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君の心はタンジェント

作者: 一花香苗

 俺もどうかしていたのかも知れない。

 神谷は俺のことを、『昔からちっとも変わらない頑固者』と見ているようだが、決してそうでもないらしいことが最近になって分かったような気がする。

 俺はあいつの人生にちょっとは関わって、登場することと信じているが、俺の人生はあいつ無しでも全く変わらない状態で成立すると思っていた。でも実際は、やっぱり俺はあいつに影響されていたんだなと感じる。他人に興味のない俺があんな行動に出たのは、やはりそれが理由だったと思うからだ。



 私立の理工学部にストレートで入学した俺。興味に対する欲求の解消のためだけに選んだ。『夢はでっかく』が俺のモットーで、それ故に世界征服が最終目標だ。そこまでの道は険しく長い。

 とはいえ、全部が本気というわけではない。

 俺が世界征服の道を選んだのは、それだけでかい夢までの間には何かしらの様々な分岐があると思ったからで、その間の何かしらになって落ち着ければいいと言う、かなり消極的な考えから起こったものである。それを知っているのは、身近にいた神谷くらいのものだ。

 小学校、否、幼稚園あたり、物心が付いたあたりから大概一緒にいたあいつ。大学は神谷が一浪して国立に進んだので、最近は全く顔を合わせていない。最後に会ったのは、成人式か。その時は向こうが声を掛けてこなかったから素通りしてしまったのだったか。用事があって俺はさっさと帰ったが、楽しそうにしているあいつを見て、ちょっと安心したのを覚えている。

 ――何をしているんかな。

 今は十月。一年近く顔を見ていないことになる。まともに会話したのが去年の春だったことを思い出す。大学でちょっと思うところがあって、神谷を呼び出したんだったな。あいつのアドヴァイスのおかげで少しは元気になった俺。ちゃんと大学を卒業する気になれたのはあいつが話し相手になってくれたからだ。

 ――そういえば、あのときの礼はしていなかったっけ。向こうも忘れているだろうけど。

 昔ならそんなことを思いつくことさえなかったが、今は普通に考えられる。少しは大人になったということか。

 小悪魔的な気持ちが働いて、持っていたケータイを片手にあいつの名前を検索する。今の時刻は零時を回ったところ。おそらく家にはいるだろう。俺はベッドに横になった体勢で、電話を掛けた。

 短いコール音。神谷が出る。

「おい……皆月。用があるならメールにしてくれって頼んだだろーが」

 テンションの低い声。眠っていたと言うより、修羅場のような雰囲気がある。

「……ってか、電話をするのは初めてだぞ。元気か?」

 こちらは陽気に問い掛ける。修羅場ならあおってやるのも面白い。俺のストレス発散材となって貰おうか。

「それどころじゃねぇ! こっちはレポートで手一杯なんだよ! 何で明日の一限に提出なんだ!? 鬼だろ! あの教授はぁ!」

 絶叫に近い様子で向こうの声が鼓膜を振動させる。

 なるほど。同じ理工系の学科。実験のレポが大変なことは痛い程良く分かる。

 ――よし。

 元気そうなので、彼を解放してやることに決めた。実に珍しいことだ。

「おう。それは悪かった。もう邪魔はしないから、頑張るがよいぞ。そういう無茶は今の若いうちにしかできんからな」

 うんうんと頷いて、と言ってもテレビ電話ではないので相手には見えないのだが、ぽちっと電源を切る。

 とたんに静かになる。遠くの方で、終電が通過する音が聞こえる。外が静まっていないとそんな音は聞こえないのだが、今日は隣の家のガキも眠ってしまったらしく、ガンガンに響くステレオの音がなかった。

 ――なんて静かなんだ。

 本当に外の世界が存在するのだろうか――時々、そんな妙なことを考える。

 世界は俺の五感の働くところまでで、その先には何もないのではないか。

 思わされているだけで、何も存在していないのではないか。

 俺という意識を持っているものがあるだけで、そこに機械がプログラムに従って信号を送っているのではないか。俺だと思っているものに、規則正しくパルスが流れている……そんな感じで。

 体の向きを変える。

 ――そろそろ寝るか。あいつはまだ起きているだろうけど。

 ケータイを教科書や参考書で山が形成されている学習机の上に放り投げる。ごつっと鈍い音と同時に、バイブレーションが入った。俺は『故障』の文字が一瞬過ぎって、ベッドから這い出してケータイを取る。電話だ。

「はーい。もしもし」

 思わず顔がにやける。まんまと罠に掛かったらしい。明るい声で俺は電話に出た。

「てめぇのせいで、レポが先に進まんじゃねーか! 滅多にしないことするなよなぁっ!」

 音量最大の声。思わず受話器を遠ざける。

「はっはっはっ。また掛けてくれるものと思ったよ」

 あいつの行動パターンは手に取るように分かる。長い付き合いというのも捨てたもんじゃない。

 ベッドに座り直して、俺は話を進めることにする。

「――実はさ、俺、友達を通り越してカノジョができたんだわ」

 さらりと言う。それが今回の本題だ。

「それはおめでとう」

 大して驚きもせず――否、何かが詰まった様子の、言いたいことがどうもまとまらない感じの声が受話器越しから伝わってきた。

「……はぁっ!?」

 再び大音量。スピーカー通話でなくても、外に聞こえていそうな声だ。

「なんでそうなるわけ?! だって、そっちもこっちと同じで女の子いないって言ってたじゃねーか!? お前が合コンなんてやるはずないし、どうしてそういうことになるんだ?!」

 向こうの混乱が目に浮かぶ。こういう発言も面白いと思ったが、これは全くの冗談じゃなくて本当の話だ。確かに、カノジョと呼べる存在がいる。こっちの一方的な思い違いとか、向こうが勝手に言っているとかそういうのじゃなく、ちゃんと意思疎通できる相手。

「ま、聞きたいと言っても、聞きたくないと言っても、俺が説明するから電波の入りの良いところに立つことをすすめるな」

「……おう」

 少し落ち着きを取り戻した様子で、ごそごそと何かやっている。

「いいぞ」

 向こうがスタンバイオーケーのようなので、先週、自分の身に起こったあり得ない行動のことを話し始めた。


 * * *


 先週。体育の日がハッピーマンデー法なんていう、俺にはありがた迷惑な法律によって第二月曜になったおかげで、その翌日の火曜日は少々鬱が入っていた。

 三年にもなれば、俺みたいに普通に学校に来て、普通に提出物出して、普通よりちょこっと要領よく試験に臨めば単位なんざ面白いぐらいにとれるもので、この頃はあまり授業に出なくても良いはずなのだが、如何せん、必修がこの日に中途半端な二限からあるため、出席をとる以上出てこなくてはならない。出席をとらなくてもきちんと出る俺ではあったが。



 真面目に授業に顔を出すのは俺だけではない。片手で数えられるくらいしかすべての授業に出席している人間はいないが、その中に気になる奴がいた。

 名前順でたまたま学籍番号が次になっている女の子、峰島。

 いかにも理工にいそうなタイプの子で、眼鏡を掛けていて地味。化粧に興味がないらしく、ほとんどすっぴんに近い彼女は、ちゃんと今どきらしい格好をさせればそこそこ可愛いといった感じがする。実のところ、この学科には女の子は一割もいないのだが、どの子も平均以上の容姿は持っていると俺的には思っている。ただ、それぞれ趣味が個性的でちょっと遠慮したくなる雰囲気があるのが問題なのだ。

 そんな女子達の中で、一番話をしたことがあるのが峰島だった。

 一年の時はグループで活動したり、席が学籍番号で決められていたりと彼女の傍にいることが多く、そんな中で会話――と言ってもほとんど事務的なもの――をよくした。レポートのためのデータの都合で互いのケータイの番号やメアドも交換していた。行事関係でも連絡を取ったりしたが、ほとんど事務的。メールにしても、電話にしても、彼女は機械的な、良く言っても事務的な感じにしか反応しなかった。

 そんな彼女のことを、真面目なんだな、と思っていた。俺は二年次あたりから授業がどうでもよくなって、出席しても眠っているなんて事がしばしばだったが、彼女は全くそんな様子はなく、常に真剣な様子で、時には欠伸をしながら一生懸命に、訳のわからん、要領を得ない黒板をノートに写し取っていた。

 今になって考えれば、俺がこんなに他人を観察していることはない。授業担任を観察することはあっても、同じ立場にいる人間を見ていることなどなかった俺なのだ。でもそれが、彼女の異変をすぐに感じ取れた要因だった。

 観察も三年目に入るとさすがに彼女のパターンが見えてくる。幼なじみほどではないにしろ、人間の行動パターンなんて割とすぐに見えてくるものだ。それが、意図的に作られたものならなおさら。

 峰島には気分のムラがある。それがある周期性を持っているのは一年間見ているだけでも気が付く。それはまぁ、女性特有のものなのかも知れない。でも、それが結構顕著に現れる。ずっと見ていなければそこまで気付かない範囲での顕著さ。

 彼女はオートマチックで仮面が切り替わる。外の顔に切り替わる。落ち着いた、少し知的な女の子の顔。彼女はそれに気付いていないのかも知れない。何しろ自然に切り替わるのだから。

 はじめの頃はその外の顔の彼女を俺は見ていた。二年次に少し距離を置いたときに、本当の顔を見た。その表情がある周期をもって変化を繰り返している。三年の前期まではまだそれでも落ち着いたものだった。

 ハイとローの繰り返し。

 彼女は相当滅入っているみたいだった。そんなんになるくらいなら、大学のカウンセリングルームにでも行ったらいいのに、と思って見ていたが、彼女にも事情があるのだろう。親しそうにしている女子にも決して本当の顔を見せることはなかった。まさか俺がそれを見抜いているとは気付いていまい。峰島はあまり周りに気が向かない性格のようだし。

 三年次の後期。九月の末に始まった後半戦。峰島の様子が明らかにおかしかった。やる気のない表情、と言うより、覇気がない。授業中もうとうとしているし、外の仮面まで不調な様子。本当の顔は、見るにはちょっとたえられそうにない酷いもの。まるで死人みたいに見えた。

 かなりのローの様子。

 それでも、一日の中でさえ感情は変化する。朝はローでも午後にはハイ。朝はハイでも、次にはロー。切り替わり、どんどん切り替わる。それが彼女にも分かるらしく、疲れ切っていた。十中八九、その躁鬱症状の所為だ。

 俺はあまりにもその症状が酷に見えたので、何かしてやりたくなった。このままでは、せっかく一生懸命授業に出てこようとしているのに、それができなくなってしまう。峰島が、大学を何とも思わず登校していない他の学生と同じに扱われてしまう未来を、俺は許せなかった。

 何か良い案はないか。

 こういうときに手を差しのべることができてこそ、世界征服への道は縮まるはず、と俺は真剣に勉強以外のことを一晩考えた。あり得ないことだ。おかげで十月だというのに台風まで直撃してきたわけだが。



 そして迎えた火曜日の二限目の話に戻る。

 峰島はちゃんと教室にいた。俺よりも教室に着くのは早い。他、数人の学生がいる。それぞれ少人数のグループになって、他愛ない会話をしている。峰島は一人、いつも決まって座っている席で突っ伏していた。後期になってからよく見かける光景だ。

 俺はケータイを開いて、峰島の名前を探す。メール画面を開いて、慣れた親指さばきで考えてきた文章を入力していく。予め作ってきていても良かったのだが、本人を見ながらの方がいいような気がしてあえてそうしなかったのだ。

 あっという間に出来上がった数行のメッセージ。これを見て、少しでも笑ってくれればいいのだが、そこまでいかなくても気持ちがちょっとでも回復できればいいと思う。心配している人間がいることを、少し遠くから見ている人間がいることを――俺の存在を、ただ知って欲しい。このメールが、事態を悪化させないことだけを祈って送信する。

 数秒後。峰島が怠そうに起き上がり、ケータイを掴む。眼鏡の位置を直し、画面を見る。

 俺は入口に近い後ろの座席に座って、教壇から二列分ほど左にずれた席にいる峰島をさりげなく見つめる。

 ――どんな反応をするだろう。

 珍しく、俺は不安な気持ちになった。この気持ちはどこから来るものなのだろう。俺自身もテンションは低めになっていたが、果たして彼女は。

 峰島はケータイを握ったままきょろきょろとした。そしてこっちの視線と一致する。

 彼女の目は睨んでいた。

 ――こ、怖ぇーっ!?

 背筋が凍った。基本的に物怖じしない俺なのに。

 峰島は一瞥しただけで前に向き直り、ケータイの画面にもう一度視線を向けた後、それをバッグの中に押し込んだ。

 教官が黒板の前に立つ。そろそろ授業が開始される。

 俺はまだ凍りついていた。あの顔は、怒っているというか、何というか、明らかに好意的ではない方向の顔だ。寝起きだったから、と言うことを引いても、あれはさすがに恐ろしい。こんなに他人に怯えたのは初めてだ。世界征服の前に、この障害をどうにかして乗り越える必要がありそうだ。

 俺はこの授業の担当教官には悪いが、真剣に彼女をどうにかすることをずっと考えていた。如何に解決するか、これは難問だ。現代のエネルギー問題に匹敵すると俺は思ってしまったが、今となっては笑い話にしかならない。

 悪い方向に進んでいるかに見えた事態は、意外にも解決に向かって大きく前進していたのである。



 今日の授業は三限で終わりだ。四限の授業は再履修の連中が外せないものであり、コンスタントに単位を取っている俺には無縁だ。

 さっさと荷物を片付け終えると、新たなる作戦の準備に取りかかるために教室を出る。

 と、そこには峰島が立っていた。別に俺を待っていたわけではない。出入口そばに陣取っている俺の席から廊下に出れば、そこがエレベーター前であるというそれだけのことだ。

 彼女は冷たい視線でちらりと俺を見た後、開いたエレベーターの中を見る。休み時間に入ったばかりで混んでいそうなところだが、運良く誰もいない。彼女は静かに乗り込む。他に乗りそうな人間はいない。半数以上がこの教室で行われる再履修授業に引っ掛かっているかららしい。

「乗らないんですか?」

 静かに、トーンを落とした声で峰島が問う。俺を待っていたらしい。あまり気乗りがしなかったが、彼女がせっかく開けて待っていてくれたので乗り込むことにする。

 ドアが閉まる。力が普段とは反対に働く。

 不意に彼女が口を開いた。

「さきほどは、どうも」

 ぼそぼそと、独り言のように呟く台詞。それはどうもお礼らしい。何のことかさっぱり分からない。

 俺は返答に困って黙る。

「『君の心はタンジェント』……なかなか面白かったです」

 たんたんと峰島は言う。運がいいのか悪いのか、二人きりの空間はまだ継続している。

「……怒ったのかと思った」

 俺は短く、それだけを言う。

 峰島は階の書かれたボタンの方を向いたままで、こちらをちっとも見ない。俺も気まずくて、ずっと現在の階を示す表示板ばかりを見ている。もうすぐ一階だ。

「いえ。そんなことは」

 ドアが開く。外にはたくさんの男どもが立っている。俺は峰島より先に下りる。入りきれるかどうか分からない人数をあの狭い空間に押し込めると、ドアは閉まって目的の階へと上下運動を再開させる。

 背の低い峰島の存在を認めたのは乗り込み終えて人がいなくなった後だ。さすがに女子はちまっこい。

「これから帰りですか?」

 峰島は無表情に、事務的な言い方で問う。仮面をつけている状態。自動化された変化はいつも見事だ。

「あぁ、そうだけど」

 具体的には、目の前の彼女にいかに革命をもたらすか、策を練る予定だが。彼女はつゆにも思うまい。

「バイトですか?」

 俺は首を横に振る。

「私もこれで帰りなんですが、ちょっと付き合ってくれませんか? 用事があるなら、別ですが」

 おや、と思った。俺は自分から誘うことはないが、誘われれば別段用事がなければついていくタイプだ。彼女の誘いなら、断る理由はない。

「暇だからいいよ」

 と、答えたのはある意味で致命的だった。



 都内にある大学密集地域には、ゲームセンターやらカラオケやら、そういった娯楽に関する施設は見えるところならどこにでもある。商売だから、目に付かなくては意味がない。

 横に並ぶのではなく、峰島は俺の少し前を歩いて誘導する。

 ――このまま人混みに紛れたら、俺は彼女を見つけられるだろうか。その前に、ストーカーにみたいになってないか?

 急激に寒くなり始めた十月の街を、俺は薄い上着のポケットに両手を突っ込んで歩いた。秋を通り越して冬が来たみたいで、服装もみんな暖かそうだ。峰島も彼らと同様に暖かそうな格好をしている。

「皆月君」

 峰島が不意に足を止めた。俺もそのそばに合わせて停止する。

「なに?」

「私って、おかしいですか?」

 人の波は止まることを知らない。みんな思い思いの方向に動いているのに、それでもどこかに規則性を見出せる。それはマクロな視点によるものだからだろうか。ミクロで見れば、振る舞いは違うのか。突然消えてなくなったりするのか。

「何が基準?」

 俺は問いを問いで返す。

 峰島はこちらを見ない。自分の足下をじっと見つめている。

「社会です」

 彼女はきっぱりと言う。

「社会なんて常に変化する。そんなものを基準にしたところで、どうにもならない」

 俺もきっぱり言って、さらに否定する。

「でも、世の中見ているものは社会で、それを基準にして物差しを作っている。違いますか?」

 少し感情的な言い方で峰島は問う。

「基準にすべきは、自分自身だ。他人とか、そう言うものじゃない。自分が見て、聞いて、考え出した基準だ。それを元にして物事を決めなきゃいけない」

「間違った基準を持っていたら? それは取り返しのつかないことになる」

「そうかな? 結局は、自分自身で決めなきゃいけない。他人にとやかく言われようと、自分は自分の視点であるべきだ。他人の気持ちを分かるためには他人の視点に立たねばならないって言っても、本当にそいつの視点になれるか? そいつの人生すべてをかけてその基準、その視点ができたんだ。それらをすべてトレースするのは不可能なことだ。――例外として、マスコミはどんな型にでもはまるような基準や視点を提示するがな、あんなのに惑わされるのは恥ずかしいことだと俺は思うね」

 峰島が反論できぬよう、捲し立てるように言い放つ。

 俺が日頃考えていることだ。幼なじみのあいつの前以外には語らない持論。彼女が求めるなら、隠しているわけじゃないので話しても良い。いや、むしろ聞いて欲しいくらいだ。

 峰島はこちらを向いた。泣き出しそうな顔でこちらを睨んでいる。結構迫力がある。

 俺はたじろいだ。泣かれたらそれなりに困るし、逆切れされてもそれは厄介だ。

「あなたは、ご自分の基準をお持ちのようですね。羨ましいです」

 きつい口調で言う。

「……本題からそれるけどさ、もうちょっと自然にいかない? それが原因の一つになっているのは明らかだろう? その仮面」

 困った顔を意図的に作って、俺は指摘する。ここで仮面を剥がしたら、彼女はきっと泣くのだろう。そんな気がする。

「……!」

 峰島は一瞬顔をこわばらせた。視線を一度外し、思わずそうしてしまった自分に気付いたのか、再びこちらに目を向ける。

「もっと、自分に素直であるべきだと、俺は思うけど」

「私の何が分かるって言うんですか? 言うのは簡単ですよね。私が知らないと思っていたんですか?」

 興奮するような激しい口調。それでも端から見れば口論とはとらえられまい。

「確かに。言うのは簡単だ、知らなければなおさら。でも、俺が知らないのは、俺が聞かなかったからだけじゃない。君が語ろうとしなかったところにもある。自分のことを棚に上げるつもりかい?」

 敢えて優しい口調で、諭すように言う。

 俺に対し、こういう説教をし出す人間がいたら、きっと問答無用で殴りかかるだろう。俺は理論派を気取ってはいるが、実のところ実力行使派だ。たいていのものは、力でねじ伏せてきた。そんな不名誉な実績がある。最近はおとなしくしているが。

 峰島は唇を噛んだ。反論できないらしい。

「聞いて欲しいなら、何でも聞くよ。コメントが欲しければ相談してくれて構わない。それで君に笑顔が戻るなら」

 言いながら、なんて気障な台詞だ、と自分に毒づき、峰島の態度を窺う。

 彼女は少し晴れやかな表情になった。でも、決して微笑んだりはしない。睨むのを止めて、むすっとした感じ。もうちょっと笑ってくれれば可愛いんだろうがなぁ、と思ったのは、こっちの勝手なイメージを押し付けることになるのですぐに忘れる。

「よくそんな台詞を素で言えますね」

「これでも演技派だから、俺」

 苦笑して答える。峰島のツッコミは、自分で反省していただけに追い打ちを掛ける形となって大きなダメージを精神に直接叩き込んだ。

「……変わっているって言われません?」

 峰島が苦笑する。どうやら俺が勝ったらしい。ダメージを受けただけはある。

「まともだと言われたことが一度もない」

「でしょうね」

 間髪入れずに峰島が肯定する。

 ――なんだ、この展開。

 じわじわと精神を攻撃されているような気がする。終いにはとどめを刺されるのではないか。俺が勝ったゲームのはずなのに。こんなに胸がちくちく刺されるような痛みを感じたのは初めてだ。

「……少しはすっきりしました。もう結構です。このまま電車に乗りますから」

 気付かなかったが、ここは駅の入口。店と店の間に作られた、地下鉄のホームに続く場所なのだ。誘導されながら、帰り道を送らされていたというわけ。なかなか彼女も芸がこんでいる。頭の回転数は俺と同じくらいか。

「わかった。くれぐれも気を付けて帰ってくれよ」

「ええ。また明日」

 峰島は軽く手を振ると、そのまま地下に下りていく。

 残された俺はしばらくそこで見送り、くるりと向きを変えて歩き出す。自宅に向けて。

 その道の途中で、彼女からメールが届いた。文面はこうだ。


『君の心はタンジェント

 ハイの無限大にあったと思えば

 次はローの無限大

 何度も何度も繰り返す

 そこに何かが掛け合わされれば

 少しは変化があるかも知れない』


 そこまでは俺が送った文面のままだ。

 さらにコメントは続く。


『私の心はタンジェント

 ハイの無限から

 急にローの無限へジャンプする

 あなたは私の漸近線

 近くまで来ても触れることはできない』


 そこでメールは終わる。

 俺はメールの返信フォームを開く。


『俺は君の漸近線

 何度も何度も君は近付く

 いつかその手が届くまで』


 高速打ちがこれほど役に立ったことはない。すぐに送信、そして受信。


『あなたは私の漸近線

 もう こんなに近くにいるわ』


 電話が鳴る。俺はすぐに出た。

「皆月君?」

「なに? 峰島さん」

 かなり吃驚したが、冷静を装う。ひょっとしたら、俺の方が彼女よりも手強い仮面遣いかも知れない。

「ありがとう。それだけを伝えたくて。皆月君の前だけなら、ちょっとは自然に振る舞えるかも知れない。練習に、私たち、付き合ってみませんか?」

 電話越しの突然の告白。実に彼女らしい。駅のホームでの電車待ちの一コマ。向こうもそんな感じだ。

「俺で良いの?」

 わざとらしく言う。この返事は了解を示すものだ。

「あなたじゃなければダメです。もう、断れませんからね。断ったら、飛び降ります」

 最後の台詞は声を低め、ぼそりと呟く。

 人はそれを脅迫と呼ぶ。

「コラ待て、付き合うから止めろ!」

 電車の到着する音。向こうも、こちらもほとんど同じタイミング。

「冗談ですよー。誤って皆月君、落っこちていませんよね?」

 彼女にしては明るめの口調で、控えめにくすくす笑う声が響く。

「…………落ちた。確実に精神は落ちたぞ」

 心拍数が上がっている。今までこんなに動揺したことはない。今まで、本当に一度も。

「肉体が落ちてなければ、物理ダメージは入らないので大丈夫です。――じゃ、健闘を祈ります」

 ツーと電話は切れる。電車に乗り込むに伴い、通話を切ったらしい。

 俺もケータイをポケットにしまう。

 もう一回くらい電話があるんじゃないかと警戒したが、実際はなくて、それきり電話は静かだった。

 ――さて、どうしたものか。

 俺はまともな人付き合いをしたことがない。一匹狼を気取っていると言えば何となく格好が付くが、ただ協調性がないだけ。他人と喋っていても全く面白いとも思えなかったし、共通の話題を探す作業が億劫で、だいたい他人に興味がないわけだから、無理にする会話は意味がない。事務的な会話は的確にこなすことができたが、それがどうした。

 原因は分かっている。俺が喋ると、つい持論が出てきて他人の興味を失わせるのだ。原因が分かっていても、それの解決案が全くない以上、直しようがない。

 対処法は、他人の会話の中では何も喋らない、もしくは人との関係を絶ってしまうことだ。

 それが今の俺の環境。俺の話に耳を傾けてくれる奇特な人間のみが周りに残った。例えば、幼なじみの神谷、とか。

 ――俺が、女の子と付き合う……とはな。

 汗が頬を伝う。世の中は寒いはずなので、これは精神的なものからくる汗だろう。

 ――一体やっていけるのだろうか? しばらくは聴き手となって、彼女のカウンセリングらしきことをすればよいのだろうが……。難しく考えるからいけないのか。

 そんなことを考えていたら頭の中がいっぱいになってオーバーヒートしたらしい。最近の寒さと相まって一晩中熱でうなされる羽目となった。

 翌日は見事大雨だった。


 * * *


 受話器越しに神谷が小さくうなった。

「……なんか怖くないか? その子」

「はっきり言って、俺もそう思う」

 あっさりと俺は肯定する。三十分かけて事の馴初めを話し終えたところだ。

「でもまあ、お前もいろいろ思いつくものだな。感心するよ」

「もう少し気の利いた言葉を言えるようになりたいと初めて思ったが」

「つっか、気の利いた台詞が言えるようになったら、それはもうお前じゃないだろ」

 笑いながら神谷はツッコミを入れる。全くその通りだ。

「……本当に珍しいな。お前が関心を持っている人間がいるとは」

 そう続けて、笑うのを止めた。

「それなりの心境の変化があったらしい」

 さばさばと俺が答える。あいつの指摘は俺が思っていることを的確に代弁している。

「電話をかけてくるとは思わなかったからなぁ、登録したときは。そんなに話を聞いて欲しかったわけ? 僕の邪魔をしてでも」

「かもしれないな」

「お? 正直だな」

 意外そうな返事が聞こえる。

「最近俺も変かもしれない。なんか、さ。俺が俺じゃないみたいだ」

 歯切れの悪い様子で俺は答える。ベッドに横になって眺めた天井では小さな蜘蛛が仕事をしていた。

「恋をしているから、じゃないのか?」

 からかいではなく、真面目にあいつは言い切った。

「恋をしたことがないから、見当もつかないな。でも、世界の見方が変わったのは事実だな」

「それが恋ってもんだ」

 優しく、諭すように言う。

「恋、ねぇ……」

「しみじみと繰り返すなよ。腹立つから」

 むっとした口調。当然の反応であることはさすがに俺でも分かった。

「で、付き合うことになって、なんかあったわけ?」

 うざったそうにあいつは話を促す。

「特に進展は無し」

「それって、付き合っているって言うのか?」

「否、明日彼女の家に行くことになった」

「……はぁっ!?」

 相手の言動が分かっていたので予めケータイを離しておいたのは正解だった。大音量が鼓膜を震わせる。

「で、いろいろと困ったことが……」

「勝手にすれば? 結果報告は聞くから」

 呆れた様子であいつは言う。

「峰島の意図がわからん。な、神谷もちょっと一緒に考えてくれよ」

「その前に、僕のレポートを手伝え」

 あいつは現実に頭が切り替わったらしい。俺は溜息をつく。

「何のレポ?」

「相転移。金属が相転移する様子を計測する実験」

「何に手間どってんだ?」

「データの打ち込み」

「そんなの自分でどうにかしろ」

「じゃ、僕もそのまま返すよ。そろそろレポに戻るわ。健闘を祈る」

 神谷は電話を切った。こちらから掛け直したが、すでに電源は切られていた。

 ――自分でどうにかしろ、か。

 神谷が『データの打ち込みだ』と嘘をついたのはすぐに分かった。ここまで付き合ってくれただけでもう充分だ。後のことは俺が俺なりにクリアしなくてはいけない課題なのだ。

 エネルギーを外から与えられてエネルギー準位が上がったのか、やはりどこか俺はおかしい。『相転移』。なかなかそれは俺の状態を表しているように感じられる。

 天井の蜘蛛の様子をしばらく観察した後、俺は蛍光灯を消した。


 * * *


 慣れないことをするものではない。翌日の水曜日は朝から雨が降り、さらに台風のおまけ付だった。おかげで午後の授業は実験であったが休講となり、強制下校となった。

「やってられませんね」

 静かに峰島が言った。

「普段と違うことをしようとしたからじゃないか?」

 激しく流れる雲を恨めしそうに眺めながら俺が答える。風もかなり強くなってきた。早く帰るのが一番良さそうだ。

「電車、止まりそうですね」

「風で止まっているところもそろそろありそうだな」

 出入口となっている先で、邪魔にならないように端に立つ俺たち。校舎にはほとんど人は残っていない。遠方から通っている学生はすでに出払った様子だ。

「困りましたね」

「あんまり俺は困らないが」

 滅多に止まることのない路線を乗り継いでいる俺としては問題がない。

「困りましたね」

 無表情に彼女は繰り返す。

「困ったな」

 仕方なく、彼女の言葉を繰り返す。

「天気予報はあてになりません」

「現在の物理学の限界というやつだろう。複雑だからな、この世界を記述するには」

「適当な解を見つけていないだけですよ」

 空を見上げながら彼女は言う。

「物理現象を数学で記述できるのは、人間が無理やりこじつけで当てはめているからだと高校時代まで思っていました。それは、世界がそこまで単純ではないと考えていたからです。現に、例外は幾らでもある」

 峰島は傘をさす。大きな青いアーチが、曇天の代わりに青空を描く。

「でも、不思議ですよね。近似解でも充分な結果を得られる。人間は、神様が作ったプログラムのすべてを解き明かそうとしている。その解を使って正確なシミュレーションを行おうとする。いずれは全部が数式によって置き換わるのではないかと思う。……私たちでさえも」

 僅かに笑んで、彼女はこちらを向いた。

「すべてが0と1で置き代えられるか、か」

 俺も傘をさす。深い藍色は夜空のようだ。

「俺は最小単位が、『ない』か『ある』の二通りだけであるとは思わない。それは、なんか悲しすぎるから」

「客観的じゃない答えですね」

「非常に主観的で、感覚的。論理性に欠ける答えだ。でも、その曖昧さが与える影響は大きいと思う。だいたい、海外のものの考え方は白か黒かの二通りで決めつけようとしすぎる。その点、日本はその間の曖昧さを知っている。科学を発展させるには、それは確かに邪魔かも知れない。でも、やっぱり必要なファクターだと思うんだがな。全部の境界線がはっきりしていたら、つまらないと俺は思うんだけど」

 雨の音と風の音。互いに自己主張をしている。

「私とあなたの境界線は、一体なんでしょうか?」

 不意に彼女は問う。

「さぁ。そんなものは、実際に存在しないんじゃないか?」

「何故ですか? 現にこうして、向かい合っている」

「錯覚だ。境界は、存在しないと思えば存在しないんだ。存在すると思えば、確かに存在する。それは、『自分』の定義によって幾らでも可変であるからだ。その定義は個人によって異なる。さらに、その個人というのも非常に曖昧だ」

 言いながら、次第に混乱をしてくる。俺は一体何を言いたいのだろう。

「……俺は、……俺という人間は何によって定義されているのだろう?」

 いつの間にか、そう自問せざるを得なくなった。

「そうなりますよね。結局は、そこに話が向かう。あなたも見失ってしまいましたね」

 彼女に追い打ちをかけられ、思考が一時的に固まる。珍しいことだ。

「私は、それを知りたいんです。私は世界の一部なのか、それとも完全に独立した存在なのか。私は社会の一部なのか、誰かの一部なのか、従属なのか、依存しているのか、外部機器なのか……。どの答えを得られたとしても、納得できない。それはあなたも同じではないでしょうか?」

 激しい風雨の前には傘はもう役目をなさないかに思える。あるだけ邪魔かも知れない。

 俺は何も答えられない。

「どれに対しても、もう期待できないと思いません?」

「絶望するには、まだ早い」

「そうでしょうか?」

「答えを得るのが怖い。それは……それは誰だってそうだ。一番怖いのは、自分と思っていたものが、誰からも、何からも、必要とされていないと感じること。自分と思っていたものが、自分を見限ってしまうことだ。自分が、自分に対して絶望してしまうことが、何よりもおそれるべき事だ」

 俺は真っ直ぐ彼女の目を見つめる。峰島は僅かに視線を逸らしたが、再びあわせる。戸惑いの色。

「君はすでに俺に多大な影響を与えているのを忘れちゃならない。俺は君に何の効果をももたらすことはできないかも知れない。でも君は、確かに俺を狂わせた。それを棚に上げるのは許さない」

 何を言っているんだろう、俺は。

「……」

 彼女は、始めはきょとんと、そして困惑し、それから仮面をはずし、にっこりと笑った。

「これで、いいですか?」

 初めて見る笑顔。明るい表情。

 峰島の台詞が何を意味しているのか、俺には全く分からなかった。

「皆月君も、不器用ですね。安心できる不器用さだと思っています。それが今の私にはちょうど良いのだとも」

 管理人さんの手によってドアに鍵が掛けられる。いよいよ二人きりだ。そろそろ帰らないと、家に着くまでにはびしょ濡れだろう。

「誰でも、救われたいときが一生のうちにあると思います。誰かと分かち合いたい、誰かと乗り越えていきたい、……それが恋愛ではないでしょうか? 影響の及ぼすことのできる至近距離にまで近付いて、相互作用を起こす、それが望まれているのではないでしょうか? ――いえ、そんな一般論にすることはありませんね。そうやって誤魔化すから、いけないんです。……私は、ただ、そうありたいだけです。あなたに影響を受けたいし、あなたに影響を与えたい。だから私はあなたを選んだ。それは紛れもない事実だと、胸を張って言える。だから私……」

 夜空が地に伏した。

 柔らかい感触。温もり。

「……」

 彼女はおろおろしていた。何が起こったのか、峰島はまだ理解できていないらしい。

 俺も何でそんなことをしたのか分からない。ただ、掛けるべき言葉が浮かばず実力行使に出ただけ、そう説明するのが一番適当に思えた。

「……」

 峰島は唇を押さえると頬を赤くした。視線もどこかを彷徨っている。

「……」

 まだ言葉が浮かばない。行動も浮かばない。回路が熱でショートしたらしい。

 俺も俺の行動が理解できず、恥ずかしさや驚きや、その他諸々でおろおろと挙動不審である。しかし、悪いことをしたとは、何故か思わなかった。こうするのが最良だったと、どういう根拠があるのか考え付かないのに肯定する自分がいる。

「……か……、帰りましょうか?」

 先に提案したのは峰島。

 すでに車の気配も、人間の気配もない。動物たちもどこかに身を隠しているのだろう。動けない草木、人工物は、それが過ぎ去るのをただ耐えながら待たねばならないのだ。

「もう少し、一緒にいないか?」

 そう提案したのは俺。

「でも、電車が止まるといけないから……」

 顔を赤くしたまま、警戒気味に彼女は答える。

「どの路線?」

 彼女は正直に答える。俺はすぐに判断した。

「ならば心配ない。必ず帰れる」

「いや、でも、やっぱり」

「……」

 何を熱くなっているんだろう。冷静な自分が分析する。

「……だな。帰るか」

「じゃあ、始めの予定通りに家に来ます?」

 意外な提案に面食らう。

「帰れる自身があるなら、どうぞ」

 にっこりと笑う。

「否、それは遠慮する」

「……無責任ですね」

「何故そうなる?」

 峰島は少しむっとして、歩き始める。

「でしたら、また駅まで送って下さい」

「そうさせていただきます」

 傘を直して歩き出す。

 さらに強くなる雨と風。俺は彼女をこないだ送り届けた駅まで連れていくと、そこで別れて家路についた。


 * * *


 今年は異常気象に感じられる。それが俺に関係あるのか、全くないのか。

 俺が進路を進学から就職に決め直したその日は、十二月だというのに夏日を記録するというとんでもない日だった。



 十六時を過ぎればもう外は暗くなりはじめている。夏場はこの時間でも昼間と同じくらいだというのに、いつの間にこんなに季節は移ったのだろう。今年は気温からは季節を読みとれないが、空は正確に季節を刻む。夜空も冬の代表的な星座の一つ、オリオン座が浮かんでいるのがはっきりと見える。

「よっ、皆月」

 神谷が改札口を出てくると俺に声を掛けた。

「あぁ悪いな、神谷。そっちも忙しいだろうに、呼び出したりして」

「なんて事はないよ。呼び出すとは珍しいからね。それにたまたま空いていたし。で、話って? 彼女のこと?」

「否、進路のこと」

「そんなの僕に話してどうすんの?」

「ま、参考までに」

 のんびりと歩き出す。街灯の明かり、そして駅前のクリスマスツリーをかたどったイルミネーション。駅前は無駄に明るい。

 しばらく無言だったが、俺は口を開く。

「――俺、就活始めたんだ」

「へぇ、てっきり院に行くんだと思っていたが」

 さして興味もなさげに神谷は相槌を打つ。

「俺も始めはそのつもりだったけど、勉強に興味がなくなったし、まぁいっかなって。親に負担掛けてられないし」

「それは僕にも言えることだけどな」

 苦笑して答える。

「それってつまり、結婚前提で付き合うことにしたってことか?」

 からかいの意味がしっかりと込められている神谷の問い。

「まさか。その気がないって訳じゃないけど、先のことは分からないだろう?」

「まあそうだ。で?」

 話を促される。

「院に行かずとも、俺が知りたいと思っていることは分かるんじゃないかと考えたわけだ」

「お前が知りたいと思っていること? 世界征服の効率的なやり方じゃなくて?」

「あぁ。俺がこの学科を選んだ理由、お前分かってないだろ?」

 馬鹿にするような言い方に、俺は神谷が誤解していることを指摘する。

「たまたま勉強ができたからじゃないの? 何に対しても同じくらいの興味しか示してなかったじゃないか」

 俺は人差し指を立てて横に振る。

「俺はこの世界が一体何なのかが知りたいと思った。だから、客観的に知ることができそうなこの学科を選んだ。でも、答えはもっと近くにあったのだと、今になって気付いた。ただ、それだけの理由」

「近い答えを得られたのか?」

「さあ。まだ吟味中」

「吟味中と言うことは、それらしいものが見つかったってわけか」

「どうだろうね」

 はぐらかす。まだ、確信を得ていないからだ。

「お前、楽しそうだな。羨ましいよ」

 大きな溜息に混じって神谷は言う。おそらく、それは彼の口癖。

「たぶん、気の持ちようだろうよ。俺はポジティブ思考だから」

「言い切れるあたりが憎らしい」

「恨んどけ恨んどけ」

 ケケケと明るく笑う。

「そうさせて貰うよ。腹立つなぁ」

「おおいに腹を立ててくれたまえ。わざとつついてんだから」

「むかつくなぁ、お前」

 台詞には棘はない。昔から言い合ってきたやりとり。いつの間にか習慣になっている。

 そういう付き合い方を俺たちはしてきた。ほとんど変わることなく、これからも続いていくのだろう。それが、俺たちの間のバランスだからだ。微妙な軌道を安定して回っている、そういう関係。付かず離れず、影響を僅かながら与えている位置で。

「……ありがとな」

「ん?」

「なんとかうまくやれそうだ、神谷」

「そっか。……取り敢えず、明日は雨に決定だな」

「かもな」

 笑い合って、俺たちは真っ直ぐ家に帰った。

〈了〉


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