The Seventh of July
第0日目 The Start of Ending
人生の幸・不幸なんてのは一瞬で逆転する。そして更に自分が不幸な時には不思議と人が幸せに見える。この手記を読んでくれている君は”隣の芝は青く見えるんだ”なんていうかもしれない。
結論から言おう、それは違う。自分が不幸であると感じたならば他の人に幸が流れている。
これがこの世の中の真実だ。
1.幸せとは絶対的なエネルギーであり、その量は不幸の分だけ増加する。
簡単に例えるならば幸せは熱さであり、不幸は冷たさだ。違うのは熱ならば二つの物体を合わせたときに同じ温度になるように動くけれど、幸・不幸は逆転までありうる。ただ絶対的な量は変わらない。
例えばだけど、こんな疑問がある。
・無機質や高度な知能を持たない動物や虫には幸せを感じる瞬間があるか
もちろん答えはNOだ。
幸せを感じないのだからもちろん不幸を感じる事もない。幸・不幸のエネルギーを生み出しているのは人間ように発達した感情を持つ生物の心であり、これは地球では"おそらく"人間以外にはいないだろう。存在したとして人間に比べたら微々たる量である。"物に八つ当たりするな"なんてよく言うけれどこれは物を壊しても幸のエネルギーを享受できないのだから無駄にするなという事だ、と私は説く。
さて、幸・不幸についてここまで聞いてもらったわけだが今まで普通に生きてきた君のような人間は少し戸惑ってしまうかもしれない。このことを君が信じようが信じまいが僕は構わないんだけれど、どうせ書くのならば、少なくとも僕の様にはなってほしくないと思う。熱い鍋を置くときに下に使ってくれても、まぁ・・・いいんだけれど、出来ることならば君への啓発本として書いたつもりなので、ぜひ本として活用していただきたい。
君が理解しやすいように小説の様に僕の人生を振り返ろうと思う。長い話になるかもしれないし、人間の記憶ってのはあいまいなもんだ。自分の良いように書き換えてしまった所もあるだろう。しかし、話の大筋は大体あうようになっているはずだ。ゆっくりでいいから考えてほしい。
僕が起こした過ちの轍を君も踏むことのないように。
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2016年 7月7日 午後3時 僕の彼女が死んだ。20歳の若さだった。
トラックにひかれて即死だったらしい。痛みなく死んだのだから不幸中の幸いだなんていう人もいるけど、そんなわけないに決まってる。そんな事をいったやつは不幸の中に幸せを見つけ出すことのできる素晴らしい社会の奴隷なんだろう。
彼女のお葬式は滞りなく進められた。
僕はこれが現実だなんて理解できなくて・・・いや、理解したくなかった。最後に一目彼女の顔を見たかったけれど彼女の父親に止められた。棺の顔は見れなかった、いや見るべきだったのかもしれない、わからない。わからないけれど彼女の前で泣き声をもらす彼女の両親を見ていると、これが現実であることが否応なしに僕の両目、両耳に叩きつけられ、精神がどんどんと深いところに落ちていくのがわかる。
人の心ってのは嫌なことが起きたときに勝手に防衛して心が壊れない様にするらしい。これが僕の防衛のしかたなのだろうかなんて他人事の様に自分を見ていたのを覚えている。
彼女は良く笑う人だった。
彼女とは将来結婚も考えていて、大きくはないけど家をもって、子供は2人は欲しいなんてそんな妄想を学校、大学院の授業を受けながら妄想したりもした。
授業の後は彼女から来ているSNSの通知をみて、「この後ヒマ?」なんてメッセージが届いたときはその後の授業をさぼった時もあった。
そう、幸せにするはずだった。
僕が幸せを願ったことを世界が否定するかの様に彼女は死んでしまった。
世の中にはもっと迷惑をかける人がいて、他の人が不幸になればいいのになんて小さく呟いた。でも、どうして一番最初に、自分が死ねば良かったのにって思えないのだろうと嫌悪感で吐きそうだった。
そして、願った。そして呪った。
なんて言うとやばい奴に聞こえるけど、その時は本当にヤバい奴だったのかもしれない。
とにかくその当時は、心から、そうなればいいななんて、そう考えた。