幕間 残された者二人
京鵺がもと居た世界でのお話です。
内容が暗いので苦手な方はご注意を。
切迫した声。
駆け出していく背中。
普段の彼からは想像がつかないような焦燥に駆られる姿。
彼が時折見せる、優しく、勇敢で、正義感溢れる姿だ。
蒼月美鈴はそんな彼が好きだった。
普段の彼はそんな様子は見せないし、そんな姿勢に対して否定的だ。でも美鈴は知っている。彼の本質は普段において絶対に表に現れないが、こういう時には強く現れる、と。
いつもその姿を見るともう大丈夫だと安心する。だがしかし今回はどこか違かった。
胸騒ぎがしたのだ。安心するはずの心は不安でいっぱいになっていく。やがて、漠然とした不安は次第に恐怖へと変質していった。それが何に対する恐怖かもわからずに。
彼女の伸ばした手は彼の背中には届かない。ただ虚しく空を切るだけだ。
それでも必死に手を伸ばす。もう、届かないかもしれないと、根拠のない考えが彼女の頭の中を占めていったからだ。
彼が恐怖で動けなくなっている男の子の体を抱えた。
視線を横にずらせば二人を殺そうとする鉄の塊。
両者の距離はかなり危うい。しかしながら、このまま駆け抜ければ大丈夫な距離であった。
彼女の中に希望が生まれる。
――なんだ、やっぱり何も起きないや。京ちゃんはまた戻ってくるよ。
美鈴はそう思った。いや、思ってしまったというのが正しいか。
彼女の考えは早計だったのだ。幼い頃から共に育ってきたが故の信頼は、冷酷に彼女に牙を剥くことになった。
淡い希望など持たなければ、彼女があんなにも傷つくことはなかったのかもしれない。
トラックが曲がる。あの二人のいる方向へと。
あの人の驚愕と悔しさの滲む顔が見えた瞬間、無意識的に美鈴は彼の名を叫んでいた。
「京ちゃん!?」
希望が…………打ち砕かれる。
――…………。
どうして彼は道路の上に横たわっているのだろう。
どうして、彼は真っ赤に染まっているのだろう。
どうして……彼は動かないのだろう。
頭がぐるぐる回る。息が荒い。体が震えている。体中から嫌な汗が湧き出てくる。顔色も悪く、青ざめている。
美鈴はまだ現実を認識していなかった。脳が現実を拒否しているのだ。だが体の反応は現実を如実に物語っており、さらにそのことが美鈴に混乱をきたす。
一歩一歩、ふらつく足で大好きな人の下に向かう。
踏み出す足は弱々しく、今にも崩れ落ちそうだ。
彼に近づいているはずなのに何故かどんどん遠ざかっていく気がした。
――心が遠くなっていく。
美鈴はそう感じた。
やがて、彼女の歩みは止まった。
彼女の双眸は無慈悲な現実を映していた。あまりにも……あまりにも酷い現実を。
「ぁ……あぅ……ぁぁ」
言葉にならない掠れた声が、ひとりでに美鈴の口から零れ落ちる。
夥しい量の血の池。そこに沈む体のどこかの肉片。曲がってはいけない方向に曲がっている手足。既に虚ろな目に宿る光はない。
「ああ……あぁぁ……ぁああぁ……あああぁ」
もう……限界だった。彼女にこんな光景は無理だ。
……とある一つの結末を言おう。
――蒼月美鈴の大好きだった男は、ただの肉塊に成り果てた。
「いやぁああああああああああああああああああああ!!!???」
耳を劈く悲鳴は、一人の儚い少女を絶望の底へ叩き落としたことを表していた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
『君のお兄さんはお亡くなりになりました』
聞こえてきた声は無機質で、ただ事実を伝えるのが目的だとわかるものだ。そこに憐れみや同情などといった余計な感情は存在しない。
それがかえって現実味を無くしていたのは、狭間紅巴にとって吉か凶か。
狭間京鵺という兄の存在は、彼女にとってとても大きなものだった。小さい頃から面倒を見てくれたり助けたりしてくれたため、彼女は強く慕っていた。最近では面倒を見ることの方が多くなっているが、頼りになる兄であるのは間違いない。
そんな兄が死ぬというのは彼女にとってみればありえないことであり、さらに言えばそんなことを許容するなどできるはずもなかった。
故に、それが警察からの電話だったとしても紅巴が信じることはなかった。伝えられた兄の死を嘘だと言い、事実を歪曲する。
「あの……そういうのは良くないと思います。お兄ちゃんが死んだとか……悪い冗談はやめてください。悪戯なら怒りますよ」
『……信じられない気持ちはわかりますが、これは事実です。あなたのお兄さんは交通事故に遭って亡くなったのです』
僅かに声が震えていたのは、心のどこかで極小の可能性がちらついたからか。
しかし相手は紅巴の抵抗を気に留める気配もなく、淡々と兄の死亡を口にする。
そんな事務的な、あるいは冷然な態度が気に食わなかったのだろう。苛立った紅巴は相手が警察であることも忘れ、怒声を浴びせた。
「だからっ……何でそんな嘘つくんですかっ! いい加減にしてください! お兄ちゃんが死ぬはずないっ!」
『………………』
受話器の向こうから困惑した気配が伝わってくる。
そもそも警察にこんなことを言うのは筋違いだ。良くないことであるのもわかるだろう。
だが紅巴はまだ十一歳で、小学六年生になったばかりなのだ。そんなまだ精神的に成熟していない子供に、肉親の死を受け止めろなんて突きつけるのはあまりにも酷というものだ。
相手もそれをわかっているからどうしていいか迷っている。それでも言わなければいけないのだが。
『一度落ち着きましょう。いいですか、狭間紅巴さん。あなたのお兄さんはただ交通事故で亡くなったのではありません。人を助けて亡くなったのですよ』
宥めるような声付きで、そっと告げる。初めて感情が込められた声だった。
相手の急な変化もあるだろうが、それ以上に兄の死の経緯を知ったことで彼女の頭にスッと入ってきた。認めてしまったのだ、兄の死を。
優しい兄なら自らの死の危険を顧みず、他人を助ける。
紅巴自身何度も助けられたこともあり、現実的にもありうるそんな姿を想像するのは容易であった。
『ご両親にも既に連絡をさせていただきました。ですから後ほど、事情説明のためにご両親と共に署の方へお越しください』
電話が切れた。ツー、ツーと、電子音が紅巴の鼓膜を震わせる。
壁に掛けられた時計の秒針が、彼女以外誰もいない家の中で寂しく律動を刻んでいる。
暫く紅巴はその場に受話器を持ったまま立ち尽くしていた。
静寂に包まれ耳鳴りが聞こえる中、感じる鼓動は不規則で徐々に速まっていく。
力の抜けた手から受話器が滑り落ち、自らの手が冷たい汗で濡れているのに気づいた。
立っていられない。目眩がする。視界が狭窄していく。
そして、ついに紅巴は全身の力が抜け、ぺたりとへたりこんでしまう。
「……ぅ、嘘……だよね……? お兄ちゃんは、ちゃんと帰ってくるよね……?」
玄関をそろそろと見つめる。
そこには誰もいない。紅巴以外の靴は置いてない。普段なら――この時間ならもう一組の靴が置いてあるはずなのに。
――――狭間京鵺は…………帰ってきていない。
今朝学校近くで別れる時に紅巴は京鵺に手を振った。「バイバイ」と。
穏やかな顔で京鵺も手を振り返した。「じゃあな」と。
それが最後。交わしたやりとりはそれだけ。いつもと変わらなかったから、特別なことは何も言わなかった。
室内に淀んだ闇が漂い始めている。
日が、沈む。
暫くの間、狭間紅巴が動くことはなかった。
この時の紅巴は知る由もない。本当に、もう二度と兄に会えないのだということを。
それが例え、死体であったとしても――――。
彼女等二人のことは書いておきたいと思っていたので、書けて良かったです。
ただ、やっぱり難しいですね心情描写……。




