02-06
夕刻。楠木飛鳥は頭の中を整理した。
今朝方テレビのニュースで聞いた爆発騒ぎは、間違いなく大月教授の研究室で起きた件であろう。
親友の零が朝早くタクシーで出かけたのも、身内である祖父が巻き込まれた為だ。
烏丸が言っていた家庭の都合とは、この事だったのか。
そして、そこに和希先輩も含まれている……。
「……飛鳥君」
その柔らかな声を、その優しい笑顔を思い出した。
瞬間、飛鳥は体じゅう熱を帯びるのを感じた。
どうしよどうしよどうしよ。和希先輩だ和希先輩だ和希先輩だ。
本人が目の前にいるわけでもないのに、彼女は慌てふためく。
意味もなくその場をぐるぐると歩き回った後、大きく深呼吸を三回繰り返した。
そうだ。先輩も巻き込まれたという事は、あの声を聞く事も、笑顔を見る事も、できなくなるのかもしれない。
最悪の事態を想像したが、すぐにニュースの内容を思い出した。
死者どころか、ケガ人の名前すら発表されていなかった。
それ故に永守から連絡があるまで知るに及ばなかったのだ。
ともかく、七星大学附属病院まで向かわなければならない。
零もまだそこにいる事だろうし、いろいろ相談もしたい。
何より、教授と先輩を襲ったという賊の正体が気になる。
飛鳥は鞄の中から財布を取り出し、中身を確認した。
そして長いため息をついた。
またお小遣い前の金欠だ。これではタクシーに乗れない。
先に嘉納に借りておくべきだったが、とうに別行動を取ったところで連絡がつくはずもない。
だが幸い、大学病院までは乗り換え無しの直通バスがあったはずだ。
飛鳥はバス通りへ向かおうと足を向けたが、思い直して止めた。
時は夕刻。この時間、あの通りは退勤ラッシュで車が動かないのではなかろうか。
バスで登校している生徒に聞いた事がある。距離的にはさほど遠くないのに通常時の二倍三倍の時間がかかるので、特に朝は早めに出発せねば遅刻するのだという。
そこで自転車通学に変える生徒もいる。自転車の方が渋滞に巻き込まれる事もなく、却って朝の時間に余裕ができるという者もいた。
彼女は、掌を拳で叩いた。
以前ならいざ知らず、嘉納護の特別訓練を受けた今の自分にとっては、数キロ離れた病院まで自転車で走る事など容易いものである。
たかだか一週間とはいえ様々な呪符による回復補助を受けながらのトレーニングは通常のそれを遥かに凌駕する効果を見せていた。
そうと決まれば後は急ぐだけだ。
飛鳥は学校の駐輪場から、風を切って出発した。
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「……で、自転車で全力疾走してきたってわけ?」
大月零は、呆れ顔で迎えてくれた。
「それで息切らして汗だくになってたら意味ないじゃないの」
「だ……だって……心配だから、早く行かなきゃって……」
肩で息をしながら、それとなく親友の様子を伺った。
あまり気落ちしてるようではないし、普段と変わらない。
その証拠に、彼女の背後から声が聞こえた。
「おぉー、その声は飛鳥ちゃんだな。零の無二の親友よ!」
ベッドの上とはいえ、大月教授は元気そうに手を振っている。
「その言い方やめてくれる? 恥ずかしい」
零は不機嫌そうに返す。
「エー? どしてー? 私は嬉しいよ。おじいちゃまにそう言ってもらえて」
大月零自身はあまり好きでないようだが、飛鳥は彼女の祖父が大好きであった。
陰気で嫌味しか言わない自分の祖父に比べれば、すごく前向きで明るい性格をしている。
奇妙な丸眼鏡に、白髪を振り乱しているところもどことなくかわいらしくて、飛鳥は『おじいちゃま』と呼んでいた。
「おじいちゃま、ケガとかダイジョーブ?」
「あー、心配いらん。研究室は見事に吹き飛んだが、わしはこの通りピンピンしておる」
大月教授は両腕を曲げ伸ばししたが、その左腕にはまだ点滴が刺さっている。
「ちょっと! 無茶な動きしないで。点滴が抜けたらまた看護師を呼ばなきゃいけないじゃないの」
「こんなもん気休めじゃ。わしを入院させる為の名目でしかない」
確かに、これといって目立つような怪我はない。
問題は、ここから先である。
「あのー、それでー……大原和希先輩は、どこかな?」
飛鳥の質問に、教授は一瞬間を置いて目を見開いた。
「おー、大原君か。彼ならもう『手術』も終わっとる事だろう。今頃、別の部屋ではないかな」
瞬間に、飛鳥は青ざめた。
『手術』をするほどの、大怪我を負ったのだ。その事実が判明しただけで、彼女は足がすくんだ。
さすがの教授でも、その変化は見てとれた。
「心配ないぞ、飛鳥ちゃん。今回の『手術』は初めの一歩だが、人類にとって大きな一歩でもある。わしも大原君も、その担い手になれた事を大いに喜んでおる」
飛鳥は言われた事の半分も理解できなかったが、教授の笑顔を見ていると何故か安心できた。
「そうじゃ、そろそろ目を覚ましておるかもしれん。飛鳥ちゃん、ちょっと様子を見てきてくれんかの?」
滲みそうになる涙をこらえるのに必死で、頷くのがやっとである。
「そう言えば大原君が研究室で仮眠しておる時、たまにうわ言のように君の名を呼んでおったのう」
瞬く間に、飛鳥は顔が火照った。
「うぇえェッ!? なんで!」
「さぁのう。夢の中で君の姿を思い浮かべておるのか、はたまた君に伝えたい事でもあるのか、儂にはさっぱりわからんがの」
あたふたしている飛鳥を見て、教授はにんまりと笑っている。
「ともかく、大原君が目覚めるかどうかは君の手にかかっておる! 頼んだぞ」
「うゥ……なんか大役を預かった感じだけど、行ってキマス」
飛鳥はよろよろと病室を出て行った。
その後ろ姿を、零は苦い顔で見送っている。
「どうしたね? 零」
「……なんでもないわよ。それよりさっき……『手術』って何の事よ? そんな話聞いてないわよ」
「うーむ、さすがは我が孫。聞き逃すはずはなかったか」
「当たり前よ」
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いろいろ起こり過ぎて心が掻き乱されているが、外面はなんとか平静を保っている。
その証拠に、廊下で看護師をつかまえて目的の病室までたどり着く事もできた。
つい先程面会謝絶が解除されたところだと聞いた。
つまりそれまで予断を許さない状態だったのだろう。
それほどの事が、彼の身に起こったのだ。
そんな状況に追い込んだ者がいる事に怒りを隠せないが、今はとにかく彼の身に何が起きたのかを知る必要がある。
飛鳥はゆっくりと、病室のドアを開けた。
ベッドの周りは仕切りのカーテンが引かれていて、うっすらと影が見える。
脈拍の計測機だろうか。機械的な音が一定の間隔で聞こえる。
できるだけ音を立てないよう中に入り、忍び足で近づいた。
カーテンのフックが擦れる音すら耳障りに感じながら、そっと覗いてみた。
ベッドに横たわっている青年は、見紛うことなき大原和希であった。
毛先を緩やかに巻いた漆黒の髪といい、伏せた長い睫毛といい、まっすぐ通った鼻筋といい、何も変わっていなかった。
……思えば、彼が寝ているところを見るのは初めてだ。
ただでさえ緊張でこわばっている体は、ますます動かしづらくなった。
すぐに駆けつけて彼の手を握りたいが、思うように足が進まない。
そのつま先が、ベッド脇に置いてあるパイプ椅子にからみついた。
転んでしまう。
そう思った瞬間、きつく目を閉じた。
……聞こえたのは、床に倒れた椅子の音だけだった。
目を開けると、自分の体は床にはついていなかった。
「……大丈夫かい? 飛鳥君」
頭上からそう呼ばれて、自分が彼の腕に支えられている事を知った。
「……! ひ、ひゃあい! 大丈夫です!」
飛鳥は慌ててその腕から離れて、体勢を整えた。
見れば、彼の右腕がだらりとベッド脇に伸ばされている。
「良かった。女の子なんだから、怪我したら大変だよ」
柔らかな声も、優しい笑顔も、大原和希は何一つ変わっていなかった。




