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vol.3


 有原祐介という人物の大きさは、身長一八五センチという物理的なものにとどまらず、彼に一定以上の期間接してきた人物は皆少なからず――春香、僕、黒木、それにロリコンの伊瀬でさえ読書好きになり、彼と同じ高校に進学したという精神面の影響力からも推し量ることができよう。そして伝説の数々。いわく、幼稚園では保母さんの膝に座って新聞を読んでいた。いわく、小学校入学時には常用漢字をすべて読み書きできるようになっていた。いわく、中学校を卒業するころには自前の蔵書数が一〇〇〇冊を超えていた。いわく、小規模ながら俊英ぞろいで知られた風野高校第三文藝研究会から、その恐るべき文才で部員を一掃してしまった。いわく、センター試験の数学・地学の合計点は二〇〇点で、二次試験の数学はまったくの白紙だったにもかかわらず東大文三に現役合格。云々、云々。

春香がそのバカっぷりにもかかわらず現在下にも置かれぬ扱いを受けているのは、高村の指摘するような一面の人間的魅力もさることながら、ひとえにこの偉大な兄のおかげなのではないか、と思う。

 ――しかし、それだけの才能に恵まれた彼が、幾度となく新人賞に蹴られて小説家になれず、大学もやめて半ばひきこもりニートと化し、果ては妹の下着で抜いているというから、現実はどこまでも厳しい。かつては現代に生きる文学青年と思わしめた秀麗な眉目は愁いを帯びはじめていつしかどんよりと曇り、有原家にお邪魔したときの、こんにちは哲哉君、という挨拶は弱々しく湿り、春香の部屋でテレビを見たりマンガを読んだりしていると、時折隣の彼の部屋からうめき声やらドスンという物音やらが聞こえてくる。そのたびに春香は梅雨空のような顔をする。バカ兄貴が、と呟いたりする。


 そして今、彼女はヒマラヤの雪男を見る目で、バカ兄貴とヘンなOBの二人連れを追跡中。何故か僕と由紀も巻きこまれた。

「なんで兄貴が外出歩いてんのよ」

「俺に訊かれても知らん」

「なんであのヘンな人……ムロさん、だっけ? と一緒にいんのよ」

「だから知らねえったら。ていうかなんで俺たちはこそこそつけ回してるんだよ」

「だって何してんのかわけわかんないんだもん」

「お前も十分わけわからんぞ」

 言いつつ、五〇メートル先の二人を見る。こちらに向かって歩いてくる彼らが僕たちを見つける寸前に、春香によって問答無用で電柱の陰に引っ張りこまれたのだ。抗議する間もなく口をふさがれ、やりすごして一分ほどしてから、彼女は市街戦よろしく身をかがめて後を追い始めた。なんとなく真似をする由紀と僕、声を潜め、

「あの女の人誰?」

「ムロさんは……えっと、ウチの高校のOBだ。祐介さんの部活の後輩」

「あー、なんかすごい変わった人だっけ。今でも高校の部室に来てるって言ってたよね」

「ん、まあそんなとこだ」

「アンタそんなに面識あったっけ? ムロさんと」

 目を祐介さんたちに向けたまま春香が口を挟んでくる。昼間のムロさんと高村の言葉を思い出し、

「え、いや時々会うからさ、校内うろついてるとこに。祐介さんからも色々聞いてるし」

 適当にごまかす。春香僕を見て、

「あたしも兄貴から話には聞いてるし、たまに見かけて赤ちゃんやっほーとか言われるけど、部室に来てるとか知らないわよ。何、あたしの知らないところで会ったりしてるの? アンタたち」

 ジト眼、ぎくり。バカのくせにたまに鋭い。どう答えたものか考えあぐねているところへ由紀が、

「デートしてるんじゃないかな、祐介さんたち」

「それはない」「それはないわね」

 即答する僕と春香。

「そうなの? でもあんなにべったりくっついてるよ?」

 由紀が指差す先には、たしかに祐介さんにもたれかかるようにして川の堤防を登っていくムロさんの姿。足取りがおぼつかない。

「……ありゃオーヴァドーズだな」

「おーばーどーず?」

「抗鬱剤とか睡眠薬の類を飲みすぎてあんなふうになってんだよ。あの人よくやるから」

「ふーん」

「ねえ、やっぱりなんかヘンに詳しくない? ムロさんに。あたしに隠してることあるんじゃないの?」

 しまった。

「いやまあなんつーかその、あ、見ろ堤防降りていくぞ」

 慌てて春香の目を二人に向けさせる。ふらふらと河川敷へ向かう祐介さんとムロさん、追う僕たち。


 祐介さんとムロさんの間に特別な関係はなかったのか? というのは長年の疑問である。ひところ電波研の部員は二人きりだったのだし、ムロさんはあんな人だ。しかし彼女は、男女が揃ったら自動的に恋愛が始まるわけじゃないんだよ、などとぬけぬけと言うし、祐介さんも、そんなことになっていたら僕の人生の諸問題はもっとややこしくなっていただろうね、と笑うのだった。なので、単に同じ部活の先輩と後輩なのだろうととりあえずは結論づけている。そもそも、ムロさんが卒業したあと二人が一緒にいる姿というのを、誰も見たことがない。祐介さんが引きこもっているせいもあって。


 ムロさんが吐いている。堤防の川側の斜面で、祐介さんに背中をさすられながら。言葉もなく、二〇メートルほど離れた草陰から見つめる。

「お兄ちゃん、あの人酔っぱらってるんじゃないの?」

「ムロさんは酒はやらん。まあクスリに酔っぱらっている、と言えなくもないけど」

「あとでちゃんと聞かせてよね、アンタとムロさんの関係」

「別に大したモンじゃねえよ」

 膝を立ててしゃがみこんでいる由紀と春香、白と水色のショーツが丸見え。困って目をムロさんに向ける。ショートカットが俯いた眼元を覆い、震える小さな口から驚くほど大量の吐瀉物が流れ落ちた。黒いショーツよりもはるかに見てはいけないものを見てしまった気がして、目を背ける。そこにまた白と水色のショーツ。仕方なく陽が暮れ始めた空を見上げる。

 間。電車が鉄橋を渡る音が遠く聞こえる。

「あ、なんか話してる」

 春香の声で目を祐介さんたちに戻すと、肩で息をしているムロさんに祐介さんが何事か語りかけていた。ムロさん口元をぬぐう手を止め、祐介さんを見て二言三言呟き、


 いきなり唇を重ねた。嘔吐を終えたばかりの唇を。


 春香と由紀が息を飲む。教育的指導、という謎の語句が脳裏をよぎって、反射的に身体で由紀の目を遮る。がさり、思ったより大きな音。見ると春香が立ち上がっていた。強張った顔で祐介さんたちを凝視。祐介さん、そしてムロさんが気づいて目をこちらに向ける。三秒後、春香が大股で歩を進めだした。後に続く僕。由紀は動かない。

 春香に並んだ。まさしく汚物を見る目で祐介さんとムロさんを見下ろしている。髪の黒いジョン・レノンといった風情の祐介さんが口を開く。

「春香……と哲哉君、どうし」

「何してるの」

 春香の金属的な声がかぶさる。背筋が寒くなった。こんな声色聴いたことがない。

「あらァ、草薙君に赤ちゃん」

 胡乱な目で僕たちを見上げてムロさん、呂律が回っていない。僕が部室を出たあとでしこたま薬を飲んだのだろう。祐介さんの首に、リストカット痕のある左腕を回したままにへらあと笑い、

「何って見たまんまだよォ、ゲーして祐ちゃんにチュー」

 右手で彼の頬を引っ張

「その手を離せッ!」

 心臓が五センチは飛び跳ねた。とんでもない怒声を上げた春香を恐る恐る見遣ると、ほとんど劇場版エヴァのアスカのような表情。左上の犬歯が八重歯なので比喩でなく牙をむいている。キレている。徹底的にキレている。こころもち彼女と距離をとりつつムロさんに目を戻すと、手を離すどころか、

「なァに、草薙君だけじゃなくて祐ちゃんにベタベタしても怒るんだァ?」

 水爆を落としてくれた。昼休みの高村と目前の春香の区別があまりついていないようだ。そして祐介さんの頬をぐりぐり。どうしてあなたはそう人を煽りますか。ほら春香が一歩踏み込んで、僕はとっさに右腕を出して押しとどめる。

「その人かばうんだ、哲哉」

 静かな声、しかし指が恐ろしい力で僕の腕に食い込む。祐介さんがさらに静かな声で、

「春香、落ち着いてくれ。彼女は」

「兄貴も、かばうんだ。そのゲロ女」

 腕がものすごく痛い。

「ゲロ女、じゃないだろう。室見のことはお前も知っているじゃないか」

 彼の声はどこまでも落ち着いていて、形のいい唇にムロさんの吐いたモノのかけらがくっついていて、たぶん無意識にだろうけどそれをちろっと舐め取って、

「死ねッ! 変態ッ!」

 モーションを腕に感じたときには遅かった。春香の右足が祐介さんの側頭部に突き刺さる。衝撃が腕を通して伝わってくるほどの凄まじい蹴りだった。彼、ムロさんを巻き込んで真横に吹っ飛んだ。ひっくり返ったムロさんの黒ショーツが露わになる。一日でこれだけ女のパンツ拝めるなんて前世の因縁かなァやっぱり俺パンツ好きなのかなァ、としばし現実を忘れてぼんやり眺め、

 胸倉つかまれて首の骨が鳴るほど張り飛ばされた。春香が人殺しの目で僕とムロさんたちを交互に睨みつけ、鼻を鳴らし、

「……バカ」

 僕をドンと突き放し、よろめいたときにはもう踵を返して歩きだしていた。ムロさんを助け起こす祐介さんを気にしつつ後を追う。草むらにしゃがみこんだまま顔を引きつらせている由紀の横をずんずんと通り過ぎ、堤防を登っていく春香。由紀がこわごわ立ち上がった。振り向くと祐介さん、そのまま行ってくれ、と顎でジェスチャ。彼らも心配だが、仕方ない、春香が路傍の自動販売機を虐殺したりしたら大変だ。


挿絵(By みてみん)



 自動販売機に暴行を働かなかった代償なのだろうか。春香は僕の部屋にいる。

僕と由紀の前を早足で歩く彼女、有原家と草薙家への分岐点となる十字路をまっすぐウチへ向かって突き進んでいったので、事後承諾的に家へ上げてしまったのだ。それも、マンションのオートロックの自動ドアを前に無言でたたずんでいるところへ鍵を開けて通してやり、エレベータのボタンを押してやり、さらに自宅のドアまで率先して開けてやったのだから情けない。そうでもしなければ、それこそ蹴破られていた気がする。

 共働きの両親はまだ帰っていないので、明らかにビビッている由紀を自室へ非難させ、向かいの僕の部屋へ春香を入れてキッチンから麦茶とコップを取ってくると、世にも恐ろしい光景が待っていた。ベッドの上で枕を抱え、無表情でどついている。ぼす、ぼす、ぼす、と時報のような一定間隔で。さほど強くないのが逆に怖い。僕はとりあえず机にコップを置き、麦茶を注いだ。

 ぼす、ぼす、ぼす、ぼす、ぼす、

「あ、あのな春香、ムロさんはだな」

「わかってる」

 手を止め、かすれ声で呟く。いいやわかっているはずがない。

「兄貴は電波女のゲロチューが好きな天井知らずの変態で、アンタはあたしに隠れてアイツの黒パンツで抜いてるエロ薙エロ助」

「ほら全然わかってねえッ」

 たまらずわめいたのがかえって刺激したらしく、

「アンタたちのことなんて全部お見通しよ! 兄貴はゲロ女かばってゲロ舐めた! アンタもベタベタされてるんでしょ、アイツ言ってた! 電波研の部室かどっかに愛の巣があってそこでアレやコレややらかしてるんだわ、昼休みとか、探しても見つからないときはどうせそうなのよ! 電波スカートめくって電波パンツためつすがめつ眺めまわして、それで、ッ……」

 もはや日本語の体をなしていない。血管が切れそうなくらい紅潮した顔。

「電波スカート電波パンツって何だよ! クスリでラリってる人の話を真に受けるなバカ! 落ちッぐッ、着いて俺の話を聞け!」

 顔面を枕で砲撃されながらも説得を続ける。あさま山荘を包囲する機動隊の気分だ。

「いいか、たしかに今日の昼休み俺は電波研に隠れていた。あそこには秘密の地下室があってムロさんが管理人みたいなモンで、時々かくまってもらってるんだ。今日も一緒にいたけど、お前の想像するような破廉恥行為は断じてやらかしてねえぞ」

「やっぱり秘密の部屋に二人っきりだったんじゃないのスケベ!」

「歪んだ解釈するなッ! 二人っきりでも俺があの人押し倒すようなタマに見えるかよ!」

「アイツに押し倒されてパンツ見せつけられて抜いてそうなタマよ!」

 親がまだ帰っていなくて本当によかった。由紀には筒抜けだろうが。

「どんな変態だそりゃ!」

「こんな変態よッ、こ・ん・な!」

 言うが早いか、春香ベッドの上で立ち上がり、信じられないことにその場から飛び蹴りを放ってきた。また水色ショーツ、と思いつつ胸に被弾、背中から床に突っ込む。カーペットでなければ脊髄をやられていたかも、と思うほどの衝撃で目の前が真っ暗になる――が、いつまでたっても真っ暗。うわっマジでヤバい、って何だこの感触? ていうか息苦しい。

 そして両頬に彼女の肌――太腿が当たるのを感じ、顔面マウントポジションを取られていることに気づく。どうやってこの体勢に移行したのか見当もつかないが、つまり僕の顔は今スカートに覆われているらしい。……ということは、目前にはものすごいモノがあるんじゃないか?

「由紀ちゃん、言ってたよね。男女関係なしに性欲はあるんじゃないかって」

 遠い、けれどはっきりした声が聞こえる。さっきまでの激情は収まったのだろうか。

「兄貴、あたしのパンツで抜いた。アンタも、由紀ちゃんとかあたしとか、電……ムロさんとかのパンツ見て、エロいこと考える。抜いてなくても、見て嬉しいのだけは間違いない。昔だってあたしの……ノーパン見たし。伊瀬はロリコンだから言わずもがな。男はみんなエロい」

 いやに冷静な声で、罪状を読み上げていく。が、

「で、ムロさんも兄貴にキスするとき、絶対エロいこと考えた。昔女の子にキスしたこともあるっていうし……今年のヴァレンタイン、あたしにチョコくれた子も、たぶん同じ。麻美も、好きな人のこと考えて、その、した、ことがあるって言ってた。由紀ちゃんはどうかわかんないけど、つまり、女だってエロいときはエロい」

 今度は同性を告発? と、突如視界が明るくなった。そして思っていたよりはるか近くに「ものすごいモノ」登場。眼下に聳え立つは、これまでになく接近した水色ショーツ、というか、一八歳女子高生の股間のドアップ。視線を上方に転じると、真っ赤な顔で、校則違反スレスレのプリーツスカートを自ら捲り上げ、潤んだ眼差しを僕に向ける痴女がひとり。彼女は続ける。

「だからあたしも、今エロいことしてる。自分で男の顔にまたがって、スカートめくってパンツ見せてる」

 声が震えている。押し付けられている太腿も、尻も震えている。

「わ、わけわふァ」

 声を絞り出そうとして、口をふさがれた――その、股で。むっと押し寄せる熱気が鼻から脳を直撃。これは、別の意味でマジヤバい。

「で、今エロいこと考えてる。しようとしてる。このパンツで、」

 上ずって、

「アンタに抜かせる。ううん、あたしが抜く。自分の、手で」

『ノルウェイの森』がそんなに好きかよッ、とはもはや口に出せない。この状態では顎を動かすだけでとんでもないことになってしまいそうだ。ていうか、やめろ俺のズボンのファスナーを下ろすんじゃねえ!

「アンタが、」

 涙が一滴僕の鼻に落ち、

「エロいのが悪いんだからね、」

 エロいのはお前だろッ、

「……バカ哲哉、ッ」

 バカはッ、

「バカはお前だろう、春香」

 僕の気持ちを代弁してくれる祐介さんの声は実にありがた

「んなッ――!」

 人間離れした力と俊敏さで、僕が春香を跳ねのけて飛び起きるのと、春香が僕のつま先まで後退するのが同時だった。部屋の窓が開いて、呆れ顔の黒髪ジョン・レノンが格子越しに顔をのぞかせているのだ。

「あ、ああッ、あ、兄貴ッ」

「なッなななななッ、なんでそこにどうしてここが開いてッ」

「いやあ、」

 春香と僕はわなわな真っ赤なシャア専用茹でダコ、対する祐介さんはのんびりと頬を掻いて、

「とりあえず室見を僕の部屋に寝かせに行ったんだけど、春香がまだ帰っていなかったから、これは哲哉君の家にお邪魔しているなと思って来てみたら、なんだか大変なことになっています助けてくださいって由紀ちゃんが半泣き声で言うんだ。それでここまで上がると何やら大愁嘆場、しかも窓の鍵が開いている。無用心だよ哲哉君、格子があるとはいえ」

「き、気づか……」

「まあちょっと前から観察させてもらってたけれど、哲哉君は春香に耳も目もふさがれていたし、春香はほら、頭に血が上るとまるで周りを気にしなくなるだろう? 名誉のために言っておくけど、ちゃんとインタフォン鳴らして由紀ちゃんと話して入れてもらったんだよ、僕」

 くいっと僕の部屋のドアのほうを親指で指す祐介さん。見ると、五センチほど開いて、今にも泣き出しそうな由紀が。

 わなわな茹でダコのまま、春香と顔を見合わせる。とりあえず思ったのは、本日二度目の、

死にてぇ。



「まあ、春香の好きなガンダムから拝借するなら、認めたくない若さゆえの過ちってヤツさ。大したことじゃないよ」

 えらく年季の入った仕草で麦茶を飲んで祐介さん。兄貴はどうなんだッ、と抗議する気力はさすがの春香にもないようで、左隣でひたすら縮こまってちびちびとコップに口をつけている。その左隣でほぼ同様の僕と、そのまた左隣で神妙に給仕をする由紀の四人が、部屋の真ん中で車座。

 春香の言いたいことはわかったのか祐介さん、彼女に向き直って、

「無論、昨夜僕のやらかしたことはそんな言葉で片付けられるものじゃない。室見に聞いた話では哲哉君にも累が及んだようだし、改めて謝る。すまなかった」

 手をついて頭を下げた。長髪がさらりと流れる。色こそ違えど春香と似ているな、と思う。

「あ、ううん……それはもう、なんていうか……」

 春香、複雑な表情で手と頭を振った。僕と彼女の馴れ初めのように、醜態というか痴態を晒しあったことで共犯意識のようなモノが生まれたというべきか。一方的に公開レイプされかけた僕はたまったモンじゃないが、二人の間に少し穏やかな空気が流れているのを見るとなんだか毒気を抜かれてしまった。

「で、結局デートしてたんですか? 祐介さんと、えっと、ムロさん」

 そこへ不発弾を掘り返す由紀。やっぱり子供だ。春香が固まる一方で祐介さん苦笑し、

「それに関しては順を追って説明しなければならないね……今回の新人賞、三次選考で蹴られたのは春香も哲哉君も知っているだろう?」

「うん……」「……ええ」

「まあそれで、自棄になってあんなことをやってしまったというのもあるんだけど、あそこは賞を獲れなくても運良く編集者の目に留まれば拾ってもらえるんだ。――今日の午後、編集部から連絡が来たよ。僕はコレ面白いと思います、手直しして出しましょうって」

 間。しばらくして春香が、

「……それって、」

「苦節五年、どうやら花が咲きそうだ、というところかな。春の陽気に照らされて」

 祐介さんは眼鏡のつるを持ち上げ、穏やかに、少し照れくさそうに、微笑んだ。

「や、やったッ!」

 僕、思わず叫ぶ。五年どころではない、一〇年選手のファン第二号を自負しているのだ。右隣のファン第一号の様子をうかがうと、なにやら怒ったような顔。そして、

 両眼に見る見る大粒の涙がたまり、ぼろぼろこぼし始めた。口元を手で覆って俯く。嗚咽。祐介さんの大きく長い手が彼女の頭を撫でる。高く細い声が漏れた。僕は眉間に力をこめる。気を抜くともらい泣きしそうだ。今日はこれ以上他人にみっともないところを見せたくない。代わりに由紀が眼元をぬぐっている。

 春香が落ち着くのを待って祐介さんが続ける。

「で、学校にいる君たちに連絡するのは――春香のDJぶりは知っているけど――ためらわれたから、室見に電話した。成就したら真っ先に知らせるって、昔約束したからね。それで、恥ずかしながら久々に駅まで出て待ち合わせたんだけど、彼女はもうオーヴァドーズでふらふらで。とりあえず近所のメンタルクリニックに連れて行って、まあ致死量なんかには程遠いってことで、彼女の家まで送っていくかウチで休ませるか迷いながら歩いていたら、室見が言い出したんだよ。約束を果たそうって」

「約束?」

 問うと、彼の視線が宙を彷徨い、

「あー、これは僕と室見の、若さゆえの過ち、未遂なんだけど――あの河原で事に及ぼうとしたんだ。五年前」

「んなッ」

 春香が奇声を上げた。僕も目を見張った。そんな話は聞いたことがない。隣で今度は由紀がシャア専用になる。

「ししし、知りませんでしたよそんなこと!」「ああああ、あたしも」

「少なくとも僕は言わなかったからね。室見も、未遂だったから口にしなかったんだろう。横紙破りな子だけど、僕が風野高校にいた間は、誰かと性交渉を持ったことはないんだよ。で、そのとき僕にこう言ったんだ。部長が作家デビューしたら、ここでしてあげるって」

「は、はあ……」

 シャア専用茹でダコ、命名シャアダコ三匹。祐介さんの微笑がものすごく大人に見える。

「もちろん、この歳になってあんなところでそんなことをする気は僕にはなかったよ。室見も頭のネジが全部抜けている状態で、うわ言みたいなモノだし。どうしようかなと思っていると、着くなり嘔吐。介抱しながら、あんな青臭い約束は水に流してとりあえずウチで休もうと声をかけたら、ヤるのがイヤならチューしようと言って――あとは、君たちの見たとおり」

「…………」

 春香の命名した「ゲロチュー」がシャアダコたちの脳裏を一斉によぎったか、揃って沈黙。祐介さん一座を見回し、

「というわけで、まあ、会って話をするつもりではあったけど、デートと呼べる性質のものかはわからない。僕にしてみれば、久方ぶりに外に出たらなし崩し的に病人の世話をさせられたようなもんだ。ああ、世話ついでに、今日は彼女ウチに泊めていくけど、どうこうするつもりはないから心配しないでくれ、春香。もう全部ケリがついたんだ」

 そして、ほんのかすかに、

「さっきの――味わい深いキスでね」

 ほんのかすかに、寂しそうに、微笑んだ。


 母さんに面倒見るよう頼んできたけど、一応僕も先に戻るよ、春香はもうしばらくゆっくりしておいで、と言い残して、祐介さんは帰っていった。直後、あたし宿題しなくちゃ、春香お姉ちゃんごゆっくり、と言って由紀もそそくさと部屋を出ていき、残るは通常の一.五倍くらいの速さで動けそうなほの赤い高校三年生二人。

「――え」「――えっと」

 同時に言いかけ、視線が交差、今日のアレやコレやを丸ごと思い出して一気にシャア専用になる。今ならサザビーくらいには戦えるかもしれない。ロシアに止めを刺せるか?

「ま、まあなんだその」「えっと」「……なあ?」「……ねえ?」「は、あ、はは」「ははは、は」「はあ」「はあ」

 フリッパーズギターも真っ青の意味なし会話を交わしてうつろに笑い、なんとなく溜息。しばし間をおいて春香、ベッドに乗り、

「兄貴さ、」

「ん」

「やっぱり大人なんだ、って思った」

「まあ、二十三歳だからな」

 春香は膝を抱え、

「あたし、子供だ。アンタや黒木や伊瀬を蹴っ飛ばしたり、麻美たちとじゃれあったり、DJやったりして、楽しく生きてる! 充実してる! って思ってるけど、先のこととか全然見えてない。ただなんとなく、アンタと同じ大学行くんだろうなってだけで、何になりたいとかわかんないし、兄貴みたいに一本筋が通ってるわけじゃないし、そもそもアンタと偏差値が一〇も違うし。……あんなふうに、今のことも全部ケリがついちゃうかもしれないってのが、怖い。ケリをつけられるなんて、達観できない。したくない」

 半ば独り言のように呟く。ムロさんのように、顔を膝にうずめる。ツーテールの先が肩で広がる。

 僕は彼女の左隣に腰掛け、頭を撫でた。

「俺も同じだ」

「え?」

「お前たちとバカやってるのが楽しくて、他には何もいらなくて。今がずっと続けばいいって思ってる。将来だって、お前や黒木や伊瀬や、高村たちと皆で同じ大学に行ければいいなって。でも、高村はたぶんすげえ頑張って東大行って社学進むんだろうし、伊瀬はお前よりバカでロリコンのくせに首都大行って宮台真司の講義受けるんだって張り切ってるし、黒木は明大行って漫研入ってイラストレーター目指すし。俺はそういうの、お前と同じで、まだない。お前と同じ大学にはたぶん行けるだろうけど、その先がなくて。もうみんな、バラバラになる予感がしてる。高三の夏休み前なんだから、進路とかそういうこととか全部ひっくるめて、とっくに覚悟決めてなくちゃいけないんだろうけど、無理だ」

 一気に喋って、

「バカだ、俺」

「あたしも。バカだ」

「……ホントにバカップルだな」

「うむ」

 二人で伊瀬と黒木の真似をしてみる。一呼吸おいて、同時に吹き出した。僕は春香の左ツーテールを背中に流してやる。

「ツーテールさ、大学行っても続けろよ。その髪の色も、似合ってる」

「何? いきなり」

「無理にケリつけなくてもいいんだよ」

 さらさらのライトブラウンの髪に指を通して、

「ずっとさ、誰に会っても、バカップルって言われてようぜ。中学に上がってからこっち、メンツが変わっても六年間言われ続けてるんだ。あと四年、いや、一〇年以上言われてみたいって思うよ。うん、今決めた!」

 ぐいっと彼女の頭を抱き寄せ、

「ずっとバカップルだ。ずっと」

 耳元でささやく。春香の顔、ファンネルを出しそうな勢いで朱に染まる。

「………………バカ哲哉」

「バカ春香」

 見つめあい、くすり、そして真剣なまなざしになり――

「明日は赤パンツはいてきてくれ。久々に見たい」

「なッ、何言ってんのよド変態ッ!」

 平手打ちショットガンを受けながら、僕は大いに笑った。

(了)

これにて完結。お付き合いいただきありがとうございました。

この2人の話は、もっと書いていきたいと思います。

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