90 - 夏の便りは何かを告げる
帰宅したところ、今日も鍵が開いていた。
「ただいま」
「おかえりなさい。洗濯物は籠に入れておいて頂戴。お風呂はもう掃除してあるわ、シャワー浴びるならいつでもいいわよ」
「……うん」
あれえ、と思ってホワイトボードを確認。
お父さんは普通にお仕事。
お母さんは……『代休』?
なにそれ?
「お母さん」
「なに?」
「代休って何?」
「代休よ。ほら、先月ずいぶんと土日もお仕事があったから、その分だけお休みを貰ってるの」
「ふうん……」
本当は本当、だ。
けど嘘もついている。
「……まあ、お母さんが何を隠そうとしてるのかまでは聞かないけどね。大方僕が聞くべきことじゃないんだろうし」
「…………、」
鋭いわね、といった表情になるお母さんに、まあ親子だし、と表情で返事を出すと、やれやれ、とお母さんは表情を変えた。
妙なところで通じ合ってる気がする。いや、それこそ親子ってこんなものか……?
「ところで佳苗」
「うん?」
「家庭教師の先生。よかったら今晩にでも挨拶に来るって言うけれど、いいかしら?」
「それを決めるのは僕じゃなくて、家庭教師の先生とお母さんたちでしょ。ていうか、僕っていつ家庭教師さんに勉強教えてもらうのかも知らないんだけど。部活もあるし」
「月に四回、一回一時間半くらいかしらね。夜の八時から九時まで、って話になってるけれど。曜日は土曜日か、平日か」
その時間なら別にどこでもいいか。部活もそこまで遅くはならないしな。
「土曜日でいい……、けど、別に何曜日でも変わんないかな。日曜日は遠慮してもらいたいけど、それ以外ならお母さんが決めて良いよ。ああ、そうだ。ついでじゃないけど、今週の日曜日は部活で練習があるんだって。九時から十七時くらいまで。お弁当持ってきて、って言われてる」
「そう。じゃあ用意するわ。量は……普通でいいかしら?」
うん、と頷き返す。
「日曜日は練習、学校でするのよね?」
「そう。保護者の付き添いはいらないはず」
「わかったわ。……うん? 今のニュアンスだと、近くに必要なイベントでもあるのかしら?」
「えっと、再来週の日曜日に、他の学校と合同練習をやるみたい」
「へえ。合同練習ってことは、バレー部の方よね。どことやるの? この辺りだと……、」
「紫苑学園だよ」
「そう。紫苑学園」
お母さんは頷いて、しばらく黙った。
というか動作が一時停止してしまっている。
「え? 紫苑学園ってあの紫苑かしら?」
「たぶんその紫苑じゃないかな。この前の体育祭でそこのバレー部のリベロさんとセッターさんが来てたんだよね。で、そのリベロさんが僕の演劇部の先輩、の弟ってつながりがあって。そこから話が進んだの」
「そう……世界は広いようで狭いのね……」
まったくだ。
というかたとえが僕と全く同じというのはどういう事だろう。やっぱり僕はお母さん似なのだろうか……。
「大変でしょうけど、頑張りなさい。きっといい経験になるわ」
「うん。目指せバレー選手! ってわけじゃないけど、でも、一つくらいは誇れる何かがほしいしね。全国的な名前の『どこかで聞いたことがある感』に関しては一級品だけど不本意だし……」
「そうねえ……人の噂も七十五日、よ。夏休み頃にはだいぶ収まっていると思うわ」
だといいんだけれどね。
「じゃあ、荷物あれこれしたらシャワーかな……。その前に何かお使いあるなら行くけど、どうする?」
「大丈夫よ。もう済ませてきたから。お菓子も買ってあるわよ、食べすぎないでね」
「はあい」
あとでなんかおやつ食べようっと。
そんなわけでシャワーを終えて一段落し、髪の毛を拭いて部屋着に着替え、そのままダイニングの棚をまさぐっておやつを確保。
今日の気分は……うん、これでいいや。と、取り出したのは歌舞伎揚げ。
飲み物もこれに合わせてジュースではなくお茶にしよう。
冷蔵庫を開けてみると緑茶が入っていたので、それをコップに一杯分……いや、二杯分用意しておくか。
「そうそう、佳苗、聞き忘れてたんだけれど」
「うん?」
「そろそろプールの授業始まるのよね?」
「ああ、うん。来週だったかな?」
中学校のプール開きは結構早いのだ。
僕の中学校ってプールが屋上にあるし、なんか色々な意味で楽しみだ。
「水着は新しいの用意してあるわよ。ゴーグルも。…………。ねえ、佳苗」
「…………。何かな、お母さん」
「目を向けて頂戴」
「うん」
観念してお母さんのほうを見て、話を聞く。
僕はそれに、はい、と頷くことしかできなかった――
――という話を自室に戻り、案の定僕の部屋に入り込んできた洋輔にお茶の注がれたコップを渡して話してみると、
「さすがは佳苗のお母さん、だな……」
と、洋輔は失笑を堪えようとして失敗するかのようなそぶりを見せつつ言った。
「いや、悪ぃ悪ぃ。でも本心だぜ。いい親だろ」
「洋輔のお母さんもいい人だと思うけども」
「んー。まあ自分の親ってさ、なんか変な立場だよな」
ああ、それは確かにあるかも。
「というか」
「うん?」
「俺とお前の母親を足して二で割れば色々とちょうどいい」
「…………」
それは、そうかも……。
なんだか割り方を間違えると悲惨なことになるけど、平均化ができたらいわゆる聖母的なものになりそうだ。
割り方を間違えた場合は……うん、これは考えないほうが良い。
「でも、そうか。確かに来週からプールの授業かあ」
「洋輔は億劫なんだっけ?」
「んー。まあまあな」
やっぱり億劫なのか。
「ただ、別にプールが嫌いってわけでもねえからな。暑くなってくる時期にマラソンやらされるよりかは比較的マシだ」
それは当然って感じもするけど、ね。
ちなみに中学校のプールの授業は、男女別で行われる。
男子がプールの授業をする場合は女子は別の事をして、逆もまたしかり。
プールではないときはバスケだとかバレー、バドミントンが主であるそうだ。
校庭でやる授業も無いわけじゃないらしいけど。
「プール、で思い出した。武道・ダンスの選択授業どうすんだ、佳苗は」
「ああ、それ僕もどうしようかなって。洋輔に合わせるつもりなんだけど、どっちにするの?」
選択授業、というのは、中学校になって唐突に入ってきた要素なんだけど、読んで字の如くである。
体育の授業の一部で洗濯する部分があって、それが『武道・ダンス』。
武道を選んだ場合は剣道、柔道、あとは相撲。ダンスを選んだ場合はダンスの授業を行うことになる。
ダンスの授業って何、と思わないわけでもないのだけれど、それは体育祭で女子がやっていたような創作ダンスだろう。
社交ダンスとも思えないし。競技ダンスという可能性はあるかな……さすがにないか。
「正直、俺、あんまりダンスには興味ねえしな」
「かといって武道って……」
「まあ、な」
間違いなく僕たち、すごく目立つんだよね。
意識しまくってきちんとこなしたとしても、咄嗟に動けば素が出てしまう。
それこそ僕は異世界で護身術は最低限しか学んでいないとはいえ、それでも剣道部の部長を務める昌くんに攻撃を通せる程度には動けてしまう。
洋輔は僕よりも数段階は進んでたからなあ。本質的な所では魔導師、つまり後衛ではあったけど、僕とは違ってちゃんと戦闘を嗜んでいたわけで。
「どっちを選んでも困りそうだね。興味がないけど変なことが起きそうにないダンスか、変なことが起きそうだけどやる気はでる武道か」
「やる気って意味では、武道なんだよなあ……。どうするよ」
「んー」
ま、実際やる気は大事だろう。
ということで武道の方にしよう、と提案してみると、洋輔はりょーかい、とやる気なさげに頷いた。
ううむ、洋輔の場合はどっちにしろやる気がないパターンだったか……。
「それで、今日挨拶しにくるかもしれない家庭教師ってどんな奴なんだ?」
「いや、どんな奴って聞かれても僕もまだ会ったことないよ」
「でも名前くらいは教えてもらってるんだろう」
ううん、と首を横に振ると、まじかよ、と洋輔はあきれ顔を浮かべた。
だよねえ。
「男の人なのか女の人なのかもわかんないしね。男の人のほうが気軽でいいなあ」
「なんだぁ、佳苗、色気づいたか?」
「いやいや。男の人相手なら嫉妬だけで済むから」
「嫉妬だけ?」
「うん。女の人が来たとしても、ずいぶん年上だろうしね。となると僕より背が高いでしょ? 嫉妬に加えて劣等感まで刺激されつつ勉強するのは嫌だよ僕」
それじゃあわかることも分からなくなるからね、というと、洋輔は頬を引きつらせてそうだな、とだけ頷いた。
ものすごく複雑な心境のようだ。表情からでは読み取り切れない。
「言い回しは今晩来る、だったかな……」
「ってことは、毎週水曜か?」
「ううん。土曜日の夜予定だって」
日曜日くらいは休みたいか、と洋輔が小さくつぶやいた。
さすがにその辺りの思考は完全に読み取られているらしい。
この感覚、結構悪い気にはならないんだよね。
「まあどのみち、勉強自体はこの部屋でするだろうしね。そういう意味でも、机とかがどういう環境なのかは見たがるだろうから……、その時、洋輔も紹介するよ。幼馴染の親友だよーって。そしたら、洋輔も自然に面識持てるでしょ」
「そう、だな……別に、そこまで気にしてるわけでもねえけど。お前には眼鏡もあるし」
「ああ、眼鏡で思い出した。プールのゴーグルも細工しとかないと……」
「……いや。するのは良いけどよ。意味あるのか?」
「…………」
どうだろう。
「やらないよりはましだと思わない?」
「まあ……そうだけど」
はあ、とわざとらしくため息をついて、洋輔はあからさまにあざけるように、だけど心配するように言うのだった。
「変に細工して溺れるのだけはやめろよ。佳苗は泳げないんだから」
晩御飯は、お父さんを待つと今日は遅くなるからという理由でお母さんと二人で食べた。お父さんには悪いけど……。
ちなみに今日はポークソテー。ケチャップ味。お母さんにさりげなくレシピも聞いておいたので、次回からはより品質の高くして再現できるだろう。
で、後片付けもお母さんが今日はすることに。僕は洗濯だ。
洗濯物はそれほど多くないのでそこまで大変でもないけど、それはたぶん朝にお母さんが少しやっておいてくれたからだろう。
普段よりちょっと少ない。
それに選択をすると言ってもネットに入れるなりいれないなりして色物に気を付けて洗濯機に入れ、あとはボタンを押すだけだからなあ……。
簡単でいいけど。
というわけで洗濯機のボタンを押したところで、だった。
ぴんぽん、とドアフォンが鳴らされたのは。
少し急いでダイニングに移動、すると、既にお母さんがダイニングで応対していた。
カメラに写ってるのは、見たことのない青年だ。
髪は僕よりちょっと短めで、眼鏡をかけている。
ドット柄の淡い黄色のシャツにジーンズ、肩から掛けたバッグは革だろうか、なんだか高級品っぽい。
そしてお母さんは少しだけ言葉を交わすと、僕の肩を叩いてダイニングから廊下へと向かった。
肩を叩いて。
ついてこい、という感じかな?
言われてはいないけど、言われた通りに後に続くと、お母さんはチェーンを外して鍵を開け、当然のように玄関を開けた。
その青年は身長がそこそこ高い。園城くんくらいかな……170はありそうだ。
「初めまして。香木原士です」
「初めまして、香木原さん。今日はありがとうございますね」
「いえ、こちらこそ。急な申し入れを容れていただき、感謝します」
丁寧に頭を下げて、青年、かぎはら? さんは、やっと視線をお母さんから僕へと移し、そして微笑みかけるように言った。
「君が、佳苗くんかな。初めまして。香木原士、君の家庭教師をすることになりました」
「かぎはら……さん? ですか。初めまして」
お辞儀をしかえして、一応色別。緑。問題なし。
まあ赤くても困るか……青くても困るけど。解除っと。
そういえば洋輔も気にしてたな。
ふと気になったので眼鏡の位置を直すふりをしてダイアルの位置を変えて、洋輔主観における色別モードをオン。
あんまり意味はないと思うけど。
……あれ?
ダイアル間違えたかな。
もう一度チェックして、洋輔主観モードであることを確認。
改めて発動。
…………。
この人、赤く見える……?
僕にとっては中立でも、洋輔にとっては害のある人ってことだよね。
誤作動だろうか。
まあいいや。本人に合わせればはっきりするだろう。
「お母さん。先生に一度、部屋を見せておこうと思うんだけど」
「そうね……先生がよければ」
「助かります」




