1.「おまえは“どれいのいす”になるのよ!」
「うさぎ、“どれいのいす”になりなさい!」
両手を腰に当て、凛として堂々とした立ち姿。
縦に巻かれた金髪に、レースと刺繍がふんだんにあしらわれた華やかなドレス。
向かうところ敵なしといったような勝ち気な笑みを浮かべるのは、六歳の侯爵令嬢である。
幼い主人からの唐突な命令に、奴隷エルフの青年は、曖昧な笑みを浮かべたまま固まっていた。
◇ ◆ ◇
前置きが少々長くなるのだが、この奴隷の青年と幼き令嬢が出会ったのは一年前。
青年が初めて屋敷に連れてこられた、十七歳の時だ。
ここに来るまでに色々とあって、奴隷の青年は全身煤で汚れていた。まずは風呂に入って身ぎれいにすることが先決だと、数人の使用人たちとともに屋敷の裏手へと移動していた。
人間である使用人とエルフの間には立場の違いがあるのだが、彼らはそんなものなどないように接してくる。
そんなことをぼんやり考えながら歩いていたとき、青年の視界に小さな人影が入った。
使用人通路だという庭の隅の道、その動線上。ウサギのぬいぐるみを抱えた幼い女の子がぽつんと、道をふさぐように立っていた。
前髪を後ろへまとめ形のいい額を出し、縦に巻かれた金髪が真紅のドレスによく映えている。
「まあ、お嬢様! このようなところへいらしては……。旦那様が心配されますよ」
使用人の女がかけ寄っていく。女児は屋敷の令嬢のようだ。
令嬢は使用人と二、三言交わすと、初めてこちらに気づいたように視線を投げかけてきた。そのまま無警戒に近づいてきて、無遠慮に青年の顔を凝視する。
腕に抱いた耳の長いウサギのぬいぐるみと見比べてから、
「みみがながいのね。おまえもうさぎなのかしら?」
当時五歳だった貴族の令嬢は、青年の、長く尖った耳を指した。
青年は戸惑いながらも、跪いて頭を垂れる。
「いいえ、ぼくは……。これは、エルフという種族の特徴でございます、お嬢様」
「そう。エルフというの。でも、おまえはきょうからうさぎよ!」
お嬢様はそう言って、青年の左手首に手をかざす。
微弱な魔力が発せられ、次の瞬間には、青年の左手首に華奢なブレスレットか現れる。
金のメダルにあしらわれた「薔薇の紋章」は、「薔薇侯爵」と呼ばれる侯爵家の紋章であり、所有奴隷の証だ。すでに主人によって左手の人差し指につけられた金の指輪と合わせて、ふたつ目になる。
これが、お嬢様とエルフの奴隷の青年――うさぎとの出会いであった。
◇ ◆ ◇
うさぎの主人は薔薇侯爵という。
風変わりな奴隷観を持つ人物で、「人間至上主義」を掲げるこの国の貴族でありながら、
「世間でいう“奴隷”というものは、我が薔薇侯爵家には似合わないと思ってね」
と、うさぎをはじめとした奴隷たちに教育を施している。それこそ、奴隷より身分が上の使用人と同等の。
そして、
「働いたら対価を受け取る。当然のことだよ」
と、給金を渡してくれるのだ。奴隷であっても。
世間知らずのうさぎでも、これは普通のことではないとわかった。
おおらかな主人、ゆるやかな自由。
そして、うさぎにとって、特別な存在になるお嬢様。
うさぎは、幸せな日々を送っていた。
◇ ◆ ◇
本日は晴天、庭園では貴族たちのお茶会が開かれている。
うさぎは、他の使用人や奴隷たち(みてくれだけではそうとわからない)とともに、給仕に回っていた。
すらりとした細身の長身、色味の薄い金髪と、黒が交じる青い双眸。そして、白くなめらかな肌。
巷に流れる噂に違わず、うさぎも見目の美しいエルフであった。
そのせいか、仕事中、特に用事のなさそうな老若男女様々な客人たちに呼び止められることがある。
しかし彼らは、うさぎの指輪とブレスレットに刻まれた「薔薇の紋章」を見ると、大体すぐに離れて行った。
紋章付きの奴隷や使用人は誰かの所有物であり、手を出すことは財産の窃盗と同義だ。身分にかかわらず、重大なマナー違反なのである(そもそも紋章つきでないエルフなど、この国では特例以外ありえない)。
まして、この国で名を知られる「薔薇侯爵家」の所有奴隷なれば。
逆に言うと、うさぎのような奴隷たちは、この紋章によって所属や身の安全をあるていど保障されている。
ひと通り仕事が片付いたうさぎは、会場の端で姿勢を正して待機する。
追加の菓子や紅茶などが必要ではないかと、不自然にならないように会場を見渡しているのだ。
「ねえ、うさぎ!」
腰のあたりから、幼い声。
視線を下に向けると、陽の光をきらりと反射する金髪が目に入った。レースと刺繍をふんだんにあしらったドレス姿のお嬢様が、うさぎを見上げている。
「たいくつだわ。うさぎ、おまえはわたくしをつれて、やしきにもどりなさい!」
胸を張り上半身を反らし気味に、「おとうさまからは、きちんとおゆるしをいただいているわ!」と、お嬢様は令嬢然として言う。
どうしたものかと周囲に視線をめぐらすと、使用人のまとめ役と目が合った。
彼女は目の表情だけで「従いなさい」と指示を出し、ティーポットを片手に忙しそうに去ってしまう。
「かしこまりました。それでは参りましょう、お嬢様」
小さなお嬢様は胸を張って、うさぎの手をとった。
お嬢様とうさぎは、お茶会会場から外れた、静かな庭園のアーチの下を歩いている。
日が高く、青空に緑が映え、バラの香りが芳しい。
「ねえ、うさぎ?」
「はい、お嬢様」
「おとうさまからきいたわ。おまえは“どれい”なのね?」
一瞬、うさぎは言葉に詰まる。
おおらかで風変わりな主人に引き取られ、幸運にも使用人と変わらない暮らしをしてきた。
しかし、自分はただの奴隷だ。
幼い令嬢にその事実を突きつけられた気がして、心に影が差す。
「……はい、その通りでございます。お嬢様」
顔に動揺を出さないよう、努めて平静に答える。
「ふうん、そうなのね! それなら」
お嬢様は何か思いついたようで、宝石のような青い目をきらりと輝かせてうさぎを見る。
「“どれい”は“ごしゅじんさま”のいうことをきくのよ! おまえの“ごしゅじんさま”はわたくしでもあるから、おまえはわたくしのいうことをきくのよ!」
お嬢様は両手を腰にあて、胸を張った。実に無邪気な、いい笑顔である。
蔑まれることを想像していたうさぎは、「あれ」と思い、一瞬きょとんとしてしまう。
「いうことをきくのよ!」
焦れてぷくっと頬を膨らませたお嬢様に念を押され、
「はい、お嬢様」
うさぎは思わず相好を崩し、返事をした。
お嬢様とともに、うさぎは彼女の私室で絵本を何冊か選びだした。彼女のお気に入りの絵本をたずさえ、誰もいない庭園に戻る。
お嬢様は、景色のよいひらけた芝生までうさぎを先導すると、くるりと向き直って胸を張る。
「いいこと? “ごしゅじんさま”は、“どれいのいす”にすわるのだと、おじさまのごゆうじんの……。そう! おにいさまがおっしゃっていたわ!」
その「おじさまのごゆうじんのおにいさま」はたしか、今日のお茶会で見かけた貴族だ。
恰幅の良い、と言えば聞こえはいいが、どこか意地の悪そうな目が印象に残っている。
こんな幼い子供の耳におかしなことを入れてくれるなと思いながら、うさぎは「さようでございますか」と相槌を打つ。
「おまえは“ごしゅじんさま”であるわたくしのいすになるのよ!」
六歳のお嬢様の口から出たとんでもない言葉に、うさぎは手の中の絵本を取り落としそうになった。
「へんじは?」
「か……しこまりました、お嬢様」
半ばやけくそになりながら、うさぎは穏やかな笑顔を作る。
指輪の主人と、ブレスレットのかわいらしい主人のためにも、できる限り尽力しよう。道を踏み外させないように。
そう、密かな誓いを立てて。
「うさぎ、そこにすわりなさい!」
「はい、お嬢様」
とりあえずうさぎは正座した。
「ちがうわ、それじゃないの!」
やはり四つん這いなのだろうか。どこまで詳細に聞いてしまったのだろうか。
眉間に皺が寄りそうになるのをなんとかこらえていると、
「こうよ!」
お嬢様が身振り手振りで、どうにかこうにかうさぎに伝えようと奮闘している。適当な言葉が見つからないのだろう。
うさぎは何とかその意図を読み取り、あれやこれやと試行錯誤。
そして、何度目かで、
「胡坐でございますね」
「そうよ!」
お嬢様は満足げに頷くと、ひょいとうさぎの胡坐の上に座る。
「これが“どれいのいす”よ! うさぎ、おまえはわたくしのいすよ、おぼえたわね!」
「はい、お嬢様。私はお嬢様の椅子でございます」
「じゃあおまえ、このままわたくしにえほんをよみなさい!」
お嬢様は持っていた絵本をうさぎに渡す。うさぎはわずかに苦笑し、それを受け取った。
「おおせのままに。ただ、できれば“うさぎのいす”とでも呼んでいただきたいのですが」
「“うさぎのいす”……。そのほうがかわいいわね。わかったわ!」
上機嫌なお嬢様を見て、うさぎはほっとしながら絵本を開いたのだった。
◇ ◆ ◇
念のため、うさぎは主人にことの顛末を報告した。
主人はひとしきり大笑いし、目に涙を浮かべながら、「よくやった」とうさぎの肩を叩いて誉めてくれた。
これで、うさぎは本当の意味でひと息つくことができたのだ。
それから何度か、うさぎは「うさぎのいす」になるよう、お嬢様から「めいれい」を受けたが。
主人がなぜかお嬢様のお稽古の時間を早めたり、うさぎを呼びつけたりしたことが続いて、お嬢様がむくれてしまうのには少し困ってしまった。