01-30
―――深更、白峰寺。
一人の男が物音一つしない境内を歩いていた。彼の手には桶と柄杓、そして菊と榊の墓花。
深淵を懐中電灯も付けずに進む様は、まるで自宅の庭を散歩するかのようである。
本堂から離れた場所、それは現世から隔離されたような錯覚を覚える。
そこは、かの者の眠る地。
「お久しぶりです。ご先祖様」
周囲には何人の侵入も許さぬよう、物理的な柵と魔術的な結界が張られている。
だが、彼は違った。許された者として、何の抵抗もなくその先へと踏み込んだ。
深々と首を垂れ、掌を合わせると、朗らかな笑みをこぼした。
墓参りを済ませ、帰路に就こうと踵を返す……が、そこで立ち止まり周囲を見渡した。
「……おや、尾行されていたとは」
ジャリ、と。小石を踏み潰す音。木陰から現れたのは現代の鬼。
「妙な気配がしたのでな」
「ああ、これは失礼しました。余計な心配をかけさせましたね」
旅館から随分と距離があるが、嘉納護にとって問題ではない。
鬼化を脚部限定させ、木々の間を飛び越えて永守の乗る車を尾行してきたようだ。
「と、これは失礼した。この地に於いては永守様と呼ぶべきか」
「結構ですよ。私もご先祖様も、そこまで狭量ではありません……それよりも良いのですか?」
「何がだ?」
護は素で返答している。この人はいつもこうだ、と。ため息交じりで質問した。
「飛鳥先輩の事ですよ。貴方は護衛任務中でしょう?」
「それに関しては問題ない。亀行屋は千代女さんを守る要塞みたいなものでな。外部からの侵入を拒む結界が幾重にも張られている」
無条件の強さとは叶わぬようで、能力と引き換えに失ったものは健康な肉体であった。
鬼の血が濃い彼女はそれに当てはまり、戦闘に向かぬ女鬼でありながら、男鬼と同等の能力を有しているようだ。
だが、濃密な魔力の外ではまともに生きられぬ体になったと言う。
それこそが龍脈の集う土地、鬼の隠れ里である五色台であった。
「それは気付いています。ですが……」
「案ずるな。俺が留守の際には飛鳥の事を宜しく頼むと一声かけている。
千代女さんは女鬼の中では歴代最強だ。今でも一分間の制限付きならば俺と互角以上だろう。
ただ……情緒不安定な所もあるが、彼女に手出しをするほど愚かではない」
「なるほど。信頼に足りる方なのですね。ふふ……どうりで」
「信頼ではない。約束とは、契約とは、本来そういうものだ。彼女が裏切るならば切り捨てるまで」
永守がクスリと笑った真意を護は理解していなかった。
彼女と護が旅館で見せたやり取りは誰の目から見ても異質であった……のだが、当の本人は分からぬものである。
そもそも、この男に人情の機微が理解できていないのが一番の問題なのだろう。
鬼の血族から見ても、嘉納護はそれほど異質であったのだ。
他の同族が“鬼の力を継ぐ人”ならば、護は“人の力を継ぐ鬼”であった。
もちろん彼一人だけの問題ではなく、人格形成には出自や家庭環境、境遇も影響はある。
だが、折れた曲がったではなく……根幹が違うのだ。分からぬものはどうしようもない。
ガサ ガサ ガサ ガサ
木々が哭いている。風の悪戯ではない何かの仕業。
招かれざる者の気配が全体を取り囲んでいる。
「嘉納さん。この地は仕切らせて頂きます」
「理解した。ならば見極め役となろう」
周囲に石柱が取り囲むが、太刀を振るうには充分な間合いがある。
腰に帯びたる仕込み刀を構えると、深呼吸の後、目を閉じた。
「ガ、グラァ―――――――ッ!!」
醜くも汚らわしい奇声を発しながら天を舞うは、黒い翼を生やした猿。
まるで西洋の悪魔ガーゴイルに酷似しており、飛鳥や零を襲った化物と同種である。
だが以前とは数が違う。ざっと数えて軽く二桁を越えており、皆々が殺意を剥き出しにしている。
だが護は腕を組んだまま身動き一つしない。
あの永守が仕切ると言い放ったのだ。何があろうと絶対に手助けしないのが彼の流儀。
それを人間が勝手に信頼と呼んだとしても、彼にとって関係のない事である。
戦いに身を投じる闘士として、最低限の礼儀だと鬼は信奉していた。
「これは恥ずかしい姿は見せられませんね」
翼の獣が永守に向かって襲い掛かる! その様を形容するならば流星!
常人であれば場に居合わせただけでプレッシャーに押し潰される事であろう何重もの殺意!
輩の喧嘩ではない、魔物の爪や牙が命を刈り取らんと必殺の構えで突進してくる!
「永守誠、初手より全力で仕る!」
ふわり。闇夜に舞い散る数多の烏羽。
黒と黒の狭間を駆けるは黒き一筋の煌き……人、それを一閃と呼ぶッ!
「この地に於いて―――僕にかなう者なし」
静寂。
それは一瞬の出来事であった。一太刀……否、正しくは居合抜刀からの連撃であった。
余りにも早い高速斬撃は、人の目に捕捉できる領域を越え、翼の獣にとっても例外ではなかった。
切り捨てられた獣達はそのまま闇に溶け込むように雲散霧消した。
「凄いものだな……俺にすら全ては見えなかったぞ」
「褒めないで下さい。嘉納先輩のご期待あってこそです♪」
「若い身空で見事なものだ」
「いえいえ……って、誰です!?」
姿を現したのは根香寺で遭遇した青い髪の男、デッドエンド(終わった者)と名乗った男だ。
消え逝く肉片を手ですくい、握り潰すと永守達に語り掛けた。
「風の元素種族では相手にならないか。外部からの補助があれど見事だと言っておこう」
「きな臭いとは思ってましたが、貴方も星の知識の一員だったのですね」
「彼等の教義に興味はないが……呼ばれた手前、似たようなものだな。
そんな事よりも、いいのか? こんな所で時間を潰して。忠告はした筈だが」
「飛鳥の件だな。悪いがお前の説明を鵜呑みには出来ない。
五色台の魔力は他所とは比較にはならんが、毒になるものではない。
高位の魔法の素質を持つ者には魔力酔い(マナ・シックネス)があるようだが、毒とは程遠い」
護の反論に、デッドエンドは落胆した表情を見せた。
「なんだその顔は。言いたい事があるなら言わねば分からんぞ」
「君は……彼女の護衛の任務に就いているのだな?
なら問おう。何故にクスノハは彼女を護衛しているんだ?」
護は間の抜けた顔と共に、はあ? と声を漏らした。
「それは上の者が決める事だ。俺は任務に従って動いているに過ぎん」
「歯車か……なるほど、職務忠実結構な事だな。しかし奇妙だと察した事はないのか?
渦中に或るは紅い魔導書、これはわかるね。ならば本を奪えば良いだろう?
楠木飛鳥と協力関係を結んだのは神国守護課であってクスノハではない筈だ。
それをしないのは、他の理由があるとは思わないかね?」
何を見落としているのか思い付かず、真面目に悩んでいる。
深い沈黙の後、何かを思い出したかのように護は呟いた。
「他の理由……ああ、総帥の孫娘の件か」
「えっ」
「ん? なんだ」
「え、いや、楠木って……あのクスノキだったんですか!?」
「如何にも。クスノハとは楠ノ葉の意。楠木に生い茂る葉が我等となる。
だが俺は別に特別扱いはしていないし、余計な気を使うなと命令されている。
加藤さんや千代女さんはそうではないがな」
みるみるうちに永守の顔色が変わるのをデッドエンドは見過ごしていなかった。
今は二人の会話に耳を傾けている。
「まずいですよ先輩! クスノハは楠木家が世襲してるってご存知ですよね!
総帥は必ず男子が継承するのですが、正しくは女子は事情があって継承できないと聞いたことがあります」
「事情……? なんだそれは。初耳だぞ」
「楠木家は女子の方が魔法の素質は高いのに、訓練も受けさせず、組織から排除するんです。
それが転じて、忌み子やら呪われているやら、数多の眉唾話が囁かれているんです」
デッドエンドが口を開く。
彼の瞳は“終わった者”の名に相応しく冷たく淀んでいたが、その瞳はまるで愚か者を見下すように二人を突き刺してた。
「大体見えてきたか? それ程の逸材が五色台の魔力を浴び続けると、どうなるか。
些細なキッカケで組織の恥部に触れる事になるかもしれないぞ。
私はね、君達が何も分からず後悔するのは余りに悲劇だと思って少し手助けをしたワケだ。
どうだ? 敵対組織に塩を送られる気持ちは。不愉快かね?」
この物言いに流石に穏健な永守も苛立ちを隠せない。
少しばかり感情を剥き出して反論した。
「初めから全部説明しろとは言いませんが、良い趣味をしてますね、貴方」
「それは逆恨みという奴だろう。
お前達の持つ断片情報が正しく合致していれば、一度目の忠告で解に至っていたのではないのか?
情報共有の重要性を棚に上げて、姫を救えるチャンスをくれた恩人に恨み節とは愚者そのものではないか。違うか?」
何だか実に憎たらしいが、皮肉屋の煽りに噛み付いている場合ではない。
おそらくであるが、この男は楠木飛鳥を放っておくとどうなるか、その顛末を知っている。
善意か愉快犯か知る術はないが、翼の獣……風の元素種族を操る者、星の知識の関係者であることは確定している。その男がここまで関与しているのだ。その前提だけで充分である。
次の瞬間。突然地面が揺らぎ始めた。
「……ふむ。物語の神は君達を選ばなかったようだ」
二人がデッドエンドの声を聴いた刹那、遠くの山から光の柱が噴出していた。
それは亀行屋の方角と一致する……と、認識した時にはデッドエンドの姿が消えていた。
「てっきり邪魔をすると思いましたが僥倖です」
「如何にも……しかし面妖な話だ。あの男はもっともらしい事を言っていたが、俺は本部に動向を逐一報告している。奴の言葉を鵜呑みにするならば総帥が飛鳥の五色台入りを許可しない筈だ」
「僕も違和感は感じました。排除したいならば僕等を使わずデッドエンド本人が妨害すればいいのに何故かしていない。彼が何か企んでいるのは間違いないでしょうね」
二人とも言葉の裏に隠れる真実を見抜かんと、矛盾の欠片を搔き集めるも、なかなか断定には繋がらない。
しかし現段階で揺るがない事実がある。即座に帰還せねばマズイと言う事であった。




