしている。
「エー……あのー、和希先輩? 何してるんですか?」
「何してるって、これから退院だよ。その前に、大月教授の顔も見に行くよ」
和希が平然と答えるので、飛鳥は脳の処理が追いつかない。
今日の未明に爆発に巻き込まれて手術を受けた人間が、夕方には退院なんてあり得るだろうか。
まるで『朝出して夕方バッチリ』とかいうクリーニング屋の謳い文句のようである。
閉口している飛鳥の横で、和希はベッド脇の戸棚から鞄を取り出した。中から着替えを出すと、着ている病衣を脱ぎ始めた。
……細身だから気づかなかったが、意外に筋肉がついている。どこかの誰かほど胸板は厚くないが、却ってそれくらいの方が男性的魅力も増すというものだ。
そう、腹筋の割れ目が少し浮いているくらいの方が、ちょうど良く感じる女子も多いだろう。
飛鳥もそのフェチズムを持つ一人であった。
突然のご褒美に、飛鳥は声にならない悲鳴を上げて、カーテンの向こうへ身を隠した。
「どうしたの? 飛鳥君」
「な、ななな、なんで着替えるんですか先輩!?」
「なんでも何も、病院の服のままじゃ外に出られないだろう」
「そうじゃなくてぇ! 着替えるんだったら一言言ってくださいッ!」
カーテン越しに、少し間を置いて和希の声が聞こえた。
「……ああ、ごめん。見苦しいものを見せちゃったかな」
飛鳥はカーテンにしがみつきながら、先程の光景を思い出した。
なだらかなラインを描く腹筋の脇に、傷痕があった。
手術の痕だろうか。それにしては包帯どころかガーゼも貼っていなかったし、真新しい傷にも見えなかった。
そんな事を考えていると、内側からカーテンが開かれた。
飛鳥が驚いて身を引くと、中から姿を現した。
「お待たせー。それじゃ、行こうか」
着替え終わった和希は、がらりと印象を変えていた。
黒の革ジャンを羽織り、黒のジーンズを身に付けていると、ワイルドなロック歌手のように見える。
高校のブレザー姿しか見たことがない飛鳥は、つい見惚れてしまった。
「……どうかした? 飛鳥君」
「ハッハイ! なんでもございません!」
飛鳥は我に返り、和希が携えた鞄を持とうと手を伸ばした。
「ああ、そんな事しなくていいよ。これくらい持てるから」
「でも先輩、手術したばっかりだから……」
「うーん、それなら……」
和希は飛鳥の右隣に並び、左腕で肩を抱き寄せた。
「肩、貸してくれる? それで、このまま教授の病室まで連れてってよ」
顔が近すぎて、また変な悲鳴が出そうになる。
それを堪えるには、頷いて返すしかできなかった。
しかし身長差があり過ぎて、肩を貸す意味は全く為していない。
廊下ですれ違った看護師が車椅子を貸そうかと申し出てきたが、和希が笑顔で追い返してしまった。
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病室の前にたどり着いた飛鳥がドアをノックしようとすると、その手を和希が止めた。
頭に疑問符を浮かべながら彼の顔を見上げると、人差し指を唇の前に立てている。
和希は飛鳥より前に出て、そっとドアを開けて隙間から覗いた。
ベッドの上で半身を起こしている教授は、何やら大月零と物言いを繰り広げている様子だった。
それを確かめると、和希は長いため息を漏らした。
「……良かった。いや、良かったのか……?」
心の底から安堵があふれた呟きが、かすかに飛鳥の耳をかすめた。
「へ? なんですか?先輩」
「……いいや、なんでもないよ」
そう答えると、和希は勢いよくドアを開け放った。
その衝撃に教授も零も驚いて、こちらに振り向いた。
「おおぉ〜、和希君! 無事か? 何事も無かったか?」
突然現れた和希に、大月教授はいつもの笑顔で出迎えた。
和希はすぐさま駆け寄り、彼の肩に抱きついた。
「大月教授こそ! お元気そうで良かったー!」
教授と助手は、久々の再会のように喜んでいる。
和希にいたってはうっすら涙目になっているほどだ。
「見てください、教授! 僕はこの通りです!」
そう言って、和希はベッドのそばでショーモデルのように身を翻す。
「むむむむ、なんと素晴らしい! もっと近づいて見せてくれ!」
まるで新しいおもちゃを手に入れた時のようなはしゃぎっぷりだ。
年齢は随分離れているが、二人とも無邪気な小学生男子と変わらない。
その様子を、零は怪訝な顔つきで見ている。
「零ちゃん、どうしたノー?」
覗きこんでくる飛鳥の顔は、さっぱり理解していないようだ。
これでは、あまり大っぴらに言えたものではない。
祖父から聞いた話はあまりにも冒涜的、背徳的……とにかく衝撃だった。
「……なんでもないわよ」
「ソウ? それじゃあさ、相談なんだけどー」
「何よ? この後に及んで」
零は蚊帳の外の二人に聞こえないよう声を落とした。
「それがさー、今朝から学校で幽霊が出たって騒ぎになってて〜」
何故、この後に及んで声のトーンを落とさないのか。
零が頭を抱えると同時に、和希が振り返りざま迫ってきた。
「飛鳥君、なんだって? 幽霊? 学校に? 七星高校に幽霊が出たって事かい?」
早口でまくし立てる彼は、完全に目の色を変えている。
さすがの飛鳥もしくじった事に気づいた。
和希は彼女の両肩を掴んで、なおも質問を続ける。
「その幽霊の特徴は? 場所は? 時間帯は?」
「いやーそのー、私も今朝聞いたばかりで詳しい事はー……」
飛鳥はガタガタ揺られながら、昼間に聞いた烏丸の話を思い出した。
「そういえば……幽霊は一人じゃなくて二人組で、お互いを“モエ”とか“ナエ”とか呼び合ってるとかなんとか……」
途端に、和希は動きを止めた。
「……そうか。来たか」
和希は飛鳥から離れ、教授の方へと戻った。
「大月教授、申し訳ありません。急用ができたので行ってきます。戻ったらまたお話ししましょう」
「お、おおぅ、そうかね。気をつけて行ってきたまえ」
深々と頭を下げる和希に、教授すら驚いている。
踵を返すと、彼は足早に飛鳥の方へ歩み寄った。
「行こう、飛鳥君」
半ば強引に彼女の腕を掴み、病室を出て行こうとする。
ただならぬ雰囲気に何も言えない飛鳥に対し、呼び止めたのは零の方だ。
「え? ちょっと待ってください! 先輩」
「零君、飛鳥君を借りるよ。これは、オカ研にとって重要事案だ」
「いや、そうかもしれませんけど……飛鳥にはこの爺さんの付き添いをお願いしたいんです」
「何故? 君は教授の孫なんだから、君がここに居るべきだろう? お爺様を彼女に任せて、君はどうするんだ?」
和希は顔にこそ出さないが、声から苛立ちがにじんでいる。
それがますます零を駆り立てる。
「さっきそこの爺さんからこれを預かったんです。先輩も知ってるでしょう?」
零は胸ポケットからカードキーを取り出した。
それを見た和希の目が大きく見開かれる。
「七星大学の地下倉庫に、大事な研究資料があるそうですね。敵に渡せば一大事だと。何かは知りませんけど、爺さんに言われた以上私が確認しないといけません」
和希は頭を押さえると、教授の方に向き直った。
「教授、何故彼女に渡したんですか?」
「何故も何も……儂の身に何かあってからでは遅いからの。君に相談しなかった事は謝るが、今のうちに渡しておこうと判断したんだ」
「その選択は間違ってません。間違ってませんが……『今』はまずい」
そう言うと、和希は零に向かって手を差し伸べた。
「零君、それを返してくれないか。君には早過ぎる」
「どういう事なのか、さっぱり理解できませんね。その要求は飲めません」
零が再びカードキーを胸ポケットにしまったので、和希の表情はますます険しくなった。
「君は教授の御令孫だし、とても頭の良いコだってわかってる。あまり手荒な真似はしたくないんだよ」
「褒めてくださってありがとうございます。それなら、その頭の良いコにわかるように説明してくれませんか?」
「……中身がパンドラの箱だとわかってて、開けるような人間がいるか?」
和希の言葉に、病室内に沈黙が広がった。
助手と孫娘の様子を伺っていた教授が、口火を切った。
「のう、和希君。君が何をそんなに恐れておるかは知らんが、零にあの研究資料を見せても間違いは無いと、儂は思う」
和希は驚いた表情で教授を見つめた。
「今まで自分が死ぬ事なぞ考えた事もなかったが、あんな爆発に巻き込まれてな……少し考えが変わった。人間は、いつ死ぬかわからんからの」
大月教授はあっけらかんと笑っているが、和希は苦い顔で拳を握りしめている。
「零は……和希君の言う通り頭の良い孫だ。面ではつっけんどんな態度を取るが、儂の意志をしっかり受け継いでくれると信じておる。だからこそ、儂はこの子に自分の積み上げた成果を見せてやりたい」
今まで見せた事もない真剣な眼差しを向けられて、零も驚きを隠せないでいる。
和希は肩を落として、頭を振った。
「……わかりました。教授の仰る通りにしましょう」
そう言うと、零に向き合った。
「零君……地下倉庫で見たものについては、誰にも口外しない事。関係者であっても、安易に話してはいけない。いいね?」
気迫で押してくる和希に対し、零は冷たい瞳で見つめ返した。
「大原先輩には申し訳ありませんが、私は貴方達を軽蔑しています。
そこの爺さんは異端学問に手を染めた所為で、学会から追放されたのは知っているでしょう?
奇跡的にも七星大学に拾われて今日に至りますが、父や母は今でも肩身の狭い思いをしています。
仕方なく、というのをご理解ください」
和希は一瞬呆気に取られた後、苦笑いを浮かべた。
「ああ、うん、理解しておくよ。君が過去の自分の発言を悔いなければいいけど……」
「何か言いました?」
「いいや、何も……」
何か知った風のくせに話す気配のない彼に、零はますます嫌悪感しか抱かなかった。
「それじゃ、飛鳥にはここにいてもらって良いですね?」
「何言ってるんだい?学校に幽霊が出るのにオカ研部長が行かないなんて、何の為のオカルト研究部なんだか」
二人は、お互いの主張が理解できずに見つめ合った。
「いや、私がいない間、誰かは爺さんの御守りをしておかないといけないでしょ?」
「だったら応援要員を呼べばいい。飛鳥君でなくても、護衛が務まる人間はいるだろう」
「今はそんな悠長な事をしてる場合じゃないんです!」
二人の視界の端で、ひょこひょこと動くものが現れる。
「ハイハイハーイ、私に良いアイデアがあるからさぁ。ケンカはやめてヨ。ネ?」
飛鳥が自信ありげに胸を張っていた。




