絶望のお話
薄暗い通路を独り、彼女は歩く。
そこはどれだけ上へ進んでも出口の見えない巨大な居住施設。
彼女が最下層に落とされてから、既に何百年という時が過ぎていた。
当時を知る者など、おそらく彼女を除いてもうここには残っていなかった。
ここに生きる者は皆、“外”に憧れを抱いてしまっている。
今では、誰も彼女の言葉を信じてくれなかった。
もう二百年以上昔の話。人間は“外”で何不自由なく生活をしていた。
それは、ここで生まれ育った者には想像もつかないことかもしれない。
人間達は“外”で機械を創り出した。技術は瞬く間に進歩し、機械も徐々に進化していった。
そして機械を扱う人間達は科学技術を高め続けたのだ。
科学者として限界を追求する事は理想だったのかもしれないが、それは結果として科学者達を狂わせた。
やがて科学者とそれに賛同した人間は地中深くに空間を造り、逆らった大半の人間達を閉じ込めた。
そして空間を機械に見張らせ、更に増設を重ねていった。
彼女の予想では、今では地中深くから天まで突き出したこの建物は、階層にして一万以上だ。
科学者達は機械に命令を出し、実験の為にこの建物から人間を攫う。
攫われた人間たちは実験体として人体を改造され、そのほとんどが自我の無い怪物、失敗作となる。
そして失敗作は処分のため、再びこの建物へと戻ってくる。
何世代も時を重ねるうち、事情を知らぬ人々はそれを突然変異と考えるようになった。
機械により感染ウイルスをばら撒かれていると。
当時の筆頭科学者であった彼女は、次々と非情になる仲間達に反発し説得を試みたが、
それを疎んだ科学者達によって一番最初にこの建物の最下層へ幽閉されてしまった。
それからも彼女は研究を続けた。
この間違った世界を修正しなければと、必死で研究に没頭した。
彼女は寿命が来ても研究を完成させることができないという事を見据え、
死骸や機械の残骸を使用し、自分の新しい身体を作り延命した。
そして身体を換え研究するうちに、彼女はひとつの“ウィルス”を生み出した。
それはとても凶悪な感染ウィルスだった。
人間に感染すれば三日と持たず、爆発的な速度で空気感染と繁殖を繰り返す。
彼女は、これをひとつの可能性として捉えた。
“外”で機械を支配し、中の人間達を実験体として扱う非情な人間達への復讐だ。
これを“外”に持ち出せば外の世界は瞬く間に感染し、人間は死に絶える。
つまり機械を操るものも実験をするものもいなくなる。
こうして彼女は、間違えてしまった“外”の世界を浄化する使命を持って出口を目指す事にした。
彼女の身体はほとんどが機械でできていた。
彼女は僅かに残された人間の部分にウィルスを注射し、防護服で身体を覆った。
みるみる皮膚は爛れ落ちたが、これで防護服内にウィルスが蔓延した。
ウィルスは徐々に増殖していくが、彼女の機械の身体には何の意味も無い。
しかし彼女が防護服を脱いでしまえば、ウィルスは急速に空気を伝ってそこら中に広がる。
彼女は決して防護服を脱がず、ただひたすら上を目指した。
そして旅の中で、彼と出会った。
彼も上を目指しているようだったが、勿論目的は違った。
彼も他の人間と同じく、この建物には機械により感染ウィルスが撒かれていると信じていた。
旅の目的を聞かれたので、彼女は嘘をついた。
彼は嘘を信じ込み、みんな救われると喜んでいた。
それから半年。なんとか機械から逃れて上がり続けた結果、二人は漸く辿り着いた。
二人の目の前に見えているのは、間違いなく出口へ繋がる最後の扉だった。
後ろから大きな音がいくつも近づいてくる。大型の機械の群れだ。
しかし出口の扉以外は行き止まりで、困った事に逃げる場所はもうなかった。
彼は彼女に“外”へ出るよう伝えた。
彼女が出るための隙を、自分が殺されることで作るつもりだ。
それを悟った彼女は悲しそうな表情で呟いた。
ありがとう。
彼は機械の群れへと身を投げ出した。機械は容赦なく、彼の身体を引き裂いていく。
彼女は、後ろめたい気持ちで出口に手をかけた。
彼が言ったようにこの建物の中まで救ってあげられるかは分からない。
彼女の作戦が成功すれば機械は停止し、怪物も生み出されないが、ただそれだけだった。
この建物を徘徊する無数の怪物は消えないし、怪物を元に戻す手立ても無い。
そして中の人間が出口への扉を開けてしまえば、彼女が“外”に撒いたウィルスが入り込んでくる。
しかし彼女は間違った世界を終わらせる為に“外”へ出るのだ。
あとは残された者たちが、再び間違えないように祈ることしかできない。
死にゆく彼と一瞬目が合った気がした。
死の淵に瀕してまで希望を持った目に罪悪感を感じ。彼女は呟いた。
ごめんね。
そして彼女は絶望を“外”に送り出した。