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お見合いを断った人と、毎週土曜日に会っています

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/26

 お見合いを断った翌週、その人が隣で玉ねぎを刻んでいた。


「……安西さん」

「瀬尾さん」


 名前を呼び合ったきり、私たちは黙った。

 先生の声が、調理台の向こうから飛んできた。


「手を止めてくださーい。玉ねぎを切り終わった方から、お肉の下ごしらえに入ります」


 瀬尾さんが包丁を置いた。私も、手に持った卵をボウルの縁から引っ込めた。

 一週間前、ホテルのラウンジで向かい合ったときより、ずっと気まずい。

 あのときは、こんな白いエプロンをしていなかった。彼の胸元には、茶色い犬が食パンをくわえている。


「そのエプロン、前からですか」


 ほかに言うことはなかったのかと、口にしてから思った。

 彼は犬を見下ろした。


「姪が選びました。ほかのを使うと、写真を見て指摘されるので」

「写真、送るんですか」

「作った料理を持って、タイマーで撮るんです。ちゃんと野菜を食べてるか、母より厳しくて」


 笑ってしまった。

 すると彼も少し笑い、小さなボウルを私のほうへ寄せた。


「卵、こっちで溶くと、殻が入っても取れますよ」


 先週は、笑った顔を一度も見なかった気がする。



 瀬尾航平さん、三十四歳。食品メーカー勤務。

 母から送られてきた紹介文には、そう書かれていた。


 叔母の知り合いの息子さん、という、途中で人を二人も挟む話だった。三十二歳の誕生日を迎えたばかりの私は、母に「一度会うだけだから」と押されて頷いた。

 仕事は嫌いじゃない。賃貸の更新料も一人で払える。だから結婚しなくていい、とは思っていなかった。

 ただ、誰と暮らしたいのかは分からなかった。


 瀬尾さんは席について十分もしないうちに、言った。


「最初に、お話ししておかないといけないことがあります」


 結婚歴かと思い、私は紅茶のカップを置いた。


「十二月から松本の工場へ異動します。自分で希望した異動です。東京に戻る予定は、今のところありません」


 窓際の席は、六月の午後の日差しで明るかった。

 彼が言いにくそうにしているのが、かえって気の毒だった。


「お母様から、聞いていませんか」

「長野のご出身とは、聞いていました」

「……すみません。先に伝えてもらうように頼んだんですが」


 あとで母に聞くと、叔母からは「いずれ地元に戻りたいらしい」とだけ伝わっていた。どこで話が変わったかを確かめても、異動の日は変わらない。


「安西さんは、こちらでお仕事を続けたいんですよね」

「はい」


 私は住宅設備の会社で、ショールームの改装を担当している。

 入社して十年。営業から異動を願い出て、ようやく任せてもらえるようになった仕事だった。

 東京近郊の店舗を回り、図面を広げ、施工会社と打ち合わせる。在宅勤務の日はあっても、どこに住んでもできる仕事ではない。


「私、今の部署に来て、まだ二年なんです」

「そうですか」

「やりたい仕事だったので」


 それだけ言うと、彼は頷いた。

 仕事を辞める気はないか、と聞かれることもなかった。私も、松本への通勤が可能か調べるとは言わなかった。


 紅茶を飲み終えて、駅まで歩いた。


「今日は、ありがとうございました」

「こちらこそ。最初からきちんと伝わっていなくて、すみませんでした」


 お互いに、紹介者を通じてお断りした。

 条件が合わなかった。それだけだ。

 感じの悪い人ではなかったな、と思ったのは、翌朝にはもう、ほかの予定に押し流されていた。



 そして七月の第一土曜日。

 閉講になった水曜夜のクラスから、私が土曜午前へ移った。


「平日の生徒さんが減ってしまって」


 先生は申し訳なさそうだったけれど、私は曜日を変えて続けるつもりだった。職場と自宅の往復だけで一週間が終わるのが嫌で、昨年の秋に通い始めた教室だ。休日の予定になるのも悪くない。

 そう思って来たら、瀬尾さんがいた。


「去年から、土曜日です」


 彼は、焼き上がったハンバーグを皿へ移しながら言った。


「自炊、よくされるんですか」

「作ってはいました。ただ、炒め物の味が全部一緒になるので」

「分かります。私、一人暮らしを始めた頃、なんでもめんつゆでした」

「僕は焼き肉のたれです」


 向かいでサラダを盛りつけていた女性が、「あれはおいしいからねえ」と会話に加わった。

 教室は十二人で、三つの調理台を使う。組み合わせは毎回違うらしい。私と彼は、今日はたまたま同じ班になっただけだった。


 できあがったものを試食する頃には、少し落ち着いていた。

 瀬尾さんはハンバーグを切り、断面をじっと見ている。


「生焼け、心配ですか」

「前に家で失敗して。外は焦げてるのに、中が」

「私もあります」

「ありますか」


 彼がほっとした顔をするので、また笑ってしまった。


 帰り道、教室の入ったビルを出たところで、彼が足を止めた。


「これからも、普通にお話ししていただいて、大丈夫ですか」


 意味はすぐに分かった。


「はい。私こそ。毎週お見合いの続きをするわけじゃないですし」

「そうですね」


 彼の肩が下がった。

 私も、その日初めて、息を深く吐いた気がした。



     *



 二週目は別の班だった。

 瀬尾さんの調理台から、派手なくしゃみが聞こえた。隣の人が胡椒を振りすぎたらしい。

 見てはいけない気がして顔を伏せると、彼と目が合った。

 彼は黙って、胡椒の瓶を持ち上げた。


 三週目は、私が忘れた持ち帰り用の容器を、彼が受付まで届けてくれた。

 四週目、教室を出ると土砂降りだった。


「予報、曇りでしたよね」


 ビルの軒先で、私は空を見上げた。

 彼も傘を持っていなかった。二人で駅へ走るには、雨粒が大きすぎた。


「あそこの喫茶店、入りますか」


 道路の向こうを彼が指した。

 看板に、コーヒー四百八十円、とある。


「はい」


 ハンカチを頭に載せて、信号が変わるのを待った。


 店内はよく冷えていた。私はアイスコーヒーを頼みかけて、ホットに変えた。

 瀬尾さんも同じものを頼んだ。

 運ばれてきたおしぼりで腕を拭いていると、彼が椅子の下へ足を引いた。靴の先から、床へ水滴が落ちていた。


「靴まで、びしょ濡れですね」

「走ってるとき、水たまりに入りました」

「それ、私もです」


 二人とも靴を見た。

 見合いの日は、相手の靴を気にする余裕まであった。きれいに磨いてあるな、とか。今の彼の靴には、泥水が跳ねていた。


「私、先週の肉じゃが、家でも作りました」

「どうでした」

「四人分できました」

「レシピ通りだと、そうなりますね」

「三日食べました。最後、ちょっと嫌いになりました」


 彼が声を立てて笑った。


「僕は二日目にカレーにしました」

「ずるい。それ、先に教えてくださいよ」

「連絡先、知りませんから」


 言ってから、彼はカップを持ち直した。

 私はバッグからスマートフォンを出した。


「教室のことも聞けるし。交換しませんか」

「はい」


 画面に出た彼のアイコンは、白い犬だった。

 エプロンと同じ犬種だ、と言うと、姪が飼っている犬だと教えてくれた。


 雨は、二杯目を頼む前に上がった。

 会計を別々に済ませて店を出ると、彼が言った。


「安西さんって、よく笑うんですね」

「瀬尾さんこそ」


 お見合いの日のことを思い出して、どちらからともなく笑った。



     *



 八月に入ると、土曜日の帰りに昼食を取ることが増えた。

 試食だけではお腹が空く、と最初に言い出したのは私だったと思う。

 料理を習ったあとで、駅前の餃子屋に入る。

 彼は定食に餃子を追加した。私はビールを頼んだ。


「昼から飲んでもいいですか」

「もう頼んでますよ」

「一応」

「じゃあ、僕も」


 乾杯はしなかった。

 向かい合って飲んで、餃子が熱すぎて黙って、水を飲んだ。

 そういう昼が楽しかった。


 仕事の話もした。

 私が、改装後の店でお客さんの動きがよくなった話をすると、彼は「それは、どうやって確かめるんですか」と聞いた。

 通路の幅や展示の高さの話までしてしまい、途中で我に返った。


「ごめんなさい。細かい話で」

「いや、さっきの写真、もう一度見せてもらっていいですか。入口の横が変わったんですよね」


 スマートフォンに入っている、公開済みの店舗写真をもう一度見せた。

 彼の指が、画面には触れずに、通路をなぞった。


「ここで立ち止まっても、後ろの人が通れる」

「そう。それなんです」


 私はつい、画面を彼のほうへ押し出した。


 彼の仕事は品質管理だった。

 十二月からは、松本の工場で新しい製造ラインの立ち上げに加わる。

 地元へ帰れるから、だけではなかった。


「工場のほうを、長くやりたかったんです。今は本社で、工場から来る報告を見ることが多くて」

「それで公募に?」

「はい。落ちるつもりで出したので、決まってから驚きました」

「でも、嬉しかった」

「ええ」


 彼が笑ったので、私はその顔をちゃんと見ておいた。


 九月の最初の土曜日、教室のあとで二人で映画を観た。

 誘ったのは彼だった。

 その翌週は、私が、行ってみたかった洋食屋へ誘った。


 昼食のあと、本屋を覗き、近くの公園を歩いた。歩き疲れて入った喫茶店でも、飲み終わったカップを前に、なかなか席を立てなかった。


 レジで会計を済ませている彼の背中を見ながら、もう友達という言い方は無理だ、と思った。

 教室へ行く前の金曜日には、着ていく服を選んでいた。

 彼が休むと分かると、土曜の朝に起きるのが少し面倒になった。

 メッセージの通知に、仕事の手を止めたこともある。


 駅の改札が見えたところで、彼が言った。


「来週、教室は休みですよね」

「先生、旅行でしたね」

「よかったら、会いませんか」


 私は、隣を歩く彼を見た。


「私、瀬尾さんに会いたくて、教室に行ってます」


 彼が立ち止まった。

 私も二歩先で止まった。こんな場所で言うつもりはなかった。後ろから来た人を避けて、二人で壁際へ寄った。


「先生には、申し訳ないですけど」


 続けなくていいことまで口にしてしまった。

 彼は困ったように笑ったあと、息を吸った。


「僕もです」


 それだけでよかったのに、彼はすぐ、もう一度口を開いた。


「でも、十二月には」

「知っています」


 私の声が強くなり、彼が黙った。


「ごめんなさい。忘れてたわけじゃないんです」

「……はい」

「私も、仕事を辞めるつもりはありません」


 駅の時計が、六時を回っていた。

 夕方の人の流れのそばで、彼は頷いた。


「それも、分かってます」

「じゃあ、一度お断りしたときと、何も変わってないですね」


 彼が何か言いかけた。

 私は、今度は遮らずに待った。


「変わりました。あのときは、安西さんと次に会う約束がなくても、平気でした」


 改札を通る人が、途切れずに流れていた。

 私はその人たちを見て、それから彼の顔に視線を戻した。


「私も、来週会いたいです」


 彼が差し出した手を取った。

 指先が触れてから、少し握り直された。

 ようやく付き合えたのに、その場で私は、十二月まではあと三か月なのだと数えていた。



     *



 付き合い始めて、呼び方が変わった。

 瀬尾さんが航平さんになり、私は佳乃さんになった。

 料理教室では変えなかった。照れくさいし、ほかの人に説明するきっかけもなかった。


 十月、私たちは日帰りで松本へ行った。

 航平さんは翌月に借りる部屋を見ておきたいと言い、私は町を歩いてみたいと言った。


 駅前で車を借りると、彼はナビの案内を途中で切った。


「この先は、分かるので」


 東京では電車ばかりだったから、彼の運転する車に乗るのは初めてだった。

 信号待ちで彼がこちらを見た。


「寒くないですか」

「大丈夫です」


 窓の外には、遠くの山が見えた。

 彼は大学を出てからずっと東京にいた。それでも、曲がり角の先にある店を、看板が見える前に教えてくれた。


「あそこのパン屋、まだやってるかな」

「寄ってみます?」


 店は開いていた。

 揚げたパンに砂糖をまぶしたものを、彼は二つ買った。車の中で食べて、シートに砂糖を落とした。


「レンタカーなのに」


 慌てて払う彼に、私はウェットティッシュを渡した。

 彼が笑う。見合いの日にも、教室の初日にも見なかった、気の抜けた笑い方だった。


 彼が内見をしている間、私は近くの通りを歩いた。

 小さなスーパーと、歯医者と、クリーニング店があった。

 観光では気に留めない看板を、ひとつずつ見てしまう。


 ここで暮らすなら。


 考えてから、駅までのバスの時刻を調べるふりをして、スマートフォンを閉じた。


 帰りの特急は満席だった。予約していた席に座ると、朝から歩いた疲れが出た。

 隣で航平さんが、お茶の蓋を開けている。


「部屋、どうでしたか」

「よかったです。たぶん、あそこにします」

「そうですか」


 窓の外が暗くなり、自分の顔が映った。

 私は、自分の膝に目を落とした。


「どうかしました?」


 航平さんに聞かれて、首を振りかけた。

 今、楽しかったねと言ってしまうと、今日思ったことを、次にいつ話せるか分からなかった。


「今日、こっちで暮らす自分を考えました」


 彼のお茶を持つ手が止まった。


「でも、平日のことが、全然浮かばなかったです」


 スーパーに寄って、二人でご飯を作るところまでは想像できた。

 その前の、朝起きてから夕方までが、空白だった。


「私が今の仕事を辞めて来たら、航平さん、嬉しいですか」


 彼は、すぐに答えなかった。

 列車が揺れ、紙袋の中でパンの袋がかすかに鳴った。


「一緒に暮らせるなら、嬉しいです」


 私は頷いた。

 その言葉を待っていたのか、怖がっていたのか、自分でも分からなかった。


「ただ、佳乃さんが仕事を辞めて、あとのことは来てから考えよう、とは言えません」


 彼がペットボトルをテーブルに置いた。


「佳乃さんがこっちへ来る方法ばかり、考えさせてしまってましたか」

「……私が、勝手に」

「僕は引っ越しの話ばかりしてましたね」


 嬉しそうに部屋の写真を見せてくれた顔を思い出した。

 それが嫌だったわけではない。むしろ、一緒に楽しみたかった。


「戻るの、やめてほしいわけじゃないです」

「はい」

「それは、本当に」


 彼は少し前かがみになり、膝の上で両手を組んだ。


「離れて付き合うことは、僕はできると思ってました。でも、いつ会うかも、誰が行くかも、具体的に話してなかった」

「私もです。十二月が来なければいいなって、思ってました」


 言ってから、目が熱くなった。

 彼に顔を見られたくなくて、窓のほうを向いた。


「佳乃さん」


 返事をすると泣きそうだったので、黙って頷いた。


「今日、松本まで来てくれて、嬉しかったです」


 彼はそれ以上、何も言わなかった。

 泣かないうちに、と私はバッグからハンカチを出した。鼻を押さえていると、隣から手が伸びてきた。

 膝の上で手を繋いだまま、次に停まる駅のアナウンスを聞いた。



     *



 翌週の土曜日、私の部屋で昼食を作った。

 航平さんは玉ねぎを切り、私は卵を割った。

 教室と違って、私の台所は二人で立つと狭い。引き出しを開けるたびに、彼が横へずれた。


「包丁、よく切れますね」

「先週、研ぎに出したんです」

「うちのも、出そうかな」


 ハンバーグを焼いて、ブロッコリーを茹でた。

 食べ終わってから、テーブルに二人の勤務予定と、列車の時刻表を広げた。


 松本へ行くなら、駅までの時間も含めて、私の部屋から三時間半ほどかかる。金曜の仕事が延びれば、その日のうちには行けない。

 毎週会うつもりで計算すると、交通費の合計を見たところで、二人とも黙った。


「毎週は、厳しいですね」


 私が言うと、航平さんも頷いた。


「来てもらって、疲れて、日曜は帰るだけになるのも嫌です」

「でも、月に一度は、少ないです」


 遠慮して頷きかけて、やめた。

 彼は私を見たあと、予定表を引き寄せた。


「じゃあ、まず二回。僕が一回、佳乃さんが一回。立ち上げの時期は土曜に出勤することもあるので、毎月、早めに予定を決めたいです」

「私も、改装工事の前後は土曜に出ます」

「その月は、日をずらしましょう」

「航平さんが忙しいからって、私が全部行くのは、なしですよ」


 口にしてから、きつかったかと彼を見た。

 航平さんは、予定表の余白に何か書いていた手を止めた。


「はい。佳乃さんが忙しい月も、同じで」

「はい」


「半年くらい続けてみて、もう一度、この先のことを話しませんか」


 航平さんが、予定表の先を指で押さえた。


「半年」

「来年の六月頃に。僕は大丈夫でも、佳乃さんは無理をしてるかもしれないし。逆も、あるかもしれません」

「その前でも、つらくなったら言います」

「僕も、言います」


 私は頷いて、自分の手帳を閉じた。


 テーブルの端へ押しやっていた皿を重ねた。

 航平さんが立ち上がって、受け取った。


「洗います。洗剤、これですか」

「そっちはハンドソープです」

「危なかった」


 泡を流す音がし始めて、ようやく、さっきまでの話が私たちにもできたのだと思った。



 十一月の最後の土曜日、航平さんは料理教室を辞めた。

 先生が「向こうでも作ってね」と、彼にレシピのファイルを渡した。

 最後の献立は、鮭の南蛮漬けだった。


 帰り際、いつも一緒になる女性が、私たちを交互に見た。


「今日は、このあと何を食べに行くの?」


 私は彼を見た。彼も私を見た。


「お蕎麦です」


 航平さんが答えると、女性は「あら、いいわね」と笑って帰っていった。


「気づかれてましたね」

「毎回、一緒に帰ってましたからね」


 教室の看板の下で、彼が私の手を取った。

 私はその手を握って、階段を降りた。



     *



 十二月、航平さんが松本へ引っ越した。

 最初の週末は、彼が東京へ来た。

 次の週末は会わなかった。


 それまで毎週顔を見ていたから、土曜の朝に教室へ行き、彼のいない調理台を見ると、思っていたより寂しかった。

 私は家に帰って、できあがったロールキャベツの写真を送った。


『おいしそう。僕は今日は、スーパーの弁当です』


 夕方に来た返事を見て、電話をかけたくなった。

 仕事が終わったばかりかもしれない。ご飯を食べて、少し休んでからのほうがいいかもしれない。

 いくつか文章を書いて消しているうちに、彼から電話が来た。


「佳乃さん、今、話せます?」

「はい。そっちは、大丈夫ですか」

「弁当を温めてるところです」


 電子レンジの音がした。

 ロールキャベツの写真を見て、声を聞きたくなったのだと言われた。


「私も、電話しようか迷ってました」

「迷わず、かけてください」

「疲れてるかなって」

「出られなかったら、あとでかけますから」


 私もそう言っておけばよかった。

 相手に気を遣っているつもりで、一人で寂しくなっていた。


「じゃあ、私も温めます」


 電話を繋いだまま、ご飯をよそった。

 彼の弁当に、漬物が三種類入っていると聞いて笑った。



 一月の終わり、会う予定が流れた。

 担当していた店舗の工事で問題が起きた。金曜の夕方に会社を出るはずが、施工会社との打ち合わせが終わらず、翌日も現地に行くことになった。


 電話をかけると、航平さんは「分かりました」と言った。

 そのあとに少し間があり、私はスマートフォンを握り直した。


「ごめんなさい」

「仕事なら、仕方ないです」

「でも、前に会ったの、二週間前で」

「はい」


 その短い返事に、責められた気がした。

 謝ろうと息を吸ったところで、彼が言った。


「今週、炊飯器を買ったんです」

「え?」

「佳乃さんが来るから、やっと。前のは、一人分なら鍋でいいかと思って、引っ越すときに処分したので」


 声に、笑い損ねたような響きがあった。


「ちょっと、楽しみにしすぎてました」


 私は、事務所の壁を見た。

 航平さんは怒っていたのではなかった。


「私も、楽しみでした」

「はい」

「今、すごく行きたいです」


 彼が、小さく息を吐いた。


「次の予定、今、決めてもいいですか」

「決めたいです」


 翌週は彼の土曜出勤だった。その次の週には、彼が東京へ来る予定が入っていた。

 結局、そこまで会えなかった。


 一か月近く顔を見ないのは、初めてだった。

 電話をしても寂しい日はあった。会えないなら付き合っている意味がない、とまでは思わなかったけれど、これを何年も続けられるのか、と考えた夜はある。


 次に会ったとき、駅の改札から出てきた航平さんを見て、私は思わず歩くのを速めた。

 彼も同じだった。

 人の流れを避けて柱のそばに寄ると、彼が私の顔を覗き込んだ。


「元気でしたか」

「電話で、一昨日も話しましたよ」

「そうなんですけど」


 私から、彼のコートの袖を掴んだ。


「炊飯器、何合炊きですか」

「三合です」

「次に行ったら、炊き込みご飯にしませんか」


 航平さんが頷いた。

 手を繋いで歩き出したら、彼の歩幅がいつもより大きかった。



 三月には、彼がこちらへ来る日に、私が休日出勤した。

 来ても会えないよ、と言うと、夕飯は一緒に食べられるでしょう、と返ってきた。


 仕事を終えて帰ると、私の部屋の台所で、彼が味噌汁を作っていた。

 前の月、二人で相談して渡した合鍵が、食卓の上に置いてあった。


「おかえりなさい」

「ただいま」


 靴を脱いでから、その場で少し止まった。

 玄関から見えるところに彼がいる。それだけのことが嬉しくて、脱いだ靴を揃えるのを忘れていた。


「どうしました」

「ううん。お腹、空きました」


 彼は、私が買った覚えのない、青い茶碗にご飯を盛った。


「これ、買ったんですか」

「はい。使わせてもらうの、毎回丼だったので」

「丼、嫌でした?」

「ちょっと、食べすぎます」


 そういえば、おかわりをしているところを見たことがなかった。

 私は笑って、向かいの椅子を引いた。



     *



 六月の最後の土曜日、私は料理教室を休んで、松本へ行った。

 航平さんが駅まで迎えに来ていた。

 改札を出ると、いつものように私のバッグへ手を伸ばしかけ、それから引っ込めた。


「持ちますか」

「今日は軽いので、大丈夫です」


 前に、なんでも持とうとする彼に、一泊分くらい自分で持ちます、と言ったことがある。

 それから、彼は先に聞くようになった。

 私は、彼が歩き始める前に手を差し出した。


 部屋へ行く途中で、スーパーに寄った。

 買うものを決めずに来たせいで、野菜売り場を二周した。


「茄子にします?」

「先週も食べませんでした?」

「僕は食べました。佳乃さんは?」

「私は食べてないです」


 二人で顔を見合わせた。

 一緒に食べたような気がしていたのは、写真を送ってもらったからだった。


 結局、茄子を買った。

 彼の部屋には、私の歯ブラシと、部屋着と、小さな化粧水が置いてある。

 食器棚には、私が選んだ白い茶碗もあった。


 昼食を済ませて、彼がコーヒーを淹れてくれた。

 窓を開けると、どこかの家から掃除機の音が聞こえた。


「お見合いから、一年ですね」


 航平さんが、向かいに座った。


「そうですね」

「断られたのも、一年です」

「私だって、断られましたよ」


 私が言い返すと、彼は笑った。

 それから、カップを両手で包んだ。


「離れて、半年経ちましたね」

「はい」


 引っ越す前に、半年経ったら一度、この先のことを話そうと決めていた。

 会う予定を確かめることとは別に。

 続けられているから大丈夫、と、片方だけが思わないように。


「僕は、佳乃さんと結婚したいです」


 まっすぐに言われた。

 私は、膝の上に置いた手に力を入れた。


「私もです」


 声が少し、掠れた。


「一緒に住めるようになったら、とは、思ってたんです。でも、それがいつか、今は約束できません」


 航平さんが頷いた。


「私、四月から、改装を一件、最初から任されてるんです。途中で手放したくないです」

「はい。知ってます」

「でも、その仕事が終わったら、もう仕事は十分ですって思うかっていうと……たぶん、思わないです」


 そこまで言って、カップへ手を伸ばした。

 コーヒーは、まだ熱かった。


「だから、一年後には辞めますとか、そういう約束はできない」

「しなくていいです」


 彼は少し考えてから、続けた。


「僕も、今の工場でやりたいことがあります。いつ東京に戻れますって、言えません」


 分かっていたことだった。

 それでも、彼の口からもう一度聞くと、胸の奥が少し痛んだ。

 いつかは一緒に暮らしたい。それは、二人とも同じだった。


「別々に住んだまま、結婚することになりますね」


 私が言うと、彼は頷いた。


「それでも、佳乃さんと結婚したいです。半年やってみて、会えない日もありましたけど、やめたいとは思わなかった」


 私は、二月に東京へ来た彼の顔を思い出した。

 電話では何度も話したのに、顔を見ただけで、あんなに嬉しかった。

 会えなかった一か月が平気になったわけではない。たぶん、これからも平気にはならない。


「三月に、うちでご飯を作ってくれたでしょう」

「味噌汁が、ちょっと薄かった日ですか」

「私は、あれでよかったです」


 航平さんが、少し笑った。

 私は食器棚を見た。ここには私の茶碗があって、東京の私の部屋には、彼の青い茶碗がある。

 次に来る日を待つだけだった部屋に、彼が自分で選んだものが、少しずつ増えていた。


「あの日、おかえりって言ってもらって、またこうして帰ってきたいと思ったんです。航平さんがいるところへ」


 うまく言おうとすると、話したかったことから遠ざかる。私は一度、口を閉じた。


「次に会う日のことだけじゃなくて、何年も先のことを、航平さんと決めたいです」


 彼は、私が話し終わるまで待ってから、頷いた。


「僕も。今度は、部屋を借りる前から、一緒に考えてほしいです」


 去年、一人で内見に入っていった背中を思い出した。

 私も、あのときは外で待っていた。


「私も、一緒にいたいです。できれば、毎日」

「僕もです」

「そこは、諦めないでいたいです」

「はい」


 航平さんが、テーブルの上へ手を伸ばした。

 私は、その手に指を重ねた。


「でも、今すぐ一緒に住めないから、結婚もできないって、決めなくていいですよね」


 自分で言って、息が楽になった。

 彼が握り返す力が、少し強くなった。


「佳乃さん」

「はい」

「結婚してください」


 もう答えたのに、と思った。

 でも、改めて言われると、頷くだけでは足りなかった。


「はい。よろしくお願いします」


 彼が立ち上がった。

 私も立った。椅子が床を擦る音が大きく響いて、少し笑ったところで、彼の腕の中に入った。


 しばらく、何も話さなかった。

 開いた窓から風が入り、テーブルに置いたスーパーのレシートが、床へ落ちた。



 入籍する日は、夏のうちに両方の親へ話してから決めることにした。

 家は当分、二つのまま。

 交通費を出し合うことや、病気になったときのこと。結婚の報告をする前に二人で確かめたいことを、夕飯までかけてノートに書いた。


 話し終わったら、二人ともお腹が空いていた。

 昼に買った茄子を切っていると、彼が冷蔵庫を開けた。


「挽き肉、全部使います?」

「使っちゃいましょう」

「多くないですか」

「明日のお昼も、食べられますよ」


 航平さんが、そこで手を止めた。


「帰るの、明日の夕方でしたね」

「はい」

「よかった」


 たいしたことのない返事なのに、私はしばらく、包丁を動かせなかった。


 お見合いの日、駅で別れたら、それきりのはずだった。

 今は、明日の昼食の分まで、二人で作っている。


「佳乃さん、味噌、どのくらいでしたっけ」


 私は手を洗い、彼の持つレシピを覗き込んだ。

 去年、教室でもらった紙だった。端に小さく、彼の字で書き込みがある。


『佳乃さんは、少し甘め』


「それ、いつ書いたんですか」

「いつだったかな」


 彼がレシピを遠ざけようとするので、端を押さえた。


「見せてください」

「味噌、先に量りましょう。焦げます」


 フライパンの中で、茄子が音を立てていた。

 私は大さじを彼に渡し、砂糖の容器を自分のほうへ引き寄せた。


「今日は、航平さんの好きな甘さにしましょう」

「僕、そんなに甘いのは」

「知ってます。だから、一緒に味見してください」


 彼が私の隣に戻ってきた。

 差し出された小皿に、私はたれを少し落とした。


~完~

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