02-05
漆の如き深い闇は彼と彼女の領域であった。
意識を閉ざした嘉納護を見下ろしながら、少女が左手に意識を集中した。
「アポーツリングに命ず。我が装備を在るべき場所に還せ」
彼女の中指にはめた銀の指輪が煌めく。
するとその身を守る装備品が雲散霧消し、中から幼さの残る少女が姿を現した。
「お見事ですよジョエルさん。いや、穢れの騎士とお呼びしましょうか?」
「どちらでも良いですが、蔑称で呼ぶのは無礼だと思いますよ」
太く長い三つ編みをいじりながら、やんわりと銀色の男に忠告をするが暖簾に腕押しだ。
気心知れた仲ではなく互いに間合いをうかがっており、二人の関係は親友のそれとは違った。
「はは、これは手厳しい。ですが間違いでは無いでしょう?」
「……名家であるスターファイアー家を捨て、邪教に堕ちたキミとつるんでいる時点で否定は出来ない。違うかしら? ルーファスさん?」
男の眉が曲がるが下唇を噛んで堪えている。これでイーブンだと言わんがばかりだ。
「ハッ……魔道とは真理の探究が至上命題。島国に引き籠っては進歩も未来もない。
私にとって信仰は手段。相手が邪神であろうと、彼等の持つ知識に罪はないのです」
「そう……。普段ならば即座に切り捨てる発言ですけど、多めに見てあげます」
「こちらもサンジューローの借りがあります。このぐらいにしましょう」
ルーファスと呼ばれら男が両手に魔力を込めると、嘉納護の肉体が宙に浮き、消えた。
「これで彼が目覚めたとしても、虚数空間に彷徨う事となり、内的要因での脱出は不可能でしょう。
ですがこれで良かったのですか? まどろっこしい真似などせずに、どうせならばこの場で始末すれば良いのでは?」
ルーファスからすれば当然の疑問であった。
そういう依頼なのだから仕方なく付き合っているが、この場で殺した方が後顧の憂いもない。
その質問に侮蔑も嘲笑もせず、ジョエルは優しく説明を始めた。
「理由は二点あります。一つは捕虜として失敗時の交渉材料に使える事。
もう一つは楠木飛鳥の魔力が不安定かつ強大であるからです。
彼女の中に眠るもう一人の人格……便宜上妖狐と言いましょうか。
妖狐が顕現すると想定される被害が桁外れとなり、最悪我等でも敗北を喫するでしょう。
故に楠木飛鳥の仲間は誰一人傷付けず、魔導書を回収するのが最善と考えました」
迷える子羊を導く神父のように、手を差し伸べるのであればそれに応じる。
ジョエルは胸元で両の掌を絡め、祈りを捧げるように上目遣いでルーファスを諭している。
身の丈の差が頭二つ程あるせいか、傍から見れば立場が逆に見えるだろう。
「はいはいわかりました。その表情をおやめなさい。目の毒です」
首をかしげてキョトンとするジョエルを見て男は少し照れた。
容貌や仕草だけではなく、彼女は自分の法の中で必死に生きているのが伝わってくる。
演技なのか天然なのか判別できないが、劣情を駆り立てる事実に変わりない。
罪作りな女性……本気で生きるほど不幸になる、まるで供物の羊だと男は同情すら覚えた。
それが大きなミステイク。男は気付いていなかった。無差別かつ無意識の誘惑の恐ろしさに。
「悲しい人だ」
「はて……よくわかりませんが、子羊を厄災から守る為に最善を尽くさなくてはいけません」
男は絶句した。
分かり合えぬ少女から出た言葉……“厄災から守る”。
立場が違うと悲劇は折り重なるものなのか。
彼は真の厄災を知っている。
彼等は人類が真の厄災を止められない事を知っている。
故に彼等は真の厄災を越えた先を見つめている。
邪教と呼ばれようと、人類を導く救世主を創造る義務がある。
「やはりキミは悲しい。願わくば、キミが銀の鍵を持つメシアであると良いな」
「私がメシアだなんて恐れ多い。穢れの騎士で充分ですよ」
「ならば私は……邪教徒で充分だ」
本当に美しいものは善にも悪にも写るという。
言わばイブとリリスの如く、美の中で善悪が万華鏡の如く反転する。
黒騎士は己が甲冑が漆黒に包まれようと信じる王の為に剣を振るう。
魔導士は純粋な力に善悪はないと知りつつも、己の正義の為に知識を欲する。
ならば善悪とは何なのか。結果論にも見える顛末を、彼も彼女も分からずにいた。
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―――夕刻前、七星大学付属病院。
楠木飛鳥が向かう少し前の頃。
大月零が祖父である大月教授の護衛という名の看病をしていた。
病院から連絡があった時は寝耳に水であった。
絶縁とまではいかないが、疎遠になって久しい相手との再会がこんな形になろうとは。
大月零と大月教授との仲はまさに犬猿であった。
思考や思想は似た者同士なれど、研究に没頭するあまり、地位も名誉も棒に振った祖父が嫌いだった。
変人扱いされ、父母にも迷惑をかけ、すんでの所で七星大学が拾ってくれなければ世捨て人同然だった祖父。
大月零も同族嫌悪だと気付かない程バカではない。だからこそ尚更穏やかではない。
自分も祖父と同じ立場ならば同じ顛末を辿るのか、それほど自己満足で愛する身内を悲しませる愚者なのか。
しかし自己を騙して生きる意味にどれほどの価値があるのか。
まるで出口のない迷宮に囚われたアリス。答えの出ない苛立ちを祖父にぶつけるしかなかった。
愚かとは知っている。故に苛立ちが加速する。それは汚れが消えない鏡。
「……零、か?」
意識の回復したのを確認するとナースコールを押して看護師に連絡する。
その一連の行動に迷いはなく……と言えば聞こえは良いが、身内らしからぬ作業的な趣きが感じられた。
「何? 不服でもあるような表情ね」
「お前はいつもそうだ。どうして年相応の可愛らしさが無いものか!」
「五月蠅い。自分の教育を呪えば良いんじゃないかしら?
ったく、大原先輩もアンタなんかの助手をしなければ巻き込まれずに済んだのに。まだ意識戻らないのよ?」
孫娘の説教を軽く聞き流し、年齢に釣り合わぬ大声で熱く語り始めた。
「そうだ零よ! お前に大事な話がある! いいかよく聞け、アレは儂が幽子学について研究しておった時であった……」
幽子学。彼が独自に提唱する分野であり、自慢の祖父がおかしくなった要因。
つまりは老人の戯言と世間から烙印を押された異端学問である。
大月零も幾度となく祖父の持論を聞かされているが、彼女から見ても非常識極まるソレに耳を貸す気になれなかった。
「はいはい知ってるわよ。トイレで滑って頭を打った時に思いついたってアレね」
「そうじゃ! 肉体と魂を繋ぐ線こそが幽子であり、幽子を鎮静・反発・破壊する事により再生医療から次世代兵器にまで転用できる夢の学問だ!」
「いいからアンタ寝てなさい。謹慎の意味も含めてね」
「そうは言ってられん。いつ何処からテロリストが襲ってくるとも限らん」
そう言えば永守誠の話では誰かに襲撃を受けたと言っていた……。
零は祖父が何をしたのか知らなかったが、研究が一枚噛んでいるとは感じていた。
彼が意識を取り戻したとなると再度襲われる可能性は高い。
「……てか、何しでかしたのよ」
「研究費用も無限ではないのでな、どうせインチキ爆弾を売りつけた報復じゃろう。
そんな事はいい! 奴等も儂の研究成果を悪用せんと嗅ぎまわっておる!
お前にこれを手渡しておこう。 なんとか七星大学の地下倉庫に潜り込むのだ」
「はあ……」
零の口から思わず呆れ声が漏れた。
一方的に揉め事に巻き込んでおいて何も罪悪感はないのだろうか。
と言われたものの、祖父の傍から離れる事も出来ず、手渡されたカードキーをとりあえず胸ポケットに仕舞った。
「そこには儂と大原君の研究成果の全てが詰まっておる。いいか! 絶対に悪漢共の手に渡すでないぞ。下手をすればミリタリーバランスすら揺るがす代物じゃ。もし大原君の意識が戻らない時はお主に託す!」




