01-03
異形の獣が大月零に照準を定め、長い爪が空を切った。
零は脂汗を浮かべ歯を食いしばるも、二撃三撃と紙一重で避け続ける。
彼女が武道の経験者とは聞いたこともない楠木飛鳥は、眼前の状況を目を丸くして傍観するしかできない。
手元にあった折り畳みのパイプ椅子を蹴り上げる。
ガシャンと激しい音を立てる椅子を両手で掴み、獣の顔面に水平打ちをお見舞いすると、椅子の角が獣の顎を捉え盛大に吹き飛んだ!
「うはあ……まるで格闘家みたい……」
飛鳥が正直な感想をこぼすも、返す刃は意外なものであった。
「違うわ」
「へ?」
飛鳥の口から間抜けな声が漏れる。
「違うって言ってるの。
姿形から奇形の猿として認識したけど、腕を振り下ろす速度が想定以上に遅かったから、私の身体能力でも対応できるって計算して実行しただけ。
こういうのって背を見せて逃げる方が逆に危険だからね」
「わー、科学ってすごいネー」
「これは物理学よ」
初動と速度と間合いを考慮に踏まえながら実践に即対応できるなど、理屈では分かっていても易々とできるものではない。
それに異常性を認識し、即座に行動に移す胆力は同世代と比較しても群を抜いていた。
しかし彼女の肉体は特別な訓練を受けていない女子高生であり、先ほどの一撃で背筋から肩口、両腕から手首へと鈍痛が走っており、同程度の衝撃を叩き出すのは困難となっていた。
テレフォンパンチへのカウンターにクリーンヒットが入る。
しかし人間ならばいざ知らず、相手が野生動物だとすれば致命打どころか脳震盪による朦朧状態すら期待は出来ない。
「う、嘘……何なのよアレは!?」
一転。大月零が驚愕の声を漏らす。
その光景は己が信奉する世界法則を否定する光景であった。
獣の背に生えていた翼がはためかせただけで、1メートル近くの図体を宙に浮かせ静止していたのだ。
翼のようなものが生えた奇形哺乳類は各地で確認されており、例にも漏れずこれも同じ類であろうと思いたかった。
いや、別に羽が生えているのは問題ではない。
体格と比べて翼のがあまりにも短く、腕を広げた程度の大きさしかない。
蝙蝠のような翼膜が体重を支えられる筈も無い。
もし空を飛びたければ10倍近くのサイズがあっても、グライダーの要領で滑空するのが関の山であろう。
眼前の異形のようにホバリングなど、本来ならば絶対に出来ないのだ。
「零! 逃げよう!」
楠木飛鳥は消火器の安全栓を引き抜くと、勢いよく異形へと薬剤を放射した。
数秒の噴霧でも目眩しにはなるだろうと、消火器を使い切らぬまま相手に投げ付け、放心する大月零の腕を掴んで部室の外へと駆け出した。
廊下へ飛び出しガムシャラに逃げた。
背を見せると危険とか、そんな事を気にしている余裕なんてなかった。
廊下の端へ辿り着くと階段を下り、一階階段裏の死角となる物陰へと身を隠した。
ハア……ハア……。
息も絶え絶えな二人であったが、座り込んで一呼吸した後、涙を浮かべたのは大月零であった。
「どうして飛んでるのよぅ……」
大月零は異形に対する恐怖よりも信奉の否定が辛かった。
教祖を殺された信者の如く、大粒の涙を流し、声を殺して泣いていた。
楠木飛鳥は、らしくない自慢の友人を見ているのが辛かった。
これは自分の責任でもあると痛感する反面、彼女を泣かせた異形に怒りを覚えていた。
ちりちり ちりちり
異変。頬に、首筋に、胸元に、暖かい風が舞う。
怯え泣きじゃくる大月とは対照的に、飛鳥の思考が鮮明になっていく。
怒りに震えた手足が嘘の様に落ち着き払っている。
「だいじょうぶ……よくわからないだけだよ」
「手品に種があるように、私達が知らない何かがあるんだよ」
慰めるように、諭すように、泣きじゃくる彼女の頭を抱きながら囁いた。
大月零は言葉足らずのフォローが嬉しかった。
自分の為だけに尽くしてくれている……そんな独占欲にも似た甘い癒しが嬉しくも納得させられた。
分らないならば分かればいいだけ、いつもそうやって学習してきたのに、無意識の内に限界を決め付けていた自分を恥じた。
お陰で恐慌状態から脱したが、また違う感情の波が押し寄せる。
大月零は自分の頬が紅潮していくのを隠すように下を向いている。
こんな顔を絶対に見せる訳にはいかない。
「なんとかしてみる」
「何とかって、どうするのよ?職員室か交番まで逃げるしかないじゃない!」
「ううん、あんなの連れて行ったらパニックになるだけ。それに、多分なんとかなる」
「何とかって……」
ちりちり ちりちり
飛鳥の意思に呼応するように手提げ鞄から深紅の光が漏れていた。
狂乱の主犯である紅い魔導書を取り出すと、まるで大月零を庇うように背で語る。
半ばトランス状態に陥っていた楠木飛鳥本人は気が付いていないが、彼女の周囲に火の粉が舞っていた。
幻覚や錯覚の類ではなく、覚悟を決めた彼女に応えるかのように、その身を美しく包み込んでいる。
それは平時の放心癖がある飛鳥とは見間違う凛々しき姿であった。
「詳しい事は後で話すよ」
楠木飛鳥は階段を駆け上がり、異形がいた部室のある三階へと向かう―――。
気付けば日がどっぷりと暮れていた。
暗黒が支配し、静寂に包まれた校内に彼女の足音が木霊する。
直後、飛鳥に違和感が襲う。
なぜ静かなのだろう……と。確かに異形の獣は俊敏ではなかったし、消火器で目眩しだってしたが、階段下で結構時間を浪費したのに足音一つ聞こえないのはおかしい話だ。
飛んでいたので足音が聞こえないのは当然だが、それにしても羽音とか何か聞こえて然るべきだろう。
百聞は一見に如かず。
まあいいかーと考えるのをやめた飛鳥は、三階廊下に辿り着いた時に全てを理解した。
身長2メートルを越える大型の化け物が、件の獣を今まさに絞め殺そうとしていた。
化け物は翼を持たないものの、人間とも熊とも似つかず、二本の角と大きく黒い手が特徴的であった。
獣は翼をもがれ両手足をだらりと伸ばしており、化け物は片手の握力だけで獣を持ち上げている。
ミシ……ミシ……
静けさも相成って、獣の首から氷を噛むような不快な音が響く。
虚を突かれた飛鳥が声を漏らそうとした刹那、獣はびくんと背を反らした直後、だらんと力なく首を曲げた。
化け物は飛鳥に気付くと獣を投げ捨てる。
廊下に打ち付けられた獣は崩れ果て、雲散霧消していく。
飛鳥が魔導書を開こうとするより先、化け物は窓ガラスを割って三階から飛び降りると、校外の雑木林の中へと消えていった……。