01-12
―――同日、放課後。
午後から降り出した小雨は次第に強くなり、皆々を憂鬱にさせる。
彼是と予定を消化しなくては時間が足りないと言うのに、出鼻を挫かれるとはまさにこの事だ。
大月零はバイヤーの電話番号や薬のサンプルを手に入れた事、そして神楽との会話の辻褄合わせも兼ねて、烏丸三十郎を探しに行こうとしていた。
恐らくは報道部かオカ研のどちらかではあるが、いずれも確証はない。
大した手間ではないので手始めに報道部を覗きに行こうかと思案していた最中、不可思議な光景が視線に入った。
「あいつら何やってんの……屋上とはいえ校舎内よ」
本降りにならんとする雨に打たれながら、傘を差さずに屋上のフェンス越しに佇む二人の人影が見て取れた。
一人は神楽恭子。特徴的な大きなリボンは遠目でもよく映える。間違いはなさそうだ。
あと一人は見慣れない黒づくめの人物だ。
神楽恭子との対比を鑑みるに黒服の身長は180センチ前後……恵まれた体躯である。
嫌な予感しかしない。
見て見ぬフリをしろと、自分の中の誰かが囁く。
鳴り響くアラームを無視できれば平穏な人生を歩めたのだろうが、何を今更と下唇を噛み、怖気付く心に喝を入れた。
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―――同刻、校舎屋上。
廊下を駆け抜け屋上に至る鉄扉を開けると、黒服が少女の頭部を撫でていた。
ただそれだけなのに、神楽恭子は直立不動の姿勢を保ちながらも恍惚とした表情で口から泡を吐き、身体を痙攣させている。
魔力感知の羽が胸元で光り輝いている……大月の目から見ても何らかの魔術を行使しているのは明白であった。
「アンタ!神楽に何してるの!」
「おや、ミスオオツキの方が現れるとは」
黒服が神楽恭子から離れると、糸の切れた操り人形の様に崩れ落ちた。
流暢な日本語で返答する、黒いトレンチコートに身を包んだ男。
つばの広い帽子の下には浅黒い肌が見て取れる。
胸元に光る奇妙な銀の星のピンバッチは組員章だろうか。
(……まずい、最悪の当たりを引いた)
大月は悟られぬようポーカーフェイスを装っているが、内心は血の気が引いていた。
薬が魔化物品であること、そして不審人物が学校内に潜入出来ている段階で、黒服が魔術師である可能性は考慮に入れていた。
いざとなれば口八丁で切り抜けるつもりだったが、神楽恭子が事実上の人質に取られる所まで計算していなかった。
神楽恭子とは決して仲が良い訳ではないが、見捨てる選択肢は大月の中には無い。
こんな事ならば躍起にならずに単独行動は控え、事前に土下座してでも永守誠と協力体制を結ぶべきだったと後悔だけがよぎる。
つまり、神楽恭子を視認した段階で約束された未来であった。
「同胞から聞いているよ、ミスオオツキ。
キミは魔術が使えない一般人らしいね。
今回はクスノハの飼い犬の助けは無いよ」
今はやれる事をやる。クスノハの飼い犬はオーガの事で間違いないだろう。
確かに結果的には助けられはしたが、味方には程遠い存在だ……敵の敵は味方という事か。
しかし、“オーガに邪魔された”と認識している以上、同胞とやらはガーゴイルの主人である証明とも言える。
「その同胞に言っておいて。
いきなり命を狙うなんて、もう少し交渉の余地はあるんじゃないの?
それともアンタの所の組織自体がそういう価値観なのかしら」
「挨拶代がわりだったのでしょう。
我等としても戦力を見極める必要はありました」
「で、私は戦力外通告を受けてる、と。
なら見逃してくれても良いんじゃない?」
「それは無理な相談です。
私が良くても彼女がそれを許さない」
神楽恭子が嘘の様にすくりと立ち上がる。
「スミスサン……カラダガ、アツイ……」
「く、狂ってる……」
その姿は既に人のそれではなく、肉体が肥大化し制服がはち切れんばかりである。
頬は醜く爛れ、神楽恭子……否、性別すら識別できない。
巨大化した掌の隙間には水かきのような膜が張っており、全身の皮膚は硬質化した鱗に覆われている。
黒服ことスミスは懐から瑠璃色の魔導書を取り出すと、満面の笑みで謳い始めた。
「ミスカグラは憎しみで編んだ徳を積み、今まさに水の元素種族へと神化(進化)したのです。
ミスオオツキが立ち会えたのは偶然ではなく、神に導かれた運命に他なりません。
さあ、彼女への供物となれる名誉に歓喜しましょう!」
それは紛れもない狂人であった。
このスミスとやらは紳士ぶってはいるが、その実はドス黒い邪悪の想念が渦巻いていた。
神楽から人間の尊厳が奪われていく……人の身だけでは飽き足らず、性別、理性、精神、その何もかもが侵され尽くした。
害悪そのものであるスミス本人はこの世の春を謳歌する。
少女の絶望を肴にし、少女の狂化を慈しむ。
「何でここまでするのよ……」
「ミスオオツキ、キミは聡明な女性であるのでしょう?
ならば、両者における優先順位や倫理観の相違、といえばご理解頂ける、かと」
「だからといって人を穢して良い道理にはならない!」
大月が吠える姿をスミスは汚らわしいものを見るように見下した。
「余りにも愚か……これが人の子の限界ですか。
小娘、もう語る舌を持ちません。臓物を喰われるが宜しい」
瞬間移動
スミスの魔導書を起点とし、神聖文字が浮かび上がる。
周囲に魔法陣が幾重にも形成され、スミスの体を包み込むと、空間の歪みに捻じれ消えた。
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残されるは狂化された少女と呆然とする少女。
黒く巨大な爪を振りかざし、大月の命を狙わんと二度三度と攻撃を繰り出した。
暴力装置と成り果てた神楽へ必死の呼びかけを続けるも、返答はない。
最早会話の余地もなく、だからといって見捨てる訳もいかず、元に戻す手段も持たない。
今回は以前出会ったガーゴイルの様な鈍足ではなく、間合いを取りながら攻撃を避けるのがやっとである。
そもそも逃げ切ったとしても、ここから校舎内に入るというのは、部活動で居残る他の学生に神楽を晒す事にも繋がり、その行為による被害の拡大は筆舌に尽くし難い。
せめて魔術に長けたフレイムや、飛鳥の魔導書であれば全て丸く収まる手段があるかもしれない。
だが、この場において全て可能性は潰えており、都合よく助けが来る様子もない。
今の大月に出来ることは、紙一重で即死級の猛攻を避けながら、彼女の良心に賭けるしかなかった。
「神楽! 聞いて! 人間同士の殺し合いなんて間違ってる!」
「ガ、ァアアアアアアア―――!!」
水の元素種族と呼ばれた元人間に、精神論は通用しない。
彼女がどれだけ声をかけようと、彼女の犯された理性は元に戻る筈もなく、その肉体が人の身に戻る様子もない。
唯一変わるものがあるならば、人の身である大月の肉体が悲鳴を上げる事ぐらいだ。
彼女がどれだけ優秀であろうとも、活動限界は無常にもやってくる。
それは人間である以上、逃れられぬ事であり、集中力が、関節が、筋肉が摩耗していく。
足元がおぼつかない、腕が上がらない、息切れが止まらない……。
しかも相手が無尽蔵の体力を持つ化け物である。
―――そして、最後の時がやってきた。
大月には何十分も感じられた命がけの説得も、実際は何分間程度かもしれない。
元より彼女はアスリートではなく、スタミナがある方ではない。
ただ、脳を焼き付かせながらも必死に足掻き続けたのは、人命を救いたい一心だけであった。
「やばっ―――」
転倒。余りにも致命的な一手。
酷使を続けた肉体が悲鳴を上げ、無慈悲に限界を迎えたのだ。
倒れた後も両足の痙攣は止まらず、立ち上がる事すらできない。
その好機を神楽が許す筈もなく、大月の上に馬乗りの姿勢となる。
雨粒降り注ぐ中、天を仰ぐは大きな黒い爪―――17歳の少女が本能的に死を悟った。
疲労が限界を超えていたのか、恐怖はなかった。思考に回す体力すら尽き果てているのだろう。
神や悪魔じゃない只の人間なんだ。もう、潮時かな……と、思った次の瞬間。
親友である少女の笑顔が脳裏に浮かんだ刹那、無意識に肉体が死を拒絶した。
彼女の微笑みに手を差し伸べんと、今一度の活力を見せたのだ。
「ごめん……神楽」
火炎噴射の羽から噴出した炎は、まるで剣の如く天を突いた。
それは神楽恭子の腹部を貫通し、枝葉分かれした炎が全てを焼き払わんと包み込む。
何分だろうか、何時間だろうか……日が落ちたのだけが認識できた。
失意の雨に打たれ続け、大月の肌と制服は、神楽恭子の遺灰混じりの雨で、黒く黒く穢されている。
そう、今日―――大月零は、人を殺した。




