4.「このまま一緒にどうかしら?」
「できたかしら、うさぎ?」
フリージアが、笑顔でうさぎの手元を覗きこんでくる。透き通るような水色の髪がひと束、独特な三つ編みから逃れ流れた。
彼女は湖畔の侯爵家に招かれた自由エルフであり、うさぎの魔法の先生だ。
そして、さらに。
「ペンダントを作りたいだなんて。アナタ、ワタシの得意なコト、よくわかってるわネ」
「先生ならご存知ではないかと思いまして」
うさぎは、あらかた装飾の終わったペンダントトップを手に乗せて見せた。
羽根とも罅とも、評価が別れそうな亀裂を内包した、ブルーサファイアの原石。今は、金色の台座に嵌め込まれている。
この原石は、狩りに出た際に坊ちゃまがくれたものだ。
「いいんじゃないかしラ。見たところかしこまった品じゃないし、細い鎖やワイヤーで巻きつけてもステキだワ」
「なるほど……ためしてみます」
「ゼヒ!」
フリージアは、手を合わせてにっこりと笑う。
「ところで。あのふたりは止めなくていいノ?」
白い指先に誘導されて見た窓の外では、ひと目で一触即発とわかる雰囲気のふたりがいた。
お嬢様と坊ちゃまだ。
「す、すみません行ってきます!」
うさぎは慌てて外へ飛び出した。
「ミハエルには関係ないわっ!」
「関係なくてもいいだろう、事実なんだからな!」
ほとんど額がくっつきそうなほど顔を近づけて、ふたりは睨み合っている。
「どうなされたんですか?」
最低限息を整え、うさぎがふたりを引き離す。
お嬢様も坊っちゃまも唸り声をあげそうな剣幕で、うさぎは一瞬、獣かなにかを連想してしまった。
「どうなされたんですか?」
うさぎはもう一度、ゆっくりとふたりに問いかける。
お互いにそっぽを向いていたお嬢様と坊ちゃまだったが、少し落ち着きを取り戻したようで、
「竜がいるんですって」
お嬢様が、ぽつりと言った。
「竜……?」
うさぎがくり返す。
竜。全身が硬い鱗で覆われ、個体によってさまざまな息吹を駆使する、大きな爬虫類様の幻想種。
世間に疎いうさぎですら知っている、絶対強者。お嬢様が今よりも幼い頃、愛読していた絵本にもよく出てきた存在だ。
竜は個体数が少なく、人間が立ち入れないような険しい場所を住処とするという。そのため目撃情報もほぼ皆無であり、「ただの伝説である」との主張が優勢だ。
「誰に聞いたか知らないが、そいつの見まちがいだろう」
口ぶりからして、坊ちゃまも多数派のようだ。
「だいたい、本当にこのあたりにいたとしてだな。大さわぎどころじゃすまないぞ。手勢を手配して討伐の準備をしなけりゃならないし、領民の避難も――」
「ミハエルは夢がないわね!」
お嬢様が口をとがらせて、坊ちゃまの言葉を中断させる。
「だから! 現実的じゃないって言っているんだ! 竜種なんているわけが――」
「まあまあ、まあまあ」
今度はうさぎが口をはさんだ。止めなければまた喧嘩が始まってしまう。
「おじょうさま。どうして竜のお話になったんです?」
「フリージアが言っていたのよ。このあたりにもいる、とね。わたくしは、一度見てみたいと言っただけだわ」
「だから、いるわけが……ああもう! あの自由エルフ!」
坊ちゃまが眉間のしわに手をやり、なおも言い募ろうとしたときだった。
うさぎたち三人に、大きな影がかかる。
そして、びりびりと空気を震わせる大音声。
うさぎたちは反射的に空を見上げた。
大きな身体、トカゲのような姿かたち。
コウモリを思わせる皮膜の両翼、二本の角に太い四肢、鋭い牙、爪。
逆光のため黒い影にしか見えないが、それは、どう見ても――
「竜……」
誰の口からか、つぶやきが漏れる。
竜は天に向かって火柱を吐いた。炎の周りに陽炎が揺れる。そして、竜は、大きく羽ばたきをし――
立っていられないほどの強風が、うさぎたちを襲う。
「おじょうさま、坊ちゃま!」
うさぎはとっさにふたりを抱き寄せ、庇うように覆いかぶさる。
嵐のような風の中では、とても目を開けていられない。うさぎはなるべく姿勢を低くし、なす術もなく、草いきれが混じる暴風になぶられていた。
風の勢いも徐々におさまり、うさぎはゆっくり、目を開けて空を見る。
竜はすでに遥か彼方。豆粒よりも小さく、ほとんど視認できなくなっていた。
「竜、いましたね……」
「いたわ……」
「いたな……」
三人はただ、呆然と呟いた。
「ね、イましたでしょう?」
隣国訛りがある、弾むような声。
湖畔の館方面を振り返れば、
「先生」
にこにこと笑顔を浮かべるフリージアがいた。
「ええ、いたわ……この目でしかと見とどけたわ」
お嬢様が感慨深げに言えば、
「まさか本当にいたとは……父上に報告して、対策を立てないと……」
坊ちゃまが難しい顔でぶつぶつとつぶやいている。
「大丈夫ですワ。あれはきっと、『ワタリ』ですもノ」
フリージアは楽しげに、歌うように言葉を紡いだ。
◇ ◆ ◇
「どうやら、『渡り』という行動をする竜がいるらしい」
湖畔の様子がよく見える、見晴らしのいい部屋で。主人がティーカップをソーサーに戻す。
「『渡り』、ですか」
「ああ。住処を移るそうでね。だから討伐計画など立てる必要はないし、安心していいとフリージア嬢が言うのだよ」
彼女たちは、幻想種について詳しいからね。と、主人は慌てもせずに言う。
報告を受けた湖畔の侯爵も、フリージアの意見を聞き入れたそうだ。ただし、竜種避けの魔法護符を、それこそ気休めのように領内へと貼って回っているのだとか。
「『渡り』の竜が、その一頭だけとは限らないからね。まあ、そうそういるものではないだろう。ところで」
主人が窓の外へと顔を向け、苦笑する。
「喧嘩するほど仲がいい……とは、なかなかいかないようだね」
うさぎがつられて外に目を向けると、ひと目で一触即発とわかる雰囲気のふたりがいた。
もちろん、お嬢様と坊ちゃまだ。
「し、失礼します旦那様!」
うさぎは慌てて外へと向かった。
「だから! そんなことあるわけないだろう!」
「言ってみただけよ、ミハエルには関係ないわ!」
お互い顔を斜めに構えつつ、額がくっつきそうなほど近づけて、ふたりは睨み合っている。
「今度はどうなされたんですか?」
必要最低限だけ息を整え、うさぎがふたりを引き離す。
お嬢様も坊っちゃまも、眉間に青筋が浮かびそうなほど険しい表情だ。年齢にそぐわぬ迫力に、うさぎは思わず一歩引きそうになる。
「『ワタリ』はいたわ!」「『ワタリ』はあれだけだ!」
うさぎに制されながら、ふたりは、噛みつかんばかりに主張らしきものをぶつけ合う。
「まずは落ち着いてください、おふたりとも」
怒りがなせるわざだろうか。幼い身体の割に、ふたりとも詰め寄ろうとする力が強い。
うさぎは細身であるとはいえ、仮にも青年であるから力負けすることはないだろうが。念のため、重心を安定させようと腰を落とす。
心なしか、懐が軽くなった。
「あら?」
お嬢様が何かに気を取られ、ふっと力を抜いた。押さえていたうさぎがよろめく。
「うさぎ、なにか落としたわよ」
「何かというと……?」
すんでのところで体勢を正して、うさぎは地面に目をやる。
金の台座に嵌め込んだ上、華奢な鎖と装飾を施した、ブルーサファイアのペンダントトップが落ちていた。
「あ……」
うさぎが手を伸ばす前に、お嬢様が拾い上げた。そして、目の高さで見つめる。
お嬢様の目の青と、ブルーサファイアの青が並ぶ。
「これは……フリージアに教わりながら作っていたものかしら? なかなかすてきね!」
いつの間にか、坊ちゃまの力も抜けている。
うさぎはゆっくりと背筋を伸ばした。
「この原石は、坊ちゃまが私にくださったんですよ。石の原で、お嬢様の目の色だとおっしゃって」
「うさぎお前っ」
坊ちゃまが慌てる。
うさぎは己の失言を悟ったが、すでに遅い。
「ミハエルが……?」
お嬢様が、意表を突かれたといった様子で坊ちゃまを見る。
坊ちゃまはさっとお嬢様の視線から逃れてうさぎを睨む。その目が、「うさぎお前……」と雄弁に語っている。
「そ、それはそれとしてだな! 夜でもないのに、空に川なんてあるはずないだろ!」
「そんなこと、わからないじゃない! フリージアも見たと言っていたわ!」
「フリージア……あの自由エルフめ」
また始まってしまった。うさぎはわずかに苦笑を浮かべる。
「あの、今度はいったい」
どうされたんですか。という問いかけは、唸りをあげる風の音でかき消された。
湖畔に空に、影が落ちる。
え、という間もなく空を見上げれば。
青い空に、黒い濁流。
それはよく見れば、茶褐色の。
鉤爪付きの、皮膜の翼と一体化した腕を動かす爬虫類様の大きな生物――
「翼竜……」
亜竜の一種。無数の翼竜が、長大な川のように空を流れていた。
ごうごう、ごうごうと。
「すごい……、すごいわっ!」
お嬢様は最初茫然と、そして徐々に興奮をのせて声をあげた。
「空の川……」
自然と漏れた声だった。
うさぎは、「空」の、新たな一面を記憶に刻み込んで――
『うさぎ』
濁音の中。不思議と、その声はよく通った。
『うさぎ。いいえ、真名は……まだ教えてもらっていないわね』
流暢なエルフの魔法言語。水色で独特な三つ編みの髪。白い肌に、尖った長い耳。度のないメガネ。
そこには、フリージアがいた。
「先生……?」
うさぎの声は、空の轟音にかき消される。
ひらりと一頭、翼竜が、フリージアの傍らに舞い降りる。よく懐いた様子で、おとなしく。
なのに、お嬢様と坊ちゃまは気づいた様子もない。空に川を描く翼竜たちを、夢中になって見つめている。不自然なほどに。
『私がこの前言ったこと、覚えているかしら?』
翼竜の首を撫でながら、フリージアは微笑む。
『“渡り”の時期よ。ちょうどいいから、このまま一緒にどうかしら?』
外の世界へ。と、彼女の唇が動く。
「あなたは……」
うさぎは一旦言葉を切って、
『あなたは、いったい』
同じ魔法言語で問いかける。
『見ての通り。ときには竜種の背に乗ることもある、“霧と幻影の民”の』
ダナエ。
それが、フリージアの真名だ。
『こんなところで奴隷として生きるより、もっと自由に、広い世界を見に行きましょうよ』
『私は……』
うさぎはちらりと、幼い貴族たちに目をやる。
翼竜たちを見つめる大きな目。空の青。空を映す青。
胸元で、羽根の入ったブルーサファイアのペンダントトップを抱きしめている。
青。
お嬢様の、青。
うさぎの胸に、言葉にできないなにかが去来した。
『わかったわ』
にっこりと、ダナエはいつもの笑顔を見せる。
『今回は残念だけれど、諦めるわね』
言うが早いか、ダナエは驚くほどの身軽さで、翼竜の背に乗る。
翼竜は二、三度大きく羽ばたくと、ふわりと地を離れ、
『また会いましょう、うさぎ』
翼竜の川の中へ、おそらくお嬢様たちの視界の外へと、飛び去っていった。
◇ ◆ ◇
「そうか、彼女は旅立ったのか」
湖畔のほとりに設けられたテーブルセットにて。
薔薇侯爵の、穏やかな声音。
「自由エルフというのは、まったく自由じゃないか」
「フリージアはいつも気まぐれだ。今回も唐突であったな。まさか、『渡り』で帰るとは思いもしなかった」
湖畔の侯爵も、整えられた顎髭を撫でる。
「今回も世話になったね、湖畔の」
「なに、こちらも楽しんでもてなしたことだ」
ふたりの侯爵は笑い合う。
「今度はこちらで歓迎しよう」
「ああ、楽しみにしているとも」
こうして、薔薇侯爵の一行は、今回の滞在を終えたのだった。