第2話 恵子さんの恋**
扉を開いて、ミーティング・ルームに入る。
優華お姉様が、お茶を入れている。
ハイビスカスのお茶だ。クリアな赤い色がきれい。
暖かな湯気、そしてやさしげな花の香りが漂っている。
ポットの上に、ベージュの小さなお皿が載っている。
お皿の中から花の香りが立ち上っている。アロマ・ポットかな。
ユリは、恵子さんを連れてきた。
ユリは、思ったよりも恵子さんが元気なのが不思議だった。
クラスでお昼休みに友人と話している姿には、恋人を亡くしたとは、ユリには見えなかった。恋人を亡くしたのが三か月前なら、もっと『悲しい』という雰囲気とか、『つらそう』という表情とか、あると思っていた。
「こんにちは。恵子さん。わたし、花守優華といいます」
「こんにちは。優華お姉様」
ちょっと無表情だけ……かしら。そう思ってから、否定した。違う、とユリは思った。拒んでいるという感じがした。優華お姉様と会うことを、恵子さんは拒んでいる。
「恵子さんは、お茶会のゲストですから、一緒にお茶を飲みながら、お話をいたしましょう。どうぞ、テーブルについてください」
優華お姉様が、向かい側にまわると、席を引いて案内した。
恵子さんが腰掛けた。
カップに温かな赤いハイビスカスのお茶が満たされていく。
透明なグラスのティーカップにソーサーが添えられている。銀のティースプーンが光って、お茶の色を弾いて、ルビーレッドに染まっている。
優華お姉様が、ハイビスカスのお茶を笑顔とともに差し出した。
「今日は、ハイビスカスのお茶なの。ビタミンCとカリウムが豊富なのよ。お肌に良くて、疲れにも効果があるといわれているの。ちょっと酸っぱいかもしれないけど……、どうしても飲みなれないなら、はちみつを用意したわ。これを使ってね」
優華お姉様がテーブルの上の籠を差し出した。
小さなピルケースに、タブレットのはちみつが入っていた。
「さて、恵子さん。ちょっとお手伝いしてほしいの」
テーブル下からダンボールを持ち上げると、恵子さんの前に置いた。
「写真を整理したいのよ」
優華お姉様が箱を開く。中のものを取り出して彼女の前に並べて行く。
「どんどん出していくから、古い順番に並べてください。よろしくて?」
「あ、は…い」
びっくりして、慌てて手元の写真を持ち上げた。
今年の入学式。春の郊外学習。遠足。文化祭、運動会、部活動、校内の廊下、通学路、学校の毎日がつぎつぎに写真に現れていく。
「500枚ぐらいあるわよ。お茶を飲みながら、ご覧ください。そしてアルバムにしたいので、時間ごとにならべてほしいの。分かるかしら?」
優華お姉様が彼女の隣に腰掛け直すと声をかけた。
「は、はい」
あわてて、一枚の写真を手に取った。
「それは何時の写真かしら」
恵子さんの手元を覗くように話しかける。
「これは…、5月、遠足の時の写真だと、思います」
「どこ。どこで、そう思うの」
「ここ、私が写っていて。この写真のバック。その時に買ったものですから……」
「はい、5月なのね。では、この袋に入れておきましょう」
優華お姉様が、手元の袋に5月と書いて、写真を入れた。
ユリは、手元の写真を一枚、持ち上げて、覗いた。
写真には、夏の合宿のシーンが写っている。
真ん中に、恵子さんと……、その人が写っている。
ユリは、顔を上げて、優華お姉様と恵子さんと、見た。
「この写真は……、文化祭の時で……」
恵子さんが言いかけた。
そして、写真をもう一枚、もう一枚と手に取った。
恵子さんが写真の中を見比べていた。
やがて、優華お姉様に小さな声でつぶやいた。
「ひどい、お姉様……」
「何がひどいの」
「この写真、みんな、みんな、私の……」
「そうよ。みんな、あなたの写真。そして、ほとんどの写真に亡くなった彼も写っているわ。元気がないと、あなたのために、学園のみんなが集めてくれたものなの」
優華お姉様が、一枚の写真を取り上げた。
「この写真はクラスのお友達ね」
優華お姉様が、別の一枚を取り上げる。
「この写真は、たぶん、先生ね」
また違う一枚を、優華お姉様が持ち上げて、恵子さんに見せた。
「この写真は、すごいのよ。警備員の方が、学園内警備用のカメラ・データから取り出した写真。恵子さんと彼との帰り道の姿だわ」
恵子さんが、写真を手に持ったまま、目を閉じている。
その隣で、静かに語りかけるように、優華お姉様がつぶやく。
「どれも、みんな、あなたの一年間」
優華お姉様が、また別の一枚を取り上げる。
「この写真の頃かしら、彼と出会ったの……。ほら、頬赤くして、彼を見上げている。これが恵子さんで……」
恵子さんが、手に持っていた写真を、テーブルに投げた。
そして、叫んだ。
「もう……、忘れるんです。忘れたい。すべて、いやなんです」
「なぜ、あなた、彼が嫌いなったのかしら」
恵子さんが、首を横に振る。
「こんなこと……、ダメなんです。嫌なの……」
「この写真は、嘘だったとでも言うのかしら。いま、ここに彼がいても、いえるの?」
恵子さんが、首を横に振る。
優華お姉様が、恵子さんの肩に手を廻す。
「あなたが笑って、彼も笑っている。写真の中の二人は輝いているわ」
「もう……、消してしまいたい。私は……消えたい」
「この輝きは消えない。いま、あなたが消えてしまっても。消せるものではないのよ。なぜ、嫌い? なぜ、消したいの?」
「嫌なものは、イヤなんです。消してしまいたいんです」
「恵子さん、あなたが消したいのは、あなた自身ではないかしら」
優華お姉様の語気が強くなってきた。「どんな人生が、あなたと彼の愛を切り裂いたの。あなたから始まったのでしょう。この写真の輝きは偽者? もう、彼は嫌い?」
「違う、違います」
恵子さんが泣き出した。
「恵子さん、あなたが消えて、幕を下ろすのは勝手。でも、彼は、あなたに暴力をふるった犯人のままになるの。あなたが消えた後で、この写真を見るたびに、誰もが思うわ。この男は、ひどい人だった。これも、これも、これも、これも。どれも、みんな泥まみれ?」
「彼は、悪くない……私が……」
「私が……どうしたの」優華お姉様が、言葉を続けた。
「言いなさい。恵子さん、あなた、何かを持っていたのでしょう。その何かを見つけた彼は、あなたを怒った。そして彼はその何かを持って出て行った。その姿を見たお母さんに思わずついた嘘。それが始まりだったのでしょう」
お姉様がもう一つの箱を持ち上げると、箱の扉を開いた。