第7話 リスタート
虚の森。
大陸の中央部に座する世界最大の大森林。
下手な小国よりも遥かに広大な地を占めており、多大なる影響を世界――特に周辺各国――に与えている。
一度入り込めばその大自然の迷路に惑わされ、対策を講じておかなければ一瞬にして方向感覚を失い二度と戻ってくることができない。
そんな危うさを持つ虚の森だが、実は豊富な資源の宝庫としても広く知られている。
植物、動物、鉱物。そのどれもがこの森固有のもので、他地域では一切見ることができない貴重な資源である。これらの価値は非常に高く、市場に出回ればその価格は他と桁が異なるのが常だ。それでも需要は高いため瞬く間に売り切れ、転売に次ぐ転売などでさらなる価格の高騰が始まるのは分かり切ったことなのだ。
しかし一つ言うべきことがある。
先述した森を取り巻く二つの状況は何もただ広いから、貴重だからという平凡な理由などではない。
一番大きな虚の森の認識を訊けば、世界中の誰もが一致した答えを出すだろう。
「死の森」
それが世界の共通認識だ。
そうされる原因に、他とは比べ物にならないほど魔素濃度が高いことが挙げられる。外周部から奥へ行くほど魔素の濃度は高くなる。
けれどもそれだけで死の森と表されているわけではない。
特筆すべき点はただ一つ。
魔物である。
森特有の魔素濃度によってそこの魔物の強さは森の外と中では一線を画し、濃度に比例して強くなっていく。加えて知能も他より高いので戦うとなると、生半可な実力を持つ者では魔物の餌にされてその人生を終える。
そんな虚の森の中を悠々と歩く少年が一人。
黒髪が目立ち顔立ちも良い方であろうその少年に怯えや緊張といった負の感情は見えない。まるで散歩でもしているかのような足取りである。
何も知らず傍から見れば少年に向けられるのは好ましい感情ばかりだろうが、ここはあの虚の森であることを忘れてはならない。
少年を見つめる一対の目が鬱蒼と繁った草木の隙間から確認できる。その目から窺えるのは敵意であり、餌を見つけた歓喜でもあった。
そっと悟られないように忍び寄り獲物に襲い掛かるべく足に力を込める。
少年は今まさに迫る生命の危機に気づいていないのか、その足取りに変化はない。
代わりに背後からの視線の気配に変化が見られた。
がさっとした音の発生源である草むらから躍り出たのは、巨大な体躯を持ち湾曲した角を持つクエルノベアーだ。
個体は違うが以前少年に襲い掛かりその命を刈り取ろうとした、少年にとって因縁のある魔物である。
汚い涎をまき散らしながら凶悪な角を少年めがけて突き刺そうとする。だがしかし、そうはならなかった。
――身体強化――
少年の心の内で呟かれた言葉。
それがもたらしたのは迫り来る死の運命を跳ね除ける魔法の力だった。
少年は振り向きざまにクエルノベアーの角を片手でがっちりと掴む。その瞳に宿るのは鬱陶しさだ。眉をひそめ己を狙ったものの正体を確認すると一転、少年の表情は長年待ち望んでいたことが実現したかのような喜びに満ちており、やがて徐々に挑戦的な感情へと変化した。
「やっと会えたな。探しても見つかんねぇんだもん、お前。つーか今日は探してなかったのにまさかそっちから来るとは。一体俺の苦労は何なんだろうな?」
少年は知らないが彼の腐れ縁の友人が見れば、「それは物欲センサーが反応したんだよ」と笑いながら言うだろう。
ちなみに「物欲センサー」とは欲しいものが欲しい時に全く出ず、忘れた頃に出てくることから特にゲーマーたちの間でそういわれている。都市伝説の域を出ないものだが実体験から信じている者は多い。
話を戻そう。
襲われた獲物のはずだった少年は寧ろクエルノベアーを狙っていた。
彼の言葉から察するにクエルノベアーを随分と探していたらしいが残念ながら今まで見つけられなかったようだ。そんな嘆いているような呟きが終わると急速に両者の立場が逆転する。
少年は狩人に、狩人は獲物に。
角を掴まれたクエルノベアーは今まで振り払おうともがいていたが、意味を為さなかった。少年の力がこの魔物の力を凌駕していたためだ。
だが危機感を感じ始めた魔物の望みはちゃんと叶えられることになる――角をへし折られるという形で。
少年は手首を捻り角を折ると、クエルノベアーの頑健な顎を魔法で増強された膝蹴りで粉砕する。突如与えられた激痛の苦しみからの咆哮が鳴り響く。
「うるさい口を閉じろ、頭が痛くてかなわん」
そう言った一拍後、既に少年は魔物の懐に潜り込み肘打ちを打ち込んでいた。瞬間、クエルノベアーの体躯は地面を離れ低空を飛ぶことになる。
吹き飛ばされる勢いで木々を薙ぎ倒し粉砕していく中、その原因を作った少年は。
「やっべ、ちょっと舞い上がっちゃて吹き飛ばし過ぎたか。どこまで行ったかなー。…………追いかけんのダルっ」
愚痴っていた。
ため息とともに頭を搔き――もう一度ため息をつくと、緩んでいた空気が一気に鋭い空気に切り替わる。その空気に相応しい面様になると忽然と消えた。否、凄まじい速度で疾走したのだ。
黒い髪を靡かせ自身が飛ばした獲物の元へ、不規則に並び立つ木立の間をすり抜ける。
高速で走る彼が見る視界には一瞬にして後ろへ流れる木々が絶え間なく映っており、常人では進路上の障害物を避けることすら難しいほどであったが彼にとっては大したことにならない。
身体強化という魔法で肉体とともに知覚能力まで強化されているからだ。
ようやっと辿り着いた先には、痛みを伴う僅かばかりのとっても低い空の旅を堪能したクエルノベアーの姿。体の至るところに傷跡を残し赤い血が流れ出ている。ふらついた魔物は自身を傷つけた強者をその目に入れると、怒りの咆哮を放つ。
対する少年は余裕綽々といった体で耳朶を打つ雑音の発生源へゆっくりと歩を進める。
両者の間にある隔絶した差は既に勝敗を決定づけたと思われたが、クエルノベアーがとある動きを見せたことで少年に優勢な戦況に陰りが出来始めた。
怒り心頭のクエルノベアーの体からどす黒さが混じった紫色のオーラが流れ出し、両眼が赤く怪しい光を発し始めた。
少年はピクッとそれに反応する。
「――あれは…………」
何かに気づいたのだろう、すっと目を細め薄気味悪い変化をしているクエルノベアーを見据える。
見覚えがある光景を前に、少年の脳裏に最初にこの世界へ来たときに遭遇した狐型の魔物がよぎる。
「…………“沈み”、か。そういやお前の仲間は使ってすらいなかったな。お前にとっちゃ何のことやらわかってねぇとは思うがあの時のお返し、勝手にやらせてもらうわ。少なからずプライドが傷つけられたもんでね」
口端を引き上げながら一人宣言する。
意味を理解していないだろうが、クエルノベアーはその声を皮切りに更に怒りを爆発させる。
それをぶつけるように折られず残っていた片方の角が少年の元へ向く。直後、先程までの動きを上回る速さで突進するクエルノベアー。
双眼の赤い光が宙空に尾を引き直線を描く。
恐ろしい姿に変貌する前とは比べるまでもないほどの素早さだ。
然れども疑問が残る、何故こんなことになっているのか、と。
その答えは先の少年の呟きの中にあった。
“沈み”。
主に魔物を相手取る者達の間で使われる表現である。
魔物が生命の危機を感じたとき、興奮したときなどに起こる魔物の特性だ。但し全ての魔物が使えるわけではなく上位の魔物しか使えないものだ。
目に見える変化は今のクエルノベアーの様相と同じ。そして最も注目すべき点は身体能力の上昇で、対魔物戦で人々が留意しておかなければならない事柄だ。
もし知らない者がいれば形勢はあっという間に逆転してしまうだろう。
そんな“沈み”で強化されたクエルノベアーはその力にものを言わせ猪突猛進する。ところが少年は難なく横へ跳び巨体の砲弾を躱す。
躱された攻撃の勢いを無理やり止め方向転換、狙い損ねた忌まわしい獲物に照準を合わせ再び突貫する。しかしこれも簡単に躱され攻撃が当たることはなかった。
何度か同じやりとりを続けている中、遂に業を煮やしたのかクエルノベアーが前足を地面に叩きつける。
苛立ちが最高潮に達し周りに当り散らしたと思われるが、実はそうではない。
叩きつけたところからいくつもの先端の尖った岩が次々と隆起し出し、津波の如き動きをしながら瞬く間に少年へと襲来する。
魔物の魔法の発現だ。
上位の魔物には“沈み”の他にもう一つ気をつけておかなければいけない事柄がある。それが魔法の発現。
とはいえナンバーマジックのように応用が利くものではなく、ただ一種類の魔法だ。一種族に一つ持ちそれぞれが違うのが特徴だが、魔力の消費が激しいため安易に使われることはない。
だがそれは危機に瀕したときの行使が多く起死回生の一撃となり得る場合もあるため、決していけると思って油断してはいけないのだ。
ちなみに少年が遭遇したウングィスフォックスが使った謎の攻撃の正体も魔法であり、それをもって彼に負傷させた。
放たれる魔法で突き上げられた大地に隠れて少年の顔は見えない。
驚き焦っているのか、それとも諦め死を享受しようとしているのか、確認できない。
ただ、明確にわかっていることが一つある。
――少年は本気を出していない。
隆起した大地に呑み込まれ串刺しにされたかに思われた少年。荒らされた周囲に彼の姿はなく、この惨状を生み出した魔物がいるのみである。
本当に死んでしまったのか。
さっきまでの闘いが嘘のようにこの場は静けさに満ちている。風が草木を揺らしざわめきを奏で始めた。
闘いの終わりを悟ったのかクエルノベアーが勝ち鬨をあげる。
そして――――
――背後に佇み、うっすらと笑いを浮かべている少年がいた。
音も出さずすっと飛び上がりクエルノベアーの体長の数倍の高さまで昇ると、身体を縦に回転させながら重力に身を任せ急降下する。
愚かな魔物の体に影が差したことに気づきようやく異変を認知したときにはもう遅い、その脳天を破砕する強烈な踵落としが投下されたところだった。
炸裂した攻撃で血が周囲に撒き散らされ、土に吸い込まれては染みを作っていく。
鈍重に揺れ、倒れゆく魔物はドシンと音を立て、それ以上動くことはなかった。
着地を決めるとゆっくりとソレに近づく。
砂利を踏みしめる音が空しく発せられる。
自身の油断によりあっさりと絶命したクエルノベアーを泰然と見つめた少年は一体何を思う。
かつて彼は片足をクエルノベアーに喰われ絶望した。
どんなに足掻いても全て無駄なことだった。
普通に考えれば獣と人間では獣が勝つ。脆弱な人間は勝てないのは当然だ。さらに言えば彼が闘ったのは魔物なのだ、どう考えても勝つのは無理だろう、仕方のないことだ。
しかし彼は生来の負けず嫌いであり、理屈は二の次なのだ。
生きたいと、勝ちたいと、もうあんな無様を晒したくないと思っていた。
彼は師に教えを仰ぎ懸命に努力した、屈辱の敗北を糧にして。
そしてその結果は目の前に横たわっている。
少年が積み上げた努力に比肩し得る闘いだっただろうか。結末は相手の油断によって終わった――あまりにも、簡単に、あっさりと。
少年は一体、何を思う。
「…………終わった」
静謐な森に勝者の声が染み渡る。
彼はそっと胸に手を当てる。
手に届くのは体の内側から鳴り響く心臓の音、つい今しがたまで動悸がしていた音だ。
それは先の戦闘での彼の言動とは真逆の感情から起きていたものだった。外から見たことが全てではない、内ではしっかり恐怖していたのだ。
クエルノベアー以外の魔物ではそんなことはそうそう起きないであろう。
だが自分の足を喰われるところを見るなんてトラウマものだ。心に何らかの形で刻み込まれるのは避けられない。
だから内から湧き上がる恐怖を押さえつけ余裕の態度を見せつけた。そうしなければもしかしたら少年の何かが決壊したかもしれない。
少年は何かを断ち切るように、瞼を閉じた。
再び現れた漆黒の瞳はもう過去に囚われてはいない、清々しい感情をありありと示していた。
「お前のおかげで俺はここまで強くなれたよ。ありがとう。
これで俺は次へと進める――あの滅茶苦茶な存在のもとに」
こうして少年――狭間京鵺は己の因縁と決着をつけ、さらなる高みを望み始める。
目指す背中は追いつけるか定かではないくらいに遠い。
それでも、狭間京鵺は追い続ける。