第2話 絶望と意地
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一息つこうとしていた最中だった。
ソレが現れたのは。
巨大な体躯に鋭く獰猛な爪と牙。黒茶色の体毛に覆われている頑強そうな体は、その大きさと相まって途轍もない存在感を放っている。
そしてこいつの一番の特徴といえる地球の熊にはない、闘牛のような長い角が頭についていた。その鍛え上げられた角で数々の獲物を屠ってきたであろうことは、容易に推測できた。
俺がアレの存在を認めた瞬間、全身の毛が総毛立ち身体が動かなくなってしまい、やがて震えが止まらなくなった。
あいつに対する恐怖が心を、体を支配したのだ。
圧倒的強者。戦わなくてもわかる。アレはおよそ人が手を出していい存在じゃない。
逃げるしかない……!
だから――ッ動けよっ! 俺の身体!
完全に硬直してしまっている身体を、理性で再び動かそうとする。
動かないなら無理やりにでも動かせ。
恐怖なんてねじ伏せろ。
死までの猶予はあいつが肉を食ってる間だけだ。
全身の震えを意志の力で抑え込んでいく。
必死こいて恐怖に抗った甲斐あって、ようやく身体を動かせるようになると、俺は角熊に気づかれないようにそっとこの場を離れた。
足元に注意を払いながら慎重に、それでいて素早く移動することを心掛ける。余裕などなかったため、どのくらい移動したか定かではないが、辺りに角熊の気配はない。
かなりの距離を稼げたと判断し少しだけ肩の力を抜いた。まだ安全とはいえないが、ここまで来ればあの角熊が追ってくる可能性はかなり減るはずだ。
そばに生えていた木に背を預け、息を吐き出す。
胸に手を当てて未だ収まる気配を見せない鼓動を感じ、先程の化け物の恐ろしさを改めて感じてしまう。
あの姿を思い返すだけで足がすくみそうになるし、嫌な汗が止まらなくなる。
今ここに居なくても、存在だけでこんなにも俺に影響を与えるような奴に…………俺は一体どうしたらいいんだ?
それにこの森にいるのはあいつだけなわけがない。他にももっといるはずだ。……もしかしたら、あれより恐ろしい奴も……。
これから俺は何をすればいい?
何をすれば生き残れる?
――――……わからない。
俺が今ここにいる理由だってわかってないのに、その上あんな奴が生息しているような森からどうやったら抜け出せるっていうんだ。
「……ちっくしょう…………」
爪が食い込むほど拳を握り締め、この理不尽な世界に対し憤りを露わにする。
俺は一度死んだんだ。それなのに何故かこのわけのわからない世界で生きている。そしてここでまた死ぬかもしれない。
……運命を憎むよ、俺が何をしたってんだ。勝手に生き返らせといて勝手に殺すのか。
もはや明確な相手などいない怒りの矛先を、運命という不確かなものに向ける。そうでもして吐き出さないと潰れる。大きすぎる憤慨に、そしてそれで隠したもう一つの感情に。
「……ここにいても埒が明かない。とっとと移動しよう」
何かに突き動かされるように、俺は足早にその場を離れた。
歩いていると次第に頭が冷え、現在自分を取り巻く状況を整理することができるようになっていた。ただ、そうなったことで新たに問題が浮上してきたのも事実。
俺は今後の方針について憂えていた。
まず人を探す、と考えていたが現実的ではないかもしれない。
さっきの角熊を見て、この森は相当に危険な場所であると判断した。そしてそんな場所に人はそうそう来ないだろうということも。
もともとダメ元でやっていたが、少なからず希望を持っていた。森といえどそこまで危険なところじゃないと、短絡的な考えを根拠にして。
ところがこの森の実態を垣間見たため、方針の変更を余儀なくされてしまった。
人はいない。来るのを待っても無駄。森には化け物。
……詰んだかもしれない。
妙案らしい妙案も思いつかないまま、あまりの八方塞がりな状況に途方に暮れる。
「とりあえず……森の脱出を目指しつつ人を探そうか……」
もうそれしかない。やることは今までと大して変わらないが、ここで粘ってもいい案が出るとは限らないし。
そう論結した俺は気持ちを新たに、行動を開始した。
手始めに思考に没頭していて若干おろそかになっていた警戒心を引き締める。
――だが、遅かった。
不意に後方の藪から草が揺れる音がした。追って藪から発せられる濃厚な殺気。
ドクンと心臓が大きく脈動し、すぐさま振り向く。
草が大きく揺れ、出てきたのは絶望の体現者。
逃げてからずっと抱いてきた鬼胎が奴の姿を視認した途端、顔を出す。
頭部に鋭く尖った角を生やした熊のような姿をした化け物が、悠然と、慄然と、こちらを見ていた。
「…………ハッ……ハァッ……ハァ……な、何で……ここに、いるんだよ……」
ぶり返す恐怖は呼吸をおかしくさせ、震えを蘇らせ、全身を蝕んでいった。
抗うことのできない情動に身を竦ませていた俺の頭の中は、どうして奴がここにいるのか、どうしてここまで追って来られたのか、という疑問に占められる。
確かにあの時気づかれずに逃げたはずだ。現に角熊は今まで姿を見せなかった。なのに……どうして……。
納得できない目の前の光景に呆然とする。
角熊が一歩踏み出した。
俺は近づいてくるのが怖くて、距離を保つように一歩後ろに下がる。
角熊がゆっくりとこちらに近づいてくる。
対して俺は後ずさる。
やがて――
「――っ…………」
背後に屹立していた大樹の幹に後退を阻まれた。同時に冷たさを感じた。
そしてわかってしまった、何でこいつが俺を追って来られたのか。
俺に冷たいと感じさせたのは、今着ている服。正確に言えば――――血。服にたっぷりと染み込んだ冷えた血液が、俺の疑問を解消してくれた。
「そういう、ことかよ…………。――ははっ……ホント……何で生き返らせたんだよ」
乾いた笑いが俺の口から勝手に出てきた。
元から俺に“死ぬ”以外の選択肢はなかったわけだ。
こうなった原因は匂いだ。角熊は俺の服に染み込んだ血から発せられる匂いを嗅ぎつけて、ここまで追って来られたんだ。
つまりはどこまで逃げてもなんにも変わらない。ただ死ぬまでの時間が少し長くなるだけだ。
全く、自分の馬鹿さ加減にはほとほと呆れるよ。こんな自分の居場所をわざわざ教えるような真似を、知らずやっていたんだから。
でも――そうだとしても。
「……まだ、だ。…………まだ諦めるには早い。何とかして……逃げ延びてやる…………!」
ふざけた運命の言いなりになんてなってやるものか。
もう二度と死なんてゴメンなんだよ。
心の中でふつふつと湧き上がる憤怒の炎を原動力に、生き延びるために気力を奮い立てる。
そうして暫く角熊との睨み合いという膠着状態が続いたが、やがて獰猛な死神によって場は動き出す。
地面を揺らす大きな足音を立て、角熊は俺に向かって駆け出した。超重量の体躯から生み出される振動を足に感じながら、早過ぎず遅過ぎずといったタイミングで横に回避。
上手い具合に引き付けられた角熊の突進は、極太の幹をへし折るとまではいかなくても、大きく揺らし激突音を周囲に撒き散らした。そばにいた俺も余波を喰らい、その破壊力にぞっとしたが、歯を食いしばり逃走を開始する。
草を揺らし木の間を駆け抜ける。その際、なるべく木間が狭いところを通るようにした。
少しでも長く奴から逃げ延びるために弄した策だ。体格が大きいが故に、通る幅が狭ければ遠回りせねばならないと踏んで打ち出したなけなしの希望。今はそのくらいのことしかできないくらいに、俺は追い詰められている。
後ろを振り返る余裕などないので推測だが、奴との距離はそこまで縮んでいないはず。
地形を駆使して距離をなるべく稼ぎ、その間に状況を打開する策を考える。
そうすれば――――
「!?」
突如盛大に木がへし折れる音がした。聞こえたのは後方。嫌な予感しかしない。
反射的に振り返った先には、立ち塞がる木々などものともせずに進行を妨げる物全てを破壊する化け物。
「……ぁぁ…………」
…………無意味だった。
俺なんかの浅知恵でどうにかなる相手じゃなかったんだ。
全ての望みを絶たれ、心が絶望に侵食されていく。
俺はもう何も考えられなかった。何も考えられず、ただ足を動かし“逃走”という形を装っているだけだ。
あの角熊との距離は少しずつ短くなっている。
もう周りから音は聞こえない。俺の荒い息づかいだけが鼓膜を僅かに震わせている。
俺は世界にただ一人取り残されたような錯覚を覚えた。だが…………それも錯覚じゃないかもしれないな……。俺が来たこの世界には、俺以外の人は存在しないのかもしれない。いるのは化け物だけ。きっと俺が迷い込んでしまったこの世界は化け物が支配する世界で、人が生きることなんて不可能なんだろう。
だったらもう……このまま――――
“オメェはバカだ。弱ぇし鈍間で全然成長せん”
あ…………。
“そんな体たらくじゃ、孫は任せられんわな”
これは……あの時の。
“けどなぁ……わしぁ唯一認めてるところがあんだ”
先生が言ってくれた言葉。
“オメェは諦めが悪ぃのだけがいいとこなんだ。だから――
――そんな簡単に諦めようとすんな”
「…………そう……でしたね、先生。俺の諦めが悪いとこ、先生が初めて褒めてくれたんだった」
そうだな。もう……終わりにしよう。
俺は立ち止まり、背後を見据える。
「逃げるのは……もう止めだ」
「――決着をつけてやる」
覚悟は決まった。後はもうやるだけだ。
手段は問わない。今あるもの全てを使う。
そうして俺は、生き抜いてみせる。
目を向けた先には突然立ち止まった俺に困惑を見せることもなく、こちらへ猛烈な勢いで接近してくる角熊。
彼我の距離は既に十メートルを切った。
決して大きくはないが勝算はある。必要なのは力とタイミング。あとは度胸ぐらいか。
迫り来る角熊を前に緊張が走る。だが怖気づいたわけじゃない。絶対にこの作戦を成功させてみせる。
「上手くいけよっ!」
俺は着ていた学ランを奴の視界を塞ぐように顔面に投げつけた。
そう学ランだ。俺は武器となる物は持ってない。だが武器ではなくても使える物はあった。それが上着としての機能を果たしているか微妙なくらいボロボロだったこいつ。目隠しとしてなら十分役目を果たせると踏んで使った。
ついでに言うと角熊をおびき寄せた戦犯だったため早く手放したかったという裏事情もある。
そんな俺の作戦により急に目の前が暗くなり動きが止まった角熊を確認するとすぐさま接近、蹴りを繰り出し鼻を潰した。突如襲った痛みに怯んだ角熊に畳み掛けるように片眼も潰しにかかる。
俺の渾身の攻撃は見事に成功し、角熊は苦痛の絶叫を轟かせた。
しかしこれで終わりじゃない。まだもう片方の眼が残っている。ここで気を緩ませるわけには行かない。
この作戦は血の匂いで追跡できないようにするためにまず鼻を潰す。そして次は両眼を潰し俺の姿を認識できないようにする。
嗅覚と視覚。この二つを使えなくすることで俺の追跡を困難にし、結果的に俺の生存率は大きく上がる。
これが俺の生きる為の策。危険で賭けの要素も強いが現状の俺ではこれしかできないし、最善だと思っている。
作戦の最後の成功条件であるもう一つの角熊の眼を潰すべく、未だ苦しみ悶えている角熊へ踏み込む。全力を持って放たれた俺の蹴りは、吸い込まれるように狙いの眼へ。
そして――――
◆◆◆◆◆◆◆◆
……あれ……なんか視点が低い……? ……地面に座ってるのか…………どうして? ……もたれかかっているのは……多分木だな。
……? おかしいな、身体に力が入らない。ていうか俺……今まで何してたんだっけ…………。
「ガハッ! ゴボッ!」
あ? 何で血なんか吐いんてんだ? しかも結構な量じゃねーか。…………もう意味わかんねぇ……。
…………ん? 近くに何かいる? なんだ……?
「……あれは……」
でっけー熊だなぁ、角生えてるし。変なの。
……んー? …………なんか、喰ってる……?
「………………脚? 一体誰の?」
……………………。
あ――――……。
「うっ、あ゛あああああぁぁぁぁぁ!!?」
片脚の感覚が無いことに気づいた後、忘れていた記憶が今更ながらやってきた激痛と共にやって来た。
喰われてる喰われてる喰われてる喰われてる喰われてる喰われてる喰われてる――――
「ぐうぅ……うっ……っはあ……はぁ……はあ……はぁ…………は……ははっ……ははは」
あぁ……そうか。俺……――
「失敗したのか……」
全て思い出した。
最後に蹴りを食らわせようとした瞬間、横から振るわれた凶爪によって伸ばした俺の脚が切断された。その後バランスを崩した俺に、振り抜いた腕を返し莫大な膂力が乗せられた腕を叩きつけたのだ。
直撃を受けた俺は砲弾の如く空をすっ飛び、僅かな風を切るの感覚のあと、森に無数に生えているうちの一つの樹木に激突してその動きを強制的に止められることとなった。
直撃を受けた際、腕にも思いっきり当たってたから骨もいってると思う。あと多分肋骨も何本か折れてる。身体が動かないのと吐血したのがその証拠だ。
結局俺の抗いも無駄に終わったわけだ。
今まで積み重ねてきた努力や時間の全てを乗せた俺の攻撃。それが赤子の手を捻るかのようにいとも容易く防がれてしまうし、挙句の果てには反撃に遭い瀕死の重傷を負う始末だ。
あまりの無惨な結果に俺の人生が完全否定されたような気がする。
俺の今までの人生は一体なんだったのか、と完膚無きまでに俺を叩きのめしたこの現実に虚しさを覚えたが、それ以上に、俺は悔しかった。
人と化け物じゃまともにやりあって勝てるわけないのはわかっている。それでも、勝利とまでは行かなくても善戦くらいはできるんじゃないかと心のどこかで思っていたりしたんだ。
まあ、結果はこのザマだけどな……。
ふいに影が差し視線を上げると、目の前には忌々しい熊の化け物の姿があった。
今夜のディナーは俺かい、くそったれ。
半ば自棄になりながら睨みつけると角熊が大きく口を開けこちらに近づいてくる。
こんな獣の口内が最期の光景になるなんて。これなら一度目のときの方が全然いい。人を助けた末に命を落とすなら嬉しいとまでは言わないが多少なりとも気持ち的に少しはマシだ。
けれど今回はダメだ、最悪としか言いようがない。やられっぱなしのまま喰い殺される、そんな結末後悔しか残さないし、良い要素などこれっぽっちもない。
本当に――――――最悪だ。
大いに抗った末がこれなら先生は許してくれるだろうか、諦めることを。
最後の抵抗として目を逸らすことはしなかった。力では負けても心では絶対に負けないという意思表示。憤怒や憎悪、悔恨などの様々な感情が複雑に絡まり合い、なんと表現したらいいかわからないような心理状態ではあったが、これだけは折れてやるものかと思った。
どれだけ無様であったとしても、これだけは貫き通す――
――武術を習う者としても、男としても。
「へぇ〜いい目をしてるわね、あなた。死に瀕してなおそれほどの目ができるとは。年に似合わず立派なことをするのね」
唐突にどこからか聞こえたその声は、この状況においてはあまりに場違いなものだった。
そして現れる声の主。
俺の前にゆったりとした動作で守るように立ったその姿はただ一言、美しいとしか言えなかった。
月光を反射した腰まで伸びた長い金色こんじきの髪は幻想的に輝いており、スラリと伸びた脚に魅惑的な曲線を描くそのボディはこの世の美の完成形とでも言うかのようで俺の目を奪うには充分過ぎる程だった。とてつもない美貌を誇るその顔には対をなす宝石のような碧眼。その瞳には美しさと共に力強さもまた秘められていた。
「さて、とりあえずはこいつを片づけようかしら」
声は不思議な程よく通り、俺の耳に届いた。
その内容は特に筋肉がついているとは思えない程、ほっそりとした体つきの女性が成し得るとは到底思えないものだったが、不思議とこの人ならできるという確信にも似た何かを俺に抱かせた。
その人は突然の第三者の登場に警戒していた角熊へ徐ろに手をかざすと、どこからか掌に急速に光が集まり出し標的目がけて一条の光線を発射した。
発射された光は角熊に避ける暇も与えずにその頭部を吹き飛ばし、その先にある木々をも、大きさなど関係なく次々と貫き、消し飛ばしていった。
あまりの光景に唖然としていたもののなんとか正気に返った俺が見た先には、光の軌跡に残ったのは静かに佇むきれいに頭のなくなった熊の死体だけがあり、あれほど俺を苦しませた角熊はもうどこにもいなかった。
これが最強の魔法使い、グレイス・クレヴァリーとの出会いだった。