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黒迄現在夢現  作者: 朝霞ちさめ
第三章 体育イベント二点盛り
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59 - 渡来佳苗の決意の形

 片づけを終えて帰宅して、洗濯機を動かして。

 一通りやることをやり終えた感じはしたけど、なんとなく不快だったのでそのままお風呂に入ることに。

 とりあえずお風呂掃除をさくっときっちり終わらせて、髪と身体を温水で洗ってから、空っぽの浴槽に入ってお湯をため始める。

 なんか贅沢してる気分だ。

 最初はちょっと肌寒いけど、お湯が座っている僕の身体をだんだんと包み込んでくる感覚が、なんだか無性に楽しくなる。

 お湯がくるぶしのあたりまで溜まって、僕は湯船の壁に身体を預けるように、力を抜いてもたれかかった。

 あー。

 やっぱりお風呂は良いな。

 考え事を……、少しでも、前向きにできるから。

「ん……ふぁあ」

 若干の眠気があるのは、球技大会で一応疲労がたまってたということだろうか?

 それとも精神的な負担かな。

 どっちもという可能性が一番高そうだけど……。

 なんかなー。

 定期的に気分が落ち込んでしまっているような、感じか。

 渡来佳苗としては、別に今の生活に文句はない。

 学校は楽しい。

 実生活も充実している。

 両親が忙しそうで大変そうなのはかわいそうだ。

 だけど朝はちゃんと挨拶ができるし、僕がよほど早寝しなければ、夜もとりあえず顔を見るくらいのことはできる。

 だから寂しいわけじゃない。ただ、かわいそうだと思うだけで。

 その原因が僕らにあることは明白で、だからちょっと負担に思ってるところもあるけれど……でも、それは不満ではなく引け目であって、いわば不安のようなものだ。

 そんな不安も、当面は例の猫の置物で大丈夫だろう。いざとなったら洋輔の協力を仰いで問答無用でリザレクションを使ってもらってリフレッシュさせればよい。

 …………。

 あれ、なんか今の僕の発想って、ブラック企業も裸足で逃げ出すような発想なんじゃ?

 うん、まあ、これはうん。気にしない方針で行こう。ちょっとアレだけど、何の処置もしないで倒れられたらそれこそ大ごとだ。

 いやどうかな?

 っていうかなんでこんなどうでもいい、いやあんまりよくはないけど、関係のないところで躓いてるんだろう、僕。

 やれやれだ。

 けどまあ、そういうことをセルフノリツッコミできる程度には、僕は今の僕に文句が無い。

 やりたいことはできるし――全力で遊ぶための下地も手に入れた。だから、むしろ感謝さえしているのだ。まあ次にあの野良猫を見つけたらとりあえず髭を切るけど。片方だけ。それとこれとは話が別だし。

 じゃあ、と考える

 そう。渡来佳苗としての僕は、今の生活に一切文句が無い。

 なのに精神的に負担を感じている。その理由は何だろう?

 簡単だ。

 渡来佳苗がカナエ・リバーとしてあの異世界で過ごしていた時と、立場を反転するだけであとはまったく同じ。

 要するに、『カナエ・リバーの日常に帰りたい』という、カナエ・リバーとしての生活への未練だ。

 もちろん僕は渡来佳苗だ。

 だけどカナエ・リバーでもあるのだ。

 どちらが本当の自分であるとかじゃなくて、どっちも本当に自分である。

 佳苗もカナエも、どちらも僕であるのだから、そういう未練があるのは当然のことだ。

 カナエ・リバーとしての僕が、渡来佳苗の両親を時折思い出しては寂しくなったのと同じである。

 渡来佳苗としての僕は、カナエ・リバーの両親を思い出しては――寂しくなっているのだろう。

 それが未練で、忘れ物

 その忘れ物を自覚したうえでここ数日を暮らしていると、それまではあまり気にしてなかったことが気になってくる。

 忘却だ。

 今はまだ、覚えている。

 あちらの世界の空気の匂いを、あちらの世界の太陽の明るさを、あちらの世界の星の瞬きを、あちらの世界で暮らした日々を。

 だけどそれは、今はまだ、という時限付き。

 その証拠に――僕は、カナエ・リバーが生まれ育った家の構造を、だんだんと忘れ始めている。

 こういう部屋があったはずだ。

 こういう廊下があったはずだ。

 そういうことは覚えていても、その詳しくは覚えていない。

 間取りを今一覚えていない――僕の部屋に何があったのかも、覚えていない。

 それはきっと、それがあまりにもカナエ・リバーにとって当然のものだからだ。

 あって当然のものは、触れて当然だったものだからこそ、その細かいところまでは案外覚えていない。

 だから段々と忘れていく。

 だから段々と薄れていく。

 それだけでも、怖いのだ。

 カナエ・リバーを忘れることが、とても怖い――それは、カナエ・リバーの所縁(ゆかり)は当然だけれど。

 だけれど。

「…………」

 ちゃぷん、と。

 ふと気が付けば、お湯が胸元まで溜まっていた。

 気持ちいい。

 気持ちいいけど、気持ち悪い。

「…………」

 カナエ・リバーの生家を忘れ始めている。

 それは……とてもショックだけど、仕方がないと割り切れるかもしれない。

 だから、最大の問題はその次なのだ。

 僕は、カナエ・リバーの『顔』さえも、忘れ始めている。

 それは自分を忘れるということだ。

 あちらで確かに生きたあの日々を、消してしまうということだ。

 それが途方もなく怖い。

 怖くて、不安で、だから、あちらの世界を想ってしまう。

 『帰りたい』とカナエ・リバーとしての僕が考えてしまうのは、だからそのせいなのだろう。

 僕は僕を忘れたくない。

 僕は僕であり続けたい。

 僕は、今の僕のままで。

 そして、いつの日にか。

「……出るか」

 溺れたくないし。


 自室に戻って寝間着に着替えつつ、そんなことを考えてたんだよね、と。

 僕は隠さずに、洋輔に全部を話すことにした。

 洋輔には悪いけど……隠すのも、それはまた悪い気がしたし。

 それに、洋輔ならば受け止めてくれると思ったからだ。

 ……依存だよなあ、これ。

「顔を、忘れる……?」

「うん。フゥとかニムの顔は、はっきり覚えてるんだけどね」

「……そりゃあ、確かに怖いな。あっちの世界での自分が嫌いで仕方なった俺にしたって、やっぱりそれは怖いぜ」

 そして案の定、洋輔は正面から受け止めてくれている。

 ちなみに洋輔はちゃんと洋輔の部屋。

 お互いに自分の部屋の窓にもたれかかるようにしての、だらだら話だ。

「……でも、何かおかしいな。ひっかかる」

「何が?」

「いや……、正直さ。さっきも言ったけど俺はヨーゼフ・ミュゼとしての自分が嫌いだったから、あんまりそういうことは考えなかったんだよ。そりゃ改めていわれりゃ気にするけど、基本的にはあっちでの経験は経験値程度にしか考えないで、あれは性質の悪い悪夢だったと思うことにして、その夢でなんか魔法が使えるようになったんだと思うことにしてる。無理はあるけど、そっちのほうが俺にとっては楽だから」

「うん」

 実に洋輔らしい。

「でも……うん。やっぱおかしいわ」

「だから、何が」

俺も(、、)、かもしんない」

 うん……?

「カナエ・リバーの顔をはっきり思い出せねえんだよ。つーか、ヨーゼフ・ミュゼの顔もはっきり思い出せねえ」

「へ……?」

「他の連中はだいたい思い出せるんだけどな。ウィズとか、恩人(ラジエル)とか」

 ラジエル……誰?

 僕の知らない人だな。ヨーゼフ・ミュゼの知人だろうか。

「なあ、佳苗。確認だ。お前はヨーゼフの顔思い出せるか?」

「え? そりゃあ……」

 …………。

 あれ?

「……曖昧とは、思い出せるけど」

「曖昧と。はっきりは思い出せない?」

「……うん」

「んじゃもう一つ確認。お前さ、寮の間取りは覚えてるか?」

「それは覚えてる」

 完璧に。

「じゃあ俺たちの部屋の家具は?」

「……あれ? ……洋輔は覚えてる?」

「いや、それが今思い出せなくてな。だから聞いたんだ。間取りは覚えてるけど、俺たちの部屋については思い出せない。どういう間取りがベースだった、そういうのははっきりしてるのに、どこに何があったのかが思い出せない……そんな感じでさ。で、色々と思い出したくもないことを思い出そうとして見ると、あれだ。ヨーゼフが両親を殺してから受験するまでの間には店で働いたり、その前には短期間だけど宿で暮らしたこともあるんだが、はっきりと、というふうに考えると、その宿の部屋の事も思い出せねえし、店で与えられてた個室の間取りも思い出せねえ。宿の恩人はラジエルって人なんだけど、その人に関してはだいたい思い出せるし、店のスタッフも大半は思い出せるけど、ちらほら思い出せないやつもいる」

 思い出せない……?

 それは何か……気持ちが悪いな。

 気持ちが悪いというか、怖いというか。

 怖い話を聞いた時のようなぞっとする感覚まではいわないけれど、その一歩手前な感じ。

「……佳苗の方は、どうだ? いや、正直これを聞くのって色々と悪いんだけど、でもちょっと気になることがあるから聞かせてくれ。佳苗が思い出せないのは、他に何がある?」

「え、っと……。うーん。そんなにないけど。なんかピンポイントに、僕の家とか、僕の顔とか、僕と、あとはヨーゼフ関係かな? それも本人とか、その本人が使ってたもの、とか……。ほら、ヨーゼフが装備してた靴とかが思い出せない感じ?」

「なるほどな。なるほど、オーケー。わかった。共通点は、じゃあやっぱりそこだな」

 共通点?

「ってことは……あー、やっぱそうか。そういうことか。納得……納得したくねえけど、そう考えりゃつじつまは合う」

「うわあ。聞きたくないなあ。でもそれ、聞いた方がいいやつなんだよね……トータルでは」

「うん。たぶんな。トータルで言えば聞いた方がいい。ただ、短期的には凹むと思うけど」

「だよねえ……。まあいいや。教えて」

「……オッケー。そういうことならな。えっと、俺と、たぶん佳苗もだけど、あっちの世界に関してはたぶん『普通に覚えてること』と、『だいぶ忘れてること』がある。たとえばあっちの世界で見てた星空とか、そういうのは覚えてるだろ? あっちの世界の地図も、案外覚えてるはずだ」

 その通り。僕は頷き、続きを促す。

「そういうのも、いつかは忘れるかもしれない。それが嫌なら定期的に思い出せばいい。たぶんそのことは普通の記憶と同じ――『覚えてる限りは覚えている』。だけど、俺たちの記憶からは欠落し始めてるものがある。『だいぶ忘れてること』。その共通項は、俺とお前だ」

「うん?」

「だからさ。俺たちが忘れ始めてることは、『ヨーゼフ・ミュゼ』か『カナエ・リバー』が居ないとダメな事、なんだと思う」

 僕たちが居ないと、ダメな事……?

「その一番わかりやすい例が、『ヨーゼフ・ミュゼ』と『カナエ・リバー』の顔だ。そりゃ、その俺たちが居なければそいつらが居ねえんだから、当然だよな。寮の間取りは覚えてるのに俺たちの部屋だけ覚えてないのは、『そこで俺たちが生活していない限り、その状況にならないから』。お前がカナエ・リバーの家をいまいち覚えてないのもたぶん理由は同じ。そこに『カナエ・リバー』が居ないからだ」

「……いや、でも。それはさすがに極論過ぎない?」

「俺が働いてた店では、スタッフの顔も大半は思い出せるけど、ちらほら思い出せないやつもいる。で、そいつらには共通点がある。俺がリザレクションを使ったことがあるかどうか、だよ」

 リザレクション。問答無用の回復魔法。現象で言えば回帰に匹敵する、死んでいなければ戻すという極限の魔法。

 腕の一本足の一本ならば瞬間的に治せる、すさまじい魔法だけれど。

 そういった極限の魔法は、魔導師くらいにしか扱えなくって――

「知っての通り、当時の俺はよほどのことが無い限り、魔導師って立場を隠してた」

 ――だよなあ。

「リザレクションを使った相手は、だからかなり少ねえんだ。だからこそ、すぐに共通点がわかったのさ」

 だとしたら理由は……あっちの世界で、カナエ・リバーが、ヨーゼフ・ミュゼが、消費されたからか。

 あっちの世界で僕たちという存在が無くなったから……僕たちも、その影響を受けた、と。

「原因が何であれ、もしそれが理由だとしたら……か。あんまりやりたくなかったんだけど」

「ん?」

 僕は適当な写真を一枚取り出し、重の奇石でふぁんと二枚に増やす。

 そして片方を、改めて錬金、ふぁん。

 はい、完成。

「よかった。まだ作れる程度には記憶が残ってたか」

「おい、まさか……」

 うん、と頷き、完成品を洋輔に見せる。

 その写真には、カナエ・リバーとヨーゼフ・ミュゼが写っていた。

「忘れてたまるか。この僕だって、僕なんだから」

「錬金術による、写真のねつ造って……なんかさりげなく、すさまじいことしてねえか、佳苗」

「え、そう?」

「いやだって、それ念写みたいなもんだろ」

 ……あ、言われてみればそうかも。

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