2.「わたくしをなまえでよびなさい!」
昼前の穏やかな日差しに、緩やかな風。咲き誇るバラの香りが、うさぎとお嬢様以外誰もいない庭園に満ちている。
うさぎは花を飾り紅茶を淹れ、傍らで待機する。
今日はお嬢様だけの給仕なのだ。
「ねえうさぎ」
「はい、お嬢様」
茶菓子の追加を、お嬢様の待つテーブルへと運ぶ。
並べられたそれをひとつつまんで、お嬢様は不満げにうさぎを見上げた。
「おまえがわたくしをよぶときの……“オジョウサマ”は、なんだかかわいくないわ!」
「かわいくない……とは、どのように?」
「ともかくかわいくないのよ! うさぎ、よびかたをかえなさい!」
いつもの通り、お嬢様は小さなわがままを言う。
うさぎは微笑みながら、
「かしこまりました。しかし、どのようにいたしましょうか」
「そうね、“オジョウサマ”よりももっと、やわらかくしなさい!」
「では……」
少々思案して、
「“おじょうさま”というのはいかがでしょうか」
と、お嬢様に提案する。
少しばかり響きをやわらかくしただけだが、これならば誰の前で呼ぼうと、聞きとがめられることはない。音が同じなのだから。
お嬢様は少しだけ考える仕草をして、
「それがいいわ! おとうさまたちのまえではそうしましょう!」
ぱっと笑顔を咲かせ、両手をぱちりと合わせた。
「旦那様方の前で、と、おっしゃいますのは?」
「わたくしとおまえだけのときは、わたくしをなまえでよびなさい!」
片手を腰に当て、びしりとうさぎを指す。そしてふと気づいたように、その手を引いた。
幼くとも、日々淑女たれと教育を受けている侯爵令嬢だ。奴隷相手とはいえ、普段から非礼のないよう自らを律する姿は素直に尊敬する。
しかし、それとこれとは話が別だ。
「ですがお嬢様、それは」
「お・じょ・う・さ・ま!」
お嬢様はむくれながら、呼び方を戻してしまったうさぎをたしなめる。
しかし、うさぎがためらうのも無理はない。
この国での一般的な常識として、下々の者が貴人の名を直接口にすることは、とても無礼なことだ。奴隷であるうさぎが、侯爵令嬢の名を呼ぶなどもってのほかである。
うさぎがなおも言いよどんでいると、
「“どれい”は、“ごしゅじんさま”のいうことをきくものよ!」
両手を腰に当て、お嬢様はうさぎに詰め寄った。
「かしこまりました。では、エスカ様」
うさぎは観念する。
「さ・ま!」
「エスカさま」
「それでいいのよ!」
お嬢様は満足そうに笑顔を浮かべて席につき、うさぎの淹れた紅茶に口をつけた。
そしてひと口飲むと、ふと気づいたといった風に、
「そういえば。おまえにも、なまえはあるのよね?」
「はい。エスカさまにいただいた、うさぎという名前が……」
「そっちじゃないわ!」
お嬢様はふたたび頬を膨らませる。
どういうことだろう、とうさぎが戸惑っていると、
「わたくしがつけたものとはちがう、おまえがさいしょからもっているなまえよ!」
ずいと、お嬢様は側に控えるうさぎの口に、茶菓子を突っ込んだ。
予想外の行動で避けられず、うさぎはそのまま茶菓子を口に含んでしまう。一度口に入れたものを取り出すわけにもいかず、お嬢様の手が離れてから咀嚼する。
かりっと焼けた表面に、しっとりと甘いクリームの詰まった焼き菓子だ。加えられた砂糖の量が絶妙で、甘すぎず、しかし控えめでもない。
美味である。紅茶と合わせて頂きたいものだと、思ったはずだ。
こんな、思いもよらない状況でなければ。
「……少々お戯れが過ぎます、お嬢様」
「エ・ス・カ!」
「エスカさま」
「よろしい! まあ、すこし……はしたなかったかしらね」
お嬢様は両手を腰に当て、頷いた。
「そうそう。おとうさまがおっしゃっていたのだけれど、うさぎ。おまえはわかいエルフだそうね!」
「はい。エルフは数百年を生きますから、私の十八という年齢はとても若いそうです」
伝聞風なのは、うさぎがエルフをあまり知らないからだ。
エルフという種族は、生まれた里の紋様を、墨などで身体に入れるらしい。うさぎにはそれがない。
主人は、「相当幼いころに攫われたのだろう」と推測していた。
「うさぎ。おまえは、もっとこどものころにひとざとにきたそうね! それは、なまえをもらうまえだったのかしら?」
「いえ……。生まれたときにつけられた名は、覚えております」
うさぎは、親の顔も里のことも覚えていない。知らない、という方が適当だろう。
しかし。唯一自分の名前だけは、物心つくころから胸の中にあった。エルフは言霊として魂に名前を刻むというので、そのせいかもしれない。
「そう。なら、おまえのなまえをおしえなさい!」
きらきらと、お嬢様は瞳を輝かせる。
「はい、エスカさま。私の名前は――」
屋敷では主人以外に知らないその名を、うさぎは告げた。
お嬢様はぱちぱちと、長い睫毛で縁取られたまぶたを瞬かせる。
「うさぎ、おまえはたしか……おとこ、だったわよね?」
「はい、エスカさま。このような姿ですが、私は男です」
うさぎは、一般的に語られるエルフの例に漏れず長身だ。しかし年若いせいか、身体に性別の特徴があまり出ておらず、外見では男女の区別がつきにくい。
それを利用して、時には男、時には女の装いでお嬢様に同行することがある。
「うさぎ。おまえのそれは……おんなのなまえよね?」
「はい。ですが、どちらに生まれようと、名前は決まっていたようです」
名付け親に直接聞いたわけではない。
それでも、それは確信としてうさぎの胸にある。
お嬢様は徐々に唇を歪ませて、ついに吹き出してしまった。
「ごめんなさい。おまえのなまえをわらったわけではないの!」
「いえ。どうぞ、お気になさらないでください」
「ほんとうよ! ただ、そうね……。あまりにも、おまえににあっているとおもったのよ!」
お嬢様は、なおもこみ上げてくる笑いを抑えるように、口元を手で隠す。
が、堪えきれずに再び吹き出した。
うさぎと反対の方向に顔を向けて、お嬢様はくすくすと笑っている。おさまらないようで、両足を小さくぱたぱたとさせて。
侯爵令嬢の所作としては、ふさわしくない。
しかし原因がうさぎ自身とその名前にあるし、今はこの場にふたりだけ。
どうしたものかと考えあぐねているうちに、お嬢様は寄せる衝動の波から脱したようだ。目の端に浮かんだ涙をハンカチで押さえ、
「わたくしは、きっとおまえのなまえをわすれることはないわね!」
大輪のバラを思わせる笑顔を、うさぎに向けたのだった。
お嬢様はその言葉通り、生涯、うさぎの名前を忘れることはなかった。
「そんなこともあったわね、うさぎ。いいえ、××××」
お嬢様は生涯、うさぎの名前を忘れることはなかった。