二粒目
空虚なまま年老いてはゆきたくない。何かをしなくちゃ。その圧迫感が僕を支配している。
わかってはいる。けれども、踏み出せないでいる。もどかしさだけがリアルに僕を揺さぶる。けれども、答えがあるわけでもなくて、探すことも努力のうちなのだと気づいてはいる。
自宅から駅まで歩く15分は、変わらない昨日と今日と明日に突きつけられたその事実を思い出すのに十分すぎる時間だった。
無意識のうちに自宅の鍵を閉め、無意識のうちに信号が青に変わった横断歩道を歩く。
終わることのないメビウスの迷路を抜けることに思考のほとんどを傾けながら。
どちらが無意味なのか。考えることか。糧を得るための仕事なのか。
大人という部類に入ってから何百回と繰り返されてきた不毛な思考。
……もう、止めよう。
とお決まりの結論に達した頃には、お決まりの電車の乗車口で名前も仕事も知らないけどお決まりの面子と一緒に並び、電車を待つ。隣に並んでいる女の香水の匂いからして木曜日かと、日付の表示されない腕時計の針を見る。なかなか癖というものは直せない。「おまえは何かに追われているように、時計ばかり見るよな」と言った遊び友達の言葉を思い出した。
本当のところ、クロノグラフのいくつもの針が連動して一つの時間を紡ぎあげる様を見ると落ち着くし、機械式時計のずれていく危うさが気を紛らわすのにちょうどいいだけなのだが、説明するのが面倒くさくて、適当に相づちを打ってその場をしのいでいた。
プラットホームにアナウンスが流れ、潮風で所々錆びた電車が時刻表どおりに駅へと入ってきた。もう既に満杯になった車両のドアが開く。込み合った車内は車窓を曇らせていた。見るだけでもたれそうな圧縮陳列された車内でこれから過ごす30分を考えれば、朝食をカロリーメイトゼリーにしたことは完璧な選択だ。
押し競饅頭の原理で車内へと入る。慣れているとはいえ、決して好きにはなれない。反対側のプラットホームにあるがらがらの下り電車の車内を羨ましく思う。
下り列車を見ながら、叶うことの無いことは忘れてしまおうと自分に言い聞かせる。その前にそんなことを考えなければよかったんだ。忘れてしまいたいという欲求は忘れてしまうに限るから。本当に好きだった彼女に亭主がいることは知っていた。くちづけで共有する二酸化炭素が多めの空気は麻酔ガスみたいにいろんな難しいことを忘れさせてくれた。湿気のあるパフュームの香りは隣の部屋に眠る幼子の寝息も忘れさせてくれた。
そのあとに残る何十倍もの後悔さえなければ今も二人は一緒にいれたのかもしれない。
そんなことも忘れるに限るんだ。
あのがらがらの電車が行く三つ先の駅にそのひとがいることも忘れるに限る。
だって、あの幼子が無邪気に笑う度に幸せみたいな塊は触れたら何もなかったように崩れさっていくんだ。何千年も置き去りにされていた死海写本みたいに。結局、神様のラブレターは最愛の人が生きている間には届かなかった。
僕の気持ちももう届けるつもりはない。
電車のドアが閉まる音がして、ゆっくりと車両同士が小突き合いながら進み出した。僕は暇つぶしにまだ使い込んでいない皮の匂いのする茶色のカバーをした一年かけても読み終わらない薄っぺらい小説を取り出す。面白い本は時間を忘れてしまうから、つまらない本なら生活に支障が起きることは無い。物語より次の駅と時間が気になるのだから。
だけど、世の中は計算したつもりが全然違う方向に行ってしまうこともある。
つまらない本が次のページをめくった瞬間、思い出したかのように息を吹き返して物語が瑞々しくなってきてしまった。
ちゃんとつまらないままでいろよと呟きながら次の展開を気にしている自分がいた。
今までのつまらなさがまるで伏線かのように言葉一つずつが息を吹き返す。読み進めるうちにカツラ之宮のことや仕事のことも記憶の中から消え、夢中になってページをめくった。
やがて本を読み終えたとき、電車の乗客はまばらでアナウンスは次の駅が終点であることを告げていた。
どうやら、一時間くらい乗り過ごしてしまったみたいだ。本を呪いながらも、此処のところ無かった満足感を感じていた。
だけど、今から戻って会社まで行けばかなりの遅刻になりそうだ。
ズラ乃宮が真っ赤になって怒鳴り散らし、奴の髪の毛の生え際がずれるのを必死になって笑いをこらえながら反省する演技をしなければいけないことを考えると余計に重たい気分になった。
どうせなら今日は仕事をさぼってしまおう。明日まとめて怒られればいいや。怒られるうえにあいつのしりぬぐいをしなければいけないことも僕の決断を後押しした。
とりあえずは終点で電車を降りて、駅前の喫茶店にでも入ろうと思い、駅の改札に向かった。