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壁の染み

作者: 梅花希紀

文字サイズ『小』での閲覧をおすすめします。

もちろん、それ以外のサイズでの閲覧も可能です。

 昔、仲間内で肝試しをしたことがあった。

 小学校高学年くらいの頃だったか。同じ学校の仲間で集まり、近所の寺の裏山で度胸試しをしたのだ。

 ルールはこうだ。

 山にあるドラム缶――場所は全員が知っている――に仕掛け役が札を貼ってくる。それを二人一組になって取りに行く。残りの奴らでそれを驚かせる。

 思えば始めから肝試しの体を取っていなかったが、まあその辺りは小学生だから仕方ないと割り切って考えよう。

 さて、数組が出発して逃げ帰ってきた後、ついに俺の出番がやってきた。ペアになっていた女の子(男女ペアにする必要性はなかったはずだが、そこも小学生特有の色恋大好き感に引きずられた形だった。関係ないがペアの子はかわいかった)と共に、正直な話あまり気乗りしないまま出発した。

 結論から言ってしまえば、驚く側も驚かす側も面白くない結果に終わってしまった。

 というのも、俺が、隠れている奴らを先に見つけてしまったり、見え透いた罠を回避してしまったり、火の玉を踏み潰してしまったり、投げられたコンニャクを投げ返してしまったりして、大して驚かなかったからである。

 結果驚かす側が萎えてしまい、その肝試し自体が消化不良で終わってしまったのだった。



          ◇



 なぜこんな話をしたのか。

 別に俺が空気の読めない人間だ、と告白するためではない。

 俺は心霊現象を信じない、と言うためだ。



          ◇



『シミュラクラ現象』というものをご存知だろうか。

 シミュラクラ現象とは、「逆三角形状に三つの点が配置されていると、それが人の顔に見えてしまう」という現象のことである。

 わかりやすく言えば ∵ これが顔に見えてしまうということだ。

 人は他人や動物と出会った時、敵味方の区別をし、相手の動向を探るために、本能的に相手の目を見る。また目の下には口があり、両目と口で逆三角形に顔を形成している。つまり両目に相当する点二つと、口に相当する点一つがあれば、人の脳は本能的にそれを『生物の顔』と判断し、警戒してしまうのである。

 このシミュラクラ現象で、多くの心霊現象は説明できる。

 代表的なものはやはり『心霊写真』だろう。「写真に見知らぬ女の顔が映りこんでしまったー」とか、「無数の顔が映りこんでしまったー」とか、まあ言わずともわかるだろう。察せ。



          ◇



 俺は心霊現象をこれっぽっちも信じていない。殆どに適当な理由を付けて納得してしまう。

 そもそも、例え幽霊という存在がこの世界に実在していたとして、それがどうして生者を呪ったり怖がらせたりする必要があるのか。きっと呪うのにも体力を使うだろうし、怖がらせるのにも手間がかかるだろう。あいつら皆して血色が悪いのに、そんな無駄なことに力を使っていたらすぐに死んでしまうじゃないか。

 大体、現代に至るまでにこの世でどれだけの人間が死んだと思っているのだろう。それが全員幽霊になっていたら、そこら中で幽霊が押し合いへし合い、ぎゅうぎゅう詰めで、まともに立ってもいられないはずだ。俺たちを驚かそうとする前に、まずは自分たちの立ち位置をしっかりした方がいい。地に足を付けた生活を心がけよう。人生の基本だ。

 怪談話というのも実に嘘臭い。

 『皿屋敷』という怪談話はあまりに有名で、恐らくこんな所で話題に出すのはむしろ自分の浅学さを露呈してしまうようで実に恥ずかしいのだが、女が皿を一枚一枚数えているだけで一体何が恐ろしいというのか。裏では色々大変なことがあったに違いないが、最終的に皿を数えて暮らす生活に落ち着いているのだから、生者の側としては彼女を尊重してそっとしておいてあげるのが一番だろう。下手に怖がったりしたらかえってかわいそうだ。断じて興味本位で井戸に近づいたり、彼女が美人だからといって見物に行ったりしてはいけない。

 こんな風に、俺は心霊現象を全く信じていない。あんなもの嘘っぱちだ。少し考えれば矛盾がホイホイ出てくる。怖い要素など欠片もなく、むしろ笑い話になってしまう。

 でも、まあ、夏の与太話としてはそれなりに面白いんじゃないのかな、とは思っている。

 しかし――最近、そんな俺の身に、少し気になることが起こり始めていた。



          ◇



「染み?」

 ○○大学、第二食堂にて。

 アイスコーヒーのストローを咥えたまま、女は不思議そうな顔をした。

「そう、そうなんだよ。染み」

「ふーん……」

 彼女はストローを口から離し、俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。

 食堂のすみでテーブルを挟み座る俺と女。昼時にしては学生は少なく、ちらほらと席に空きが見受けられる。俺たちがすみに陣取っているのは単にここが指定席だ、というのもあるが、女性と二人きりで昼食を食べているのが気恥ずかしいというのもあった。

 彼女は依然、黙って俺の顔を見つめている。数回瞬きして、それから小さく息を吸うと、口を開いた。

「洗剤を付けて、綿棒とかで優しく叩くようにしてから、水洗いすれば落ちると思うよ。頑固なやつだったら専門の業者さんに頼むのがいいと思うけど……」

「衣類の染みの話じゃねぇよ」

「体質の問題だから仕方がないよ。下手に化粧品とかを使うのはむしろ体によくない。がまんがまん、どうせ誰も気にしないって。わたしは君の体がどんなふうでも、かわらず好きだよ」

「肌のシミの話じゃねぇよ!」

「本をかじられたの? 今どきそんな被害受けないと思うんだけどなぁ……。床に直置きとかしたでしょ。だめだよー、管理はちゃんとしておかないと。スプレーとか持ってる? 今日授業終わったら暇だし、ホームセンター寄ってく?」

「虫のしみ紙魚の話じゃねーよ!!」

 えー、じゃあ何の話なのよー。

 そう言ってから、女は悪戯っぽく笑みを浮かべて、再びストローを咥えた。この野郎、わかってやってやがるな……。

「壁だよ。壁の染み」

 このままでは埒が明かないので、俺の方から説明してやる。

「壁の染み……か。コーヒーぶっかけたの?」

「ぶっかけてない」

「紅茶を?」

「ぶっかけてない」

「赤ワインを?」

「そんなもったいないこと誰がするか!」

 俺が声を荒げると、彼女はくくくっ、と笑った。

 彼女はこんな風に、適当なやり取りを好む性格だ。付き合うこっちはとても苦労する。

「で、どうしたの?」

「ん?」

「壁の染みの話。困ってるんでしょ? 話してみてよ」

「あ、ああ……」

 そのくせ、突然話を本題に戻す。自分でかき乱しておきながらその後のフォローを一切しない。いい性格をしていやがる。

「始めは一個だけ、壁に小さい染みができてたんだ」

 俺は彼女に、壁の染みについての詳しい話を始めた。

 それは、こういう内容だ。



          ◆



 とあるマンションの一室、八畳一間。

 それが俺の住んでいる部屋だ。

 フローリング張りの洋室。北側に玄関があり、キッチンが備え付けられている。南側には大きな窓。東側に26インチのテレビが置いてある。西側には壁にぴったりくっつくようにベッドが置かれ、テレビとの間に丸いちゃぶ台が置かれている。風呂はない。

 至って普通の、一般的な一人暮らしの大学生の部屋だ。何もおかしなところはない。風呂もない。

 俺がこの部屋に引っ越してきたのは今から一年前。大学生になるにあたり、地元からこちらに引っ越してきた時に借りたのだ。

 築五年、四階建てマンションの三階。家賃はそれなり程度だった。不動産会社にさんざ問い詰めたが、別に曰くつきとか、そういう場所でもなかった。風呂はなかった。

 実際、住んでいても目立った異常はなかった。たまに夜中、上の階の部屋から物音がする程度で(どうやら上の階の住人の寝相が非常に悪く、よくベットから転げ落ちているらしい。たびたび部屋を訪ねてきて謝られる)、枕元に人影が現れたり、鏡の向こうに女が現れたりすることもなかった。

 しかし、住み始めてから一年。

 それは突然現れた。

 気づいたのは一ヶ月前、六月のこと。

 東側の壁に、小さな赤黒い染みが一つ、できていたのだ。

 とても小さい染みが一つ。気のせいや見間違い、あるいは目にゴミが入っただけだと勘違いしてしまいそうなほど、些細な染みだった。

 実際、俺自身も初めは見逃した。そこに染みがあることに気づきはしたが、所詮「気のせいだ」と思い、あえて詳しく調べはしなかったのだ。

 だが、それから三日後、再び変化が起こった。今度は西側の壁に染みができたのだ。

 これは「気のせいだ」とは思えなかった。一年間住んでいて今まで何の異常もなかった部屋に、三日で不自然な染みが二つ。明らかにおかしいと思う――今になってみれば。

 実に愚かしいことだが、この時染みを発見したとき俺は、「別にいいや」と思ったのだ。

 ――おい、笑うな。真面目な話だ。

「どうせ壁の染みだ。大したことないだろう」

 大体、今は六月だ。湿気のせいで染みの一つや二つ、できるのは当たり前だろう。

 そういう風に、特に気にも留めず、すぐに忘れてしまったのだった。

 さらに十日が経過する。

 染みは六個に増えていた。

 西側の壁、ちょうど俺の頭ぐらいの高さにまとまって、六個の染みが付いていたのだ。

 これはさすがに俺もおかしいと思った。今まで染みなんて一つも出来ていなかったのに、この二週間程度で六個になっていたのだ。二日に一個ほどのペースで現れたことになる。異常。これは異常だ。

 確かに実害はない、ただの染みだが、それにしたって気味が悪い。しかし気味が悪いと言ってもここに住まないわけにはいかない。まあそんな感じで、我慢して今まで生活していたが、最初の染みから一ヶ月経ち、ついに我慢しきれなくなって相談した、という訳だ。



          ◆



「ふーん」

 彼女は俺の話を聞き終わり、あまり面白くもなさそうに声を漏らした。

「ふーん、ってお前」

「へえ」

「へえ、ってお前……」

 こっちは困ってるんだぞ……。せっかく相談したのにその反応はあんまりじゃないか。

「実害がないんじゃいいんじゃない?」

 確かに……それはその通りだが。

 実際の話、壁に染みができたというだけだ。何者かに呪われたとか、まずい一品を拾ったとか、そういうわけではない。ただ単純に気分が悪いというだけで、それも気にしなければ済む話ではある。

 でも、なぁ……相談する相手を間違えたか? もっとこう……親身になってくれる奴を探すべきだったか。

「でさ、その染みは今いくつあるの?」

「ん?」

「数。二日に一個増えるんでしょ? 正確にはいくつくらいできたの?」

「ああ、数ね……今は十五個ぐらいだったかな」

 正確には数えていないので曖昧だが。まあ今更一つ二つ見逃した所で、大きな違いにはならないだろう。

「十五、か。うーん……さすがにちょっと気持ち悪いね」

「だろ?」

 と言っても対策のしようがないし、大家さんに言って、何とかしてもらいなよ。もしくはがまん。

 それが彼女の出した結論だった。

 それくらいしかやりようがない。それは俺もわかっていた。彼女に相談したのはこの現象を何とかしてほしい、というよりも、俺の置かれている状況をわかってほしかった、という方が大きい。

「そうだな……。ありがとな、こんな話聞いてくれて」

「あーいいよいいよこのくらい。わたしと君の仲じゃない?」

「そう言ってくれるとありがた――」

「そうだなぁ、ジャンボバニラパフェあたりを奢ってくれると話を聞いたかいがあるってものだけど、いやいやそこまで厚かましいことは言わないよ。あーでも最近暑いし何か冷たいものが食べたいなーなんて思ったり思わなかったりするんだけどなー」

「……」

 やっぱり相談する奴間違えたか。

 ――バニラパフェ、いくらだったっけ。



         ◆ ◆



 二週間後。

 俺は懲りずに、彼女に相談を持ちかけていた。

 当然、例の染みについてである。ただし――前回とは明らかに、状況が違っていた。

「はぁ……」

 彼女は俺の話を聞いて溜め息一つ。

「いやだから、やばいんだよ! やばいの!」

「うんうん、やばいのはわかったよ。鬼気迫るその感じで十分伝わってきたよ。で? 何がやばいの?」

「とにかくやばいんだ!」

「はぁ……」

 会話になりやしない、と彼女はもう何度目かわからない溜め息。

 だが俺はそんなことに構っていられない。

 だってやばいのだ。

「とりあえず、何がやばいのかだけでも説明してくれないとわからないよ。やばいやばいって、今時の若者みたいじゃない」

「顔だ!」

 顔? と、彼女は首を傾げる。

「顔の何がやばいのよ」

「そりゃもうやばいんだ!」

「確かに今の君の顔はやばいね」

「冗談言ってる場合か!」

「冗談の一つでも言いたくなるよ、会話が成立しないんだもん」

 そう言って、彼女は再び溜め息。

 だが俺はそんなことに頓着していられない。

 だってやばいのだ。

「あーもう! ハイ深呼吸、深呼吸!」

 しびれを切らしたのか、彼女は手を叩いて一旦話を切り上げ、俺に落ち着くよう言う。

「すってー、はいてー」

「すぅー……。ハァー……。すぅー……」

 彼女に言われるがまま、深呼吸を繰り返す。少しの間それを続けていると、混乱していた頭が鎮まってきた。

「落ち着いた?」

 俺の様子を見計らって、彼女はそう声をかけた。

「ああ……少しは冷静になれた」

「じゃあ説明して? 何があったのか」

 わかった、と俺は答え、さて何から話したものかと思案する。と言っても起こったことなどたった一つで、それも実際に起こっているのかどうかすら怪しいものだ。どう言えば伝わるだろう。

 ――ありのまま言うか。

「顔だ」

「ありのまますぎて何もわかんない」

「だよな」

「いい加減話進めない? ネタももう尽きてきたし」

 諭されてしまった。

「この間、俺の部屋に染みができたって話、しただろ?」

「うん。あのなんか気持ち悪いって話でしょ?」

 そうだ、と俺は彼女の言葉に頷く。

「あの染みなんだが……ちょっと状況が変わってきてさ」

「状況が変わった」

「なんと言うか、あんまり洒落にならない事態になったと言うか」

「洒落にならない」

「その……。こう言うと変だと思うかもしれないけれど」

 染みが、『人の顔』みたいに見えるんだ。

「……」

「……」

「気のせいじゃないの?」

「気のせいじゃないから言ってるんだよ」

 俺の話に真剣な面持ちで耳を傾けていた彼女だったが、俺の説明を聞いて半ば呆れ顔になった。だが俺はめげずに、彼女に必死で説明を続ける。

「始めは何とも思わなかったんだ。『ああ染みだな』って感じで、普通に生活してたんだよ。でも……」

「でも?」

「ふと天井を見上げたら、そこに人の顔があったんだよ」

 そう、人の顔だ。

 無機質な、感情の籠っていない表情。見開かれた目。大きく開いた口。何も見ていないようで、しかしその目は確実にこちらを見据えている。

 そういう顔だった。

「でも染みじゃない」

「染みなんだけどさ……」

 いや、それはわかっている。わかりきっていることだ。

 その顔が、染みの集合体――ですらない、三つの染みが固まって分布しているだけ――だということは。

 そんなことわかっている。

 でも。

「そういう話じゃないんだ」

「じゃあどういう話なのよ」

 彼女の口調には若干苛立ちが含まれていた。無理もない。突然呼び出されて訳の分からない話をされれば、誰だって頭に来る。

 だが、そんなことを気にかけている余裕はない。

 気にかけていられるような心の余裕は、もはや俺にはない。

「一旦そう思っちまうと、どうしても意識から離れなくて」

 壁に現れた染みが、三つ合わさって、人の顔のように見えてしまう。

 それがじっと、俺を見つめている。

 じっと。

 じろっと。

 じろじろと。

 顔が、俺を凝視している。

 俺が部屋の中にいる限り、ずっと。

 どこにいても。

 何をしていても。

 ずっと、ずっと。

 無表情のまま、俺を見続けている。

 ――そんな感覚を覚えたのだ。

「それで、何だかあの部屋に居づらくなって」

「気にしすぎだと思うけどね、わたしは」

 そう言いながら、イスの背もたれに体を預ける彼女。呆れ顔で、若干苛立った口調で、そして――ひどく真面目な目で。

 彼女は俺を真正面から見据えていた。

「気に……しすぎ」

「そう。気にしすぎ」

 気にしすぎ……か。

「所詮はただの染みでしょ? それは君だってわかってるはずだよ」

「ああ……」

 確かにただの染みだ、でも――

「その『でも』がよくないんだよ。ただの染み。それが真実。それでお終い。はい終了」

 彼女はパンパン、と手を打つ。

「どうせただの染みなんだから、深く考えちゃいけないの。心霊現象? 超常現象? ありえないありえない、そんなものくそ食らえってーの。大体、そういうのは『信じない・ありえない・面白くない』が君のモットーじゃなかった?」

「そんなモットーを持ったつもりは……ない」

 俺は彼女にそう切り返すのがやっとだった。

 でも……ありえない、か。

 心霊現象を信じない。

 超常現象はありえない。

 そんなものは面白くない。

 くそ食らえ、ってーの。

「そうだよな……その通りだ」

 忘れていた。自分のスタンスを。

「ありがとう。なんか吹っ切れたよ」

「そりゃどーも」

 彼女は礼などいらん、と言いたげに手を振る。あんな目をしておきながら、よく言ったものだ。

「でもなぁ……やっぱりあの部屋気味悪いよ。染みだらけだし」

 正直な話、あまり進んで住んでいたいとは思わない。早急に引き払ってしまいたいが、しかしそう簡単には行かないのが現状だ。

「どっかのホテルでも借りれば?」

「一日二日ならいいかもしれないけど、何日も居座るのは無理だろ。金がない」

「そりゃそうだ」

 うーん、と頭を捻る俺と彼女。

「あー、じゃあさ。私の部屋に来る?」

「勘弁してくれ」

 即却下だ。

「うん。私も言って思った、勘弁して」

 そう思うなら言わなきゃいいと思うんだけどな……。

「しゃーなしだ。とりあえずあの部屋に帰るよ。いずれ新しい部屋を探すことにする」

「そっか。じゃあその時は私も手伝うよ」

「頼む」

 というわけで、この日は解散となった。

 ――この時、無理にでも彼女の部屋へ行っていればよかった。あるいはホテルを借りるか、その足で不動産屋に行っていればまだ助かったかもしれない。

 だが……もう手遅れだった。



         ◆ ◆

          ◆



「うああああああああああ!!」

 俺は叫んでいた。

 叫んだ。

 叫んでいた。

 叫ばずにはいられなかった。

「うああああ! うあああああああああ! うああああああああああああ!!」

 走る。

 あても無く、ただ走る。

 街灯の明かりが夜道をぼんやりと照らしている。時計を最後に確認した時には二十時を回っていた。

 大声で叫びながら、俺は夜道を全力で走る。

 呼吸すら忘れていた。

 何度か転び、服はボロボロで、体のあちこちに擦り傷ができている。

 だが俺は走る。

 大声を上げながら。

「ああああああああああああああ! うあ、あっ、あああああああああ!!」

 そうしていないと、おかしくなりそうだった。

「うあああああああああああああ!」

 おかしくなってしまいそうだった。

「ああああああああああああああああああああ!」

 いや、すでにおかしくなっていたのかもしれない。

「ああああああああああああああああああああああああああ!!」

 でも、そんなことは関係ない。今更関係ない。

「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 ただ叫んだ。

 ただ走った。

 あれから。

 あの部屋から。

 一刻も早く、少しでも遠くに。

 逃げていた。

 俺は逃げていたのだ。

 あの部屋。

 無数の染みが現れたあの部屋。

 俺の部屋。


 それはついさっきの出来事。

 夕方に大学から部屋に帰ってきた俺は、突然出されたレポート課題をこなす為、机に向かっていた。適当に休憩を挟みながら、二十時まで通してレポートを書いていた。

 そして、作業が一段落したまさにその時。

――ズズズッ

 俺の耳に、不可解な音が這入ってきた。

「……? なんだ?」

 言葉に表しづらい音だった。最も近いのは、何かを引き摺る音だろうか。しかしそれとは何か違う。もっと、何かを引っ張るような音で――。

 その音で、俺は咄嗟に顔を上げた。

 そして気づいてしまった。

 染み。

 染みは西側の壁に多く分布していた。

 俺の部屋の西側には、壁にぴったりとくっつくようにベッドが置かれている。

 そのベッドの上、一枚の布団に。

 『赤黒い染みが付いていた』のだ。

 その光景を目の当たりにして、俺は凍りついた。

 壁ではない。布団だ。壁に接していたベッドの布団。それに染みが付いた。

 それも――染みは一つではない。

 いくつもいくつも――白い布団が、赤色のまだら模様で埋め尽くされていたのだ。

 壁に隣接すれば、壁でなくても染みが付く。

 壁に接しているのは床。

 今俺は、床に座っている。

 いずれ染みは、床を埋め尽くし、そして――。

 布団に染み付いた大量の赤色が、無数の顔になって、俺を嘲笑っている。

 顔。

 顔。

 顔、顔、顔。

 顔、顔、顔、顔、顔、顔顔顔、顔顔顔顔、顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔――。

 俺はすぐに部屋から逃げ出した。

 ドアを開け、外に出て、階段を駆け下り、道路に飛び出す。

 走る。

 走る。

 走る。

 走る、走る。

 行く先など考えていない。

 ただ、あの部屋から逃げ出す。遠く、遠くへ。

「うあ、あああ! ああああああああああああああ!」

 いつの間にか、俺は叫びだしていた。

 腹の底からありったけの力を込めて、大音声で叫ぶ。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」 

 そうしていないと、おかしくなりそうだった。


 どれだけ走っただろう。

 どれだけ叫んだだろう。

 足の裏は擦り剥け、全身の傷が痛む。喉は枯れ、今にも血反吐を吐きそうだ。

 それでも俺は走るのを止めない。

 それでも俺は叫ぶのを止めない。

 足が痛もうが、喉が潰れようが、そんなことは関係ない。あんな所にいたら、俺は本当に駄目になってしまう。逃げなければ。一刻も早く、少しでも遠くに。

――ブー、ブー、ブー

 いつの間にかズボンのポケットに入っていた携帯が震えた。

 俺は走りながら、ポケットに手を突っ込み、携帯を取り出した。電話に出る。

 相手は彼女だった。

『今どこ?』

「知るか!」

『どういう状況なの!? ついさっき君が町中を走り回ってるって聞いて――』

「知るか知るか知るか! それどころじゃないんだ!」

『落ち着いて! とにかく落ち着くの!』

「落ち着いていられるか!」

『いいから! わたしの話を聞いて!』

「知るか、知るか! 知るかよ!」

『何があったの!? 教えて、お願い!』

「顔が!」

『顔が!?』

「顔が、壁の顔が、広がって、壁以外に広がって! このままじゃ俺まで!」

『落ち着いて!』

「助けてくれ! お願いだ、助けてくれ! このままじゃ俺も!」

『大丈夫! 大丈夫だから落ち着いて――』

「――あ」

 携帯越しの彼女に向かって怒鳴りかかっていた俺は、目の前の光景を見て、目の当たりにして、今度こそ凍りついた。

「はは、はははは。あははははははは……」

 乾いた笑いしか出ない。

『な、何。どうしたの……?』

「はははは、はは、ははははは……」

 俺の目の前には。道路の真ん中に佇む俺の目の前には。

 赤い顔があった。

 二つの点と、一つの点。

 三つが逆三角形状に集まって一つの顔を形成している。

 その顔は、あくまでも無表情で。

 どこまでも、俺を見つめていた。

「あははははは、はは、はははははははははは……」

 外に逃げても無駄だったのだ。

 あれはどこまでも追ってくる。

 逃げても意味はない。

 もう、どうしようもないのだ。

『ねえ、何があったの……?』

「ははははは――顔が。外までついてきたんだ」

『――』

 笑うしかない。

 笑うしかなかった。

「あははは。ははは。もうどうしようもないや。ははは、はは――」

『それは「染み」だよ!』

 彼女のその言葉に、俺は雷に打たれたかのような衝撃を覚えた。

 頭を鈍器で殴打されたかのような感覚。一瞬視界が歪み、次の瞬間には明瞭になった。頭が一気に冷め、思考がクリアになる。手の震えは止まっていた。

「染み――染み、染み、染み……」

『そうだよ。それは……ただの染み』

「ただの……染み」

 よくよく見れば、目の前に現れた赤い顔は、地面にあったただの染みだった。

 何かの飲み物を地面にこぼしただけの、三つの染み。

 ただそれだけのことだった。

 はは。なんだ。

 ただの染みじゃないか。

『ねえ、だから安心して。少し疲れてるだけなんだよ』

「染み……はは。染みだ」

『……落ち着いたね。じゃあ今からわたしが迎えに行くよ』

「ははは、はは」

『場所はわかる? そこに行くから待ってて――』

「染みだ。ただの染みだ」

『――どうかしたの?』

「染みだ!!」

 叫ぶ。

 なんだ、恐れることなんて何もなかったじゃないか。

 だってあれはただの染みなのだ。

 ただの染みごとき、恐れることは何もないじゃないか。

「染みだ、染みだ、染みだ染みだ染みだ! あんなもんただの染みだ!」

 携帯を投げ捨てる。

 地面に衝突した携帯が大きな音を立てながら転がっていく。

『ちょ、ちょっとどうしたの――』

「はははっはははっははっははっは! 染みだ染みだ! あははっはは!」

 恐れる必要なんでない。

 あんなものは!

 染みだ!

「ははっははははっははっはははっはははっは――帰ろう」

 染みとわかれば怖くない。

 部屋に帰っても怖くない。

 ただの染みなら怖くない。

「ははは、はは。ははっははっは」

 帰ろう。帰ろう。帰ろう。帰ろう。



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 ドアを開ける。

 玄関を抜ける。

 部屋に入る。

 正面には窓。

 左にはテレビ。

 右にはベッド。

 右の壁には染み。

 大量の染み。

「あはっははは。そうだ、染みだよ。これは染みだ」

 ベッドに近づいていく。

 途中、机の上に置いてった定規を手に取る。

「壁に染みが付いてるのなら――」

 ベッドの上に乗る。

「全部剥がしてしまえばいいんだ」

 壁に向き合う。

 すでに壁は赤い染みで埋め尽くされている。

 それどころではない。

 天井も。

 床も。

 部屋の西側は全て、赤黒い染みで覆われていた。

 定規を壁にあてがう。染みの付いている部分に、刺さる程強く定規を押し当てる。

 削る。

 ゴリゴリと。

 全力で削る。

 染みは壁紙ごと、ベリベリと剥がれ落ちていった。

「ははっははっはっはは。怖がる必要なんかない。ただの染みだ」

 笑う。

 ただ笑う。

 ただただ笑う。

「見ろよ、こんなに簡単に剥がれるんだ」

 次の染みを剥がす。次の染み。次の染み。

「ははは、怖くなんかない、怖くなんかない! ははっははっははっは!!」

 剥がす。剥がす。剥がす。

 剥がす剥がす剥がす剥がす剥がす剥がす剥がす剥がす剥がす!

「ははっは、ははっははっははっはは!! あはっははっはっははははっはは!!」













――ズズズッ




 動きを止める。

 何の音だ?

 何の音かはわからないが。

 まずい。

 後方から音がした。

 まずい。

 まずい。

 これは何か、嫌な感じがする。

 今までとは違う。

 『本物』の感じ。


――ズズズッ……ズズッ


 ゆっくりと振り返る。

 壁。テレビの上。

 そこに顔があった。

 明らかに――染みではない、顔。

 人の顔だ。

 三つの染みが合わさった、逆三角形の顔ではない。

 目、鼻、口、輪郭さえもはっきりとした。

 れっきとした、顔だ。


――ズッ……ズズズッ


「――ははは。はははは。はは」

 始めにできた染みは何だったか。

 どこにできたのか。

 西側じゃない。

 東側、テレビの上だ。


――ズズズッ……ズズズッ


 なんてことはない。

 こっちが『本物』だ。


――ズズズッ


 壁の顔が、少しずつ盛り上がっていく。

 何かに押されるように。

 何かに突き破られるように。


――ズ……ズズズッ


 顔が、少しずつ近づいてくる。

 壁から何かが這い出てくる。

 肩。

 腕。

 体。

 これは――人だ。

 ゆっくりと、壁から人型が這い出てくる。


――ズズズッ……ズズッ


 足が動かない。

 声が出ない。

 固まってしまっている。

 思わず息を呑む。

 体は動かないのに、全身が震えている。

 体が言うことを聞かない。

 逃げなければ。

 今すぐ逃げなければならないのに。


――ズッ……ズズズッ


 何かは壁から完全に這い出た。

 ゆっくりとこちらに近づいてくる。

 右手を伸ばし、手のひらを広げ、こちらを掴むように。

 動けない。

 避けられない。


――ズズズッ……ズズズッ


 手が頭に触れる。

 掴まれる。

 その瞬間に、声を聞いた。


「やっと、気づいてくれたね」










          ◇



 彼と連絡が取れなくなって、一夜が明けた。

 わたしはあの電話の後、急いで街に出た。

 途中、何人かの友人に電話をかけてみたけれど、誰一人として彼の消息を知っている人はいなかった。

「一体どこに行ったの……」

 一晩中街を探し回ってみたけれど、彼の姿は見当たらなかった。

 顔。

 彼はそう言っていた。

 それが彼の失踪に関係があるのは間違いない。

 でもそれ染みだよ?

 心霊現象でもあるまいし。

 神隠しとか――ないない。

「でもまあ、とりあえず彼の部屋に来てみたけど……」

 わたしは彼の住んでいる部屋の前にやって来ていた。

 彼は、この部屋の壁に無数の赤黒い染みがあった、と言っていた。

 それが、人の顔に見える、とも。

 どうだろう。

 わたしはドアノブに手をかける。

「――開いてる」

 不思議なことに、鍵がかかっていなかった。

 嫌な予感がする。

 わたしは恐る恐るドアノブをひねり、部屋に入る。

 彼の靴が玄関に置かれていた。

 しかし、これが「彼が一度部屋に帰ってきた証拠」とはなりえない。何故ならば、彼との電話での、彼の取り乱し方から考えて、外に出る時にちゃんと靴を履いていたかどうか、あやしい所だからだ。

 現に、靴はきれいに並べて置かれていた。


「――」

 部屋に入って、わたしは言葉を失った。

 ベッドが置かれている側の壁の壁紙が、乱雑に削り取られていたのだ。

 ベッドの上には定規が落ちている。恐らく、彼がこれを使って壁を削ったのだろう。

 異常行動だ。

 成程、彼は相当に追い詰められていたらしい。わたしがもっと早めに対策を取っていれば、こんなことにはならなかった、か。

 ――今何を思ったところで、わたしの罪は軽くならない。

 彼はわたしに助けを求めていた。こうなった責任はわたしにある。

 ならば、せめて彼を探し出さなければ。


 それからわたしは、失礼ながら彼の部屋を少し捜索して、彼の失踪に関わりのありそうなものを探してみた。結局は何も見つからなかったのだが、少し奇妙な点を見つけた。

 部屋の壁には、赤い染みなどなかったのだ。

 彼が剥がした壁紙には赤い染みは付いていなかったし、剥がしきれなかった壁にも染みの欠片もなかった。

 これは彼の証言と矛盾する。

 もしや、彼は幻覚を見ていたのだろうか。

 ――考えてみてもわからない。


「とにかく、彼を見つけないと」

 捜索を一通り終え、わたしは部屋を出ることにした。

 その時、ふと染みを見つけた。

 赤くはない。どちらかと言うと茶色の、普通の染みだった。

 案外、彼はこれを見つけて、被害妄想に陥っていたのかもしれない。

 若干、人が叫んでいるような顔に見えないこともなかったが、まあ。

「『シミュラクラ現象』、か」

 気のせいだろう。

 わたしはドアを開け、部屋を後にした。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 短編として流れがよくできていて、最後のオチまで一気に読めるという点がいいです。 [気になる点] 途中の図的仕掛けが今ひとつ効果的ではない気がします。 [一言] 最初の肝試しの部分が何かに関…
[一言] 読ませていただきました。 シミュラクラ現象=染み みたいな… 怖かったです。思わず家の壁の染みを探してしまいました(>_<) ”わたし”が妙に冷静なのも… 惹きつけ方が上手だと思いました…
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