お見合いを断った人と、毎週土曜日に会っています
お見合いを断った翌週、その人が隣で玉ねぎを刻んでいた。
「……安西さん」
「瀬尾さん」
名前を呼び合ったきり、私たちは黙った。
先生の声が、調理台の向こうから飛んできた。
「手を止めてくださーい。玉ねぎを切り終わった方から、お肉の下ごしらえに入ります」
瀬尾さんが包丁を置いた。私も、手に持った卵をボウルの縁から引っ込めた。
一週間前、ホテルのラウンジで向かい合ったときより、ずっと気まずい。
あのときは、こんな白いエプロンをしていなかった。彼の胸元には、茶色い犬が食パンをくわえている。
「そのエプロン、前からですか」
ほかに言うことはなかったのかと、口にしてから思った。
彼は犬を見下ろした。
「姪が選びました。ほかのを使うと、写真を見て指摘されるので」
「写真、送るんですか」
「作った料理を持って、タイマーで撮るんです。ちゃんと野菜を食べてるか、母より厳しくて」
笑ってしまった。
すると彼も少し笑い、小さなボウルを私のほうへ寄せた。
「卵、こっちで溶くと、殻が入っても取れますよ」
先週は、笑った顔を一度も見なかった気がする。
瀬尾航平さん、三十四歳。食品メーカー勤務。
母から送られてきた紹介文には、そう書かれていた。
叔母の知り合いの息子さん、という、途中で人を二人も挟む話だった。三十二歳の誕生日を迎えたばかりの私は、母に「一度会うだけだから」と押されて頷いた。
仕事は嫌いじゃない。賃貸の更新料も一人で払える。だから結婚しなくていい、とは思っていなかった。
ただ、誰と暮らしたいのかは分からなかった。
瀬尾さんは席について十分もしないうちに、言った。
「最初に、お話ししておかないといけないことがあります」
結婚歴かと思い、私は紅茶のカップを置いた。
「十二月から松本の工場へ異動します。自分で希望した異動です。東京に戻る予定は、今のところありません」
窓際の席は、六月の午後の日差しで明るかった。
彼が言いにくそうにしているのが、かえって気の毒だった。
「お母様から、聞いていませんか」
「長野のご出身とは、聞いていました」
「……すみません。先に伝えてもらうように頼んだんですが」
あとで母に聞くと、叔母からは「いずれ地元に戻りたいらしい」とだけ伝わっていた。どこで話が変わったかを確かめても、異動の日は変わらない。
「安西さんは、こちらでお仕事を続けたいんですよね」
「はい」
私は住宅設備の会社で、ショールームの改装を担当している。
入社して十年。営業から異動を願い出て、ようやく任せてもらえるようになった仕事だった。
東京近郊の店舗を回り、図面を広げ、施工会社と打ち合わせる。在宅勤務の日はあっても、どこに住んでもできる仕事ではない。
「私、今の部署に来て、まだ二年なんです」
「そうですか」
「やりたい仕事だったので」
それだけ言うと、彼は頷いた。
仕事を辞める気はないか、と聞かれることもなかった。私も、松本への通勤が可能か調べるとは言わなかった。
紅茶を飲み終えて、駅まで歩いた。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。最初からきちんと伝わっていなくて、すみませんでした」
お互いに、紹介者を通じてお断りした。
条件が合わなかった。それだけだ。
感じの悪い人ではなかったな、と思ったのは、翌朝にはもう、ほかの予定に押し流されていた。
そして七月の第一土曜日。
閉講になった水曜夜のクラスから、私が土曜午前へ移った。
「平日の生徒さんが減ってしまって」
先生は申し訳なさそうだったけれど、私は曜日を変えて続けるつもりだった。職場と自宅の往復だけで一週間が終わるのが嫌で、昨年の秋に通い始めた教室だ。休日の予定になるのも悪くない。
そう思って来たら、瀬尾さんがいた。
「去年から、土曜日です」
彼は、焼き上がったハンバーグを皿へ移しながら言った。
「自炊、よくされるんですか」
「作ってはいました。ただ、炒め物の味が全部一緒になるので」
「分かります。私、一人暮らしを始めた頃、なんでもめんつゆでした」
「僕は焼き肉のたれです」
向かいでサラダを盛りつけていた女性が、「あれはおいしいからねえ」と会話に加わった。
教室は十二人で、三つの調理台を使う。組み合わせは毎回違うらしい。私と彼は、今日はたまたま同じ班になっただけだった。
できあがったものを試食する頃には、少し落ち着いていた。
瀬尾さんはハンバーグを切り、断面をじっと見ている。
「生焼け、心配ですか」
「前に家で失敗して。外は焦げてるのに、中が」
「私もあります」
「ありますか」
彼がほっとした顔をするので、また笑ってしまった。
帰り道、教室の入ったビルを出たところで、彼が足を止めた。
「これからも、普通にお話ししていただいて、大丈夫ですか」
意味はすぐに分かった。
「はい。私こそ。毎週お見合いの続きをするわけじゃないですし」
「そうですね」
彼の肩が下がった。
私も、その日初めて、息を深く吐いた気がした。
*
二週目は別の班だった。
瀬尾さんの調理台から、派手なくしゃみが聞こえた。隣の人が胡椒を振りすぎたらしい。
見てはいけない気がして顔を伏せると、彼と目が合った。
彼は黙って、胡椒の瓶を持ち上げた。
三週目は、私が忘れた持ち帰り用の容器を、彼が受付まで届けてくれた。
四週目、教室を出ると土砂降りだった。
「予報、曇りでしたよね」
ビルの軒先で、私は空を見上げた。
彼も傘を持っていなかった。二人で駅へ走るには、雨粒が大きすぎた。
「あそこの喫茶店、入りますか」
道路の向こうを彼が指した。
看板に、コーヒー四百八十円、とある。
「はい」
ハンカチを頭に載せて、信号が変わるのを待った。
店内はよく冷えていた。私はアイスコーヒーを頼みかけて、ホットに変えた。
瀬尾さんも同じものを頼んだ。
運ばれてきたおしぼりで腕を拭いていると、彼が椅子の下へ足を引いた。靴の先から、床へ水滴が落ちていた。
「靴まで、びしょ濡れですね」
「走ってるとき、水たまりに入りました」
「それ、私もです」
二人とも靴を見た。
見合いの日は、相手の靴を気にする余裕まであった。きれいに磨いてあるな、とか。今の彼の靴には、泥水が跳ねていた。
「私、先週の肉じゃが、家でも作りました」
「どうでした」
「四人分できました」
「レシピ通りだと、そうなりますね」
「三日食べました。最後、ちょっと嫌いになりました」
彼が声を立てて笑った。
「僕は二日目にカレーにしました」
「ずるい。それ、先に教えてくださいよ」
「連絡先、知りませんから」
言ってから、彼はカップを持ち直した。
私はバッグからスマートフォンを出した。
「教室のことも聞けるし。交換しませんか」
「はい」
画面に出た彼のアイコンは、白い犬だった。
エプロンと同じ犬種だ、と言うと、姪が飼っている犬だと教えてくれた。
雨は、二杯目を頼む前に上がった。
会計を別々に済ませて店を出ると、彼が言った。
「安西さんって、よく笑うんですね」
「瀬尾さんこそ」
お見合いの日のことを思い出して、どちらからともなく笑った。
*
八月に入ると、土曜日の帰りに昼食を取ることが増えた。
試食だけではお腹が空く、と最初に言い出したのは私だったと思う。
料理を習ったあとで、駅前の餃子屋に入る。
彼は定食に餃子を追加した。私はビールを頼んだ。
「昼から飲んでもいいですか」
「もう頼んでますよ」
「一応」
「じゃあ、僕も」
乾杯はしなかった。
向かい合って飲んで、餃子が熱すぎて黙って、水を飲んだ。
そういう昼が楽しかった。
仕事の話もした。
私が、改装後の店でお客さんの動きがよくなった話をすると、彼は「それは、どうやって確かめるんですか」と聞いた。
通路の幅や展示の高さの話までしてしまい、途中で我に返った。
「ごめんなさい。細かい話で」
「いや、さっきの写真、もう一度見せてもらっていいですか。入口の横が変わったんですよね」
スマートフォンに入っている、公開済みの店舗写真をもう一度見せた。
彼の指が、画面には触れずに、通路をなぞった。
「ここで立ち止まっても、後ろの人が通れる」
「そう。それなんです」
私はつい、画面を彼のほうへ押し出した。
彼の仕事は品質管理だった。
十二月からは、松本の工場で新しい製造ラインの立ち上げに加わる。
地元へ帰れるから、だけではなかった。
「工場のほうを、長くやりたかったんです。今は本社で、工場から来る報告を見ることが多くて」
「それで公募に?」
「はい。落ちるつもりで出したので、決まってから驚きました」
「でも、嬉しかった」
「ええ」
彼が笑ったので、私はその顔をちゃんと見ておいた。
九月の最初の土曜日、教室のあとで二人で映画を観た。
誘ったのは彼だった。
その翌週は、私が、行ってみたかった洋食屋へ誘った。
昼食のあと、本屋を覗き、近くの公園を歩いた。歩き疲れて入った喫茶店でも、飲み終わったカップを前に、なかなか席を立てなかった。
レジで会計を済ませている彼の背中を見ながら、もう友達という言い方は無理だ、と思った。
教室へ行く前の金曜日には、着ていく服を選んでいた。
彼が休むと分かると、土曜の朝に起きるのが少し面倒になった。
メッセージの通知に、仕事の手を止めたこともある。
駅の改札が見えたところで、彼が言った。
「来週、教室は休みですよね」
「先生、旅行でしたね」
「よかったら、会いませんか」
私は、隣を歩く彼を見た。
「私、瀬尾さんに会いたくて、教室に行ってます」
彼が立ち止まった。
私も二歩先で止まった。こんな場所で言うつもりはなかった。後ろから来た人を避けて、二人で壁際へ寄った。
「先生には、申し訳ないですけど」
続けなくていいことまで口にしてしまった。
彼は困ったように笑ったあと、息を吸った。
「僕もです」
それだけでよかったのに、彼はすぐ、もう一度口を開いた。
「でも、十二月には」
「知っています」
私の声が強くなり、彼が黙った。
「ごめんなさい。忘れてたわけじゃないんです」
「……はい」
「私も、仕事を辞めるつもりはありません」
駅の時計が、六時を回っていた。
夕方の人の流れのそばで、彼は頷いた。
「それも、分かってます」
「じゃあ、一度お断りしたときと、何も変わってないですね」
彼が何か言いかけた。
私は、今度は遮らずに待った。
「変わりました。あのときは、安西さんと次に会う約束がなくても、平気でした」
改札を通る人が、途切れずに流れていた。
私はその人たちを見て、それから彼の顔に視線を戻した。
「私も、来週会いたいです」
彼が差し出した手を取った。
指先が触れてから、少し握り直された。
ようやく付き合えたのに、その場で私は、十二月まではあと三か月なのだと数えていた。
*
付き合い始めて、呼び方が変わった。
瀬尾さんが航平さんになり、私は佳乃さんになった。
料理教室では変えなかった。照れくさいし、ほかの人に説明するきっかけもなかった。
十月、私たちは日帰りで松本へ行った。
航平さんは翌月に借りる部屋を見ておきたいと言い、私は町を歩いてみたいと言った。
駅前で車を借りると、彼はナビの案内を途中で切った。
「この先は、分かるので」
東京では電車ばかりだったから、彼の運転する車に乗るのは初めてだった。
信号待ちで彼がこちらを見た。
「寒くないですか」
「大丈夫です」
窓の外には、遠くの山が見えた。
彼は大学を出てからずっと東京にいた。それでも、曲がり角の先にある店を、看板が見える前に教えてくれた。
「あそこのパン屋、まだやってるかな」
「寄ってみます?」
店は開いていた。
揚げたパンに砂糖をまぶしたものを、彼は二つ買った。車の中で食べて、シートに砂糖を落とした。
「レンタカーなのに」
慌てて払う彼に、私はウェットティッシュを渡した。
彼が笑う。見合いの日にも、教室の初日にも見なかった、気の抜けた笑い方だった。
彼が内見をしている間、私は近くの通りを歩いた。
小さなスーパーと、歯医者と、クリーニング店があった。
観光では気に留めない看板を、ひとつずつ見てしまう。
ここで暮らすなら。
考えてから、駅までのバスの時刻を調べるふりをして、スマートフォンを閉じた。
帰りの特急は満席だった。予約していた席に座ると、朝から歩いた疲れが出た。
隣で航平さんが、お茶の蓋を開けている。
「部屋、どうでしたか」
「よかったです。たぶん、あそこにします」
「そうですか」
窓の外が暗くなり、自分の顔が映った。
私は、自分の膝に目を落とした。
「どうかしました?」
航平さんに聞かれて、首を振りかけた。
今、楽しかったねと言ってしまうと、今日思ったことを、次にいつ話せるか分からなかった。
「今日、こっちで暮らす自分を考えました」
彼のお茶を持つ手が止まった。
「でも、平日のことが、全然浮かばなかったです」
スーパーに寄って、二人でご飯を作るところまでは想像できた。
その前の、朝起きてから夕方までが、空白だった。
「私が今の仕事を辞めて来たら、航平さん、嬉しいですか」
彼は、すぐに答えなかった。
列車が揺れ、紙袋の中でパンの袋がかすかに鳴った。
「一緒に暮らせるなら、嬉しいです」
私は頷いた。
その言葉を待っていたのか、怖がっていたのか、自分でも分からなかった。
「ただ、佳乃さんが仕事を辞めて、あとのことは来てから考えよう、とは言えません」
彼がペットボトルをテーブルに置いた。
「佳乃さんがこっちへ来る方法ばかり、考えさせてしまってましたか」
「……私が、勝手に」
「僕は引っ越しの話ばかりしてましたね」
嬉しそうに部屋の写真を見せてくれた顔を思い出した。
それが嫌だったわけではない。むしろ、一緒に楽しみたかった。
「戻るの、やめてほしいわけじゃないです」
「はい」
「それは、本当に」
彼は少し前かがみになり、膝の上で両手を組んだ。
「離れて付き合うことは、僕はできると思ってました。でも、いつ会うかも、誰が行くかも、具体的に話してなかった」
「私もです。十二月が来なければいいなって、思ってました」
言ってから、目が熱くなった。
彼に顔を見られたくなくて、窓のほうを向いた。
「佳乃さん」
返事をすると泣きそうだったので、黙って頷いた。
「今日、松本まで来てくれて、嬉しかったです」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
泣かないうちに、と私はバッグからハンカチを出した。鼻を押さえていると、隣から手が伸びてきた。
膝の上で手を繋いだまま、次に停まる駅のアナウンスを聞いた。
*
翌週の土曜日、私の部屋で昼食を作った。
航平さんは玉ねぎを切り、私は卵を割った。
教室と違って、私の台所は二人で立つと狭い。引き出しを開けるたびに、彼が横へずれた。
「包丁、よく切れますね」
「先週、研ぎに出したんです」
「うちのも、出そうかな」
ハンバーグを焼いて、ブロッコリーを茹でた。
食べ終わってから、テーブルに二人の勤務予定と、列車の時刻表を広げた。
松本へ行くなら、駅までの時間も含めて、私の部屋から三時間半ほどかかる。金曜の仕事が延びれば、その日のうちには行けない。
毎週会うつもりで計算すると、交通費の合計を見たところで、二人とも黙った。
「毎週は、厳しいですね」
私が言うと、航平さんも頷いた。
「来てもらって、疲れて、日曜は帰るだけになるのも嫌です」
「でも、月に一度は、少ないです」
遠慮して頷きかけて、やめた。
彼は私を見たあと、予定表を引き寄せた。
「じゃあ、まず二回。僕が一回、佳乃さんが一回。立ち上げの時期は土曜に出勤することもあるので、毎月、早めに予定を決めたいです」
「私も、改装工事の前後は土曜に出ます」
「その月は、日をずらしましょう」
「航平さんが忙しいからって、私が全部行くのは、なしですよ」
口にしてから、きつかったかと彼を見た。
航平さんは、予定表の余白に何か書いていた手を止めた。
「はい。佳乃さんが忙しい月も、同じで」
「はい」
「半年くらい続けてみて、もう一度、この先のことを話しませんか」
航平さんが、予定表の先を指で押さえた。
「半年」
「来年の六月頃に。僕は大丈夫でも、佳乃さんは無理をしてるかもしれないし。逆も、あるかもしれません」
「その前でも、つらくなったら言います」
「僕も、言います」
私は頷いて、自分の手帳を閉じた。
テーブルの端へ押しやっていた皿を重ねた。
航平さんが立ち上がって、受け取った。
「洗います。洗剤、これですか」
「そっちはハンドソープです」
「危なかった」
泡を流す音がし始めて、ようやく、さっきまでの話が私たちにもできたのだと思った。
十一月の最後の土曜日、航平さんは料理教室を辞めた。
先生が「向こうでも作ってね」と、彼にレシピのファイルを渡した。
最後の献立は、鮭の南蛮漬けだった。
帰り際、いつも一緒になる女性が、私たちを交互に見た。
「今日は、このあと何を食べに行くの?」
私は彼を見た。彼も私を見た。
「お蕎麦です」
航平さんが答えると、女性は「あら、いいわね」と笑って帰っていった。
「気づかれてましたね」
「毎回、一緒に帰ってましたからね」
教室の看板の下で、彼が私の手を取った。
私はその手を握って、階段を降りた。
*
十二月、航平さんが松本へ引っ越した。
最初の週末は、彼が東京へ来た。
次の週末は会わなかった。
それまで毎週顔を見ていたから、土曜の朝に教室へ行き、彼のいない調理台を見ると、思っていたより寂しかった。
私は家に帰って、できあがったロールキャベツの写真を送った。
『おいしそう。僕は今日は、スーパーの弁当です』
夕方に来た返事を見て、電話をかけたくなった。
仕事が終わったばかりかもしれない。ご飯を食べて、少し休んでからのほうがいいかもしれない。
いくつか文章を書いて消しているうちに、彼から電話が来た。
「佳乃さん、今、話せます?」
「はい。そっちは、大丈夫ですか」
「弁当を温めてるところです」
電子レンジの音がした。
ロールキャベツの写真を見て、声を聞きたくなったのだと言われた。
「私も、電話しようか迷ってました」
「迷わず、かけてください」
「疲れてるかなって」
「出られなかったら、あとでかけますから」
私もそう言っておけばよかった。
相手に気を遣っているつもりで、一人で寂しくなっていた。
「じゃあ、私も温めます」
電話を繋いだまま、ご飯をよそった。
彼の弁当に、漬物が三種類入っていると聞いて笑った。
一月の終わり、会う予定が流れた。
担当していた店舗の工事で問題が起きた。金曜の夕方に会社を出るはずが、施工会社との打ち合わせが終わらず、翌日も現地に行くことになった。
電話をかけると、航平さんは「分かりました」と言った。
そのあとに少し間があり、私はスマートフォンを握り直した。
「ごめんなさい」
「仕事なら、仕方ないです」
「でも、前に会ったの、二週間前で」
「はい」
その短い返事に、責められた気がした。
謝ろうと息を吸ったところで、彼が言った。
「今週、炊飯器を買ったんです」
「え?」
「佳乃さんが来るから、やっと。前のは、一人分なら鍋でいいかと思って、引っ越すときに処分したので」
声に、笑い損ねたような響きがあった。
「ちょっと、楽しみにしすぎてました」
私は、事務所の壁を見た。
航平さんは怒っていたのではなかった。
「私も、楽しみでした」
「はい」
「今、すごく行きたいです」
彼が、小さく息を吐いた。
「次の予定、今、決めてもいいですか」
「決めたいです」
翌週は彼の土曜出勤だった。その次の週には、彼が東京へ来る予定が入っていた。
結局、そこまで会えなかった。
一か月近く顔を見ないのは、初めてだった。
電話をしても寂しい日はあった。会えないなら付き合っている意味がない、とまでは思わなかったけれど、これを何年も続けられるのか、と考えた夜はある。
次に会ったとき、駅の改札から出てきた航平さんを見て、私は思わず歩くのを速めた。
彼も同じだった。
人の流れを避けて柱のそばに寄ると、彼が私の顔を覗き込んだ。
「元気でしたか」
「電話で、一昨日も話しましたよ」
「そうなんですけど」
私から、彼のコートの袖を掴んだ。
「炊飯器、何合炊きですか」
「三合です」
「次に行ったら、炊き込みご飯にしませんか」
航平さんが頷いた。
手を繋いで歩き出したら、彼の歩幅がいつもより大きかった。
三月には、彼がこちらへ来る日に、私が休日出勤した。
来ても会えないよ、と言うと、夕飯は一緒に食べられるでしょう、と返ってきた。
仕事を終えて帰ると、私の部屋の台所で、彼が味噌汁を作っていた。
前の月、二人で相談して渡した合鍵が、食卓の上に置いてあった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
靴を脱いでから、その場で少し止まった。
玄関から見えるところに彼がいる。それだけのことが嬉しくて、脱いだ靴を揃えるのを忘れていた。
「どうしました」
「ううん。お腹、空きました」
彼は、私が買った覚えのない、青い茶碗にご飯を盛った。
「これ、買ったんですか」
「はい。使わせてもらうの、毎回丼だったので」
「丼、嫌でした?」
「ちょっと、食べすぎます」
そういえば、おかわりをしているところを見たことがなかった。
私は笑って、向かいの椅子を引いた。
*
六月の最後の土曜日、私は料理教室を休んで、松本へ行った。
航平さんが駅まで迎えに来ていた。
改札を出ると、いつものように私のバッグへ手を伸ばしかけ、それから引っ込めた。
「持ちますか」
「今日は軽いので、大丈夫です」
前に、なんでも持とうとする彼に、一泊分くらい自分で持ちます、と言ったことがある。
それから、彼は先に聞くようになった。
私は、彼が歩き始める前に手を差し出した。
部屋へ行く途中で、スーパーに寄った。
買うものを決めずに来たせいで、野菜売り場を二周した。
「茄子にします?」
「先週も食べませんでした?」
「僕は食べました。佳乃さんは?」
「私は食べてないです」
二人で顔を見合わせた。
一緒に食べたような気がしていたのは、写真を送ってもらったからだった。
結局、茄子を買った。
彼の部屋には、私の歯ブラシと、部屋着と、小さな化粧水が置いてある。
食器棚には、私が選んだ白い茶碗もあった。
昼食を済ませて、彼がコーヒーを淹れてくれた。
窓を開けると、どこかの家から掃除機の音が聞こえた。
「お見合いから、一年ですね」
航平さんが、向かいに座った。
「そうですね」
「断られたのも、一年です」
「私だって、断られましたよ」
私が言い返すと、彼は笑った。
それから、カップを両手で包んだ。
「離れて、半年経ちましたね」
「はい」
引っ越す前に、半年経ったら一度、この先のことを話そうと決めていた。
会う予定を確かめることとは別に。
続けられているから大丈夫、と、片方だけが思わないように。
「僕は、佳乃さんと結婚したいです」
まっすぐに言われた。
私は、膝の上に置いた手に力を入れた。
「私もです」
声が少し、掠れた。
「一緒に住めるようになったら、とは、思ってたんです。でも、それがいつか、今は約束できません」
航平さんが頷いた。
「私、四月から、改装を一件、最初から任されてるんです。途中で手放したくないです」
「はい。知ってます」
「でも、その仕事が終わったら、もう仕事は十分ですって思うかっていうと……たぶん、思わないです」
そこまで言って、カップへ手を伸ばした。
コーヒーは、まだ熱かった。
「だから、一年後には辞めますとか、そういう約束はできない」
「しなくていいです」
彼は少し考えてから、続けた。
「僕も、今の工場でやりたいことがあります。いつ東京に戻れますって、言えません」
分かっていたことだった。
それでも、彼の口からもう一度聞くと、胸の奥が少し痛んだ。
いつかは一緒に暮らしたい。それは、二人とも同じだった。
「別々に住んだまま、結婚することになりますね」
私が言うと、彼は頷いた。
「それでも、佳乃さんと結婚したいです。半年やってみて、会えない日もありましたけど、やめたいとは思わなかった」
私は、二月に東京へ来た彼の顔を思い出した。
電話では何度も話したのに、顔を見ただけで、あんなに嬉しかった。
会えなかった一か月が平気になったわけではない。たぶん、これからも平気にはならない。
「三月に、うちでご飯を作ってくれたでしょう」
「味噌汁が、ちょっと薄かった日ですか」
「私は、あれでよかったです」
航平さんが、少し笑った。
私は食器棚を見た。ここには私の茶碗があって、東京の私の部屋には、彼の青い茶碗がある。
次に来る日を待つだけだった部屋に、彼が自分で選んだものが、少しずつ増えていた。
「あの日、おかえりって言ってもらって、またこうして帰ってきたいと思ったんです。航平さんがいるところへ」
うまく言おうとすると、話したかったことから遠ざかる。私は一度、口を閉じた。
「次に会う日のことだけじゃなくて、何年も先のことを、航平さんと決めたいです」
彼は、私が話し終わるまで待ってから、頷いた。
「僕も。今度は、部屋を借りる前から、一緒に考えてほしいです」
去年、一人で内見に入っていった背中を思い出した。
私も、あのときは外で待っていた。
「私も、一緒にいたいです。できれば、毎日」
「僕もです」
「そこは、諦めないでいたいです」
「はい」
航平さんが、テーブルの上へ手を伸ばした。
私は、その手に指を重ねた。
「でも、今すぐ一緒に住めないから、結婚もできないって、決めなくていいですよね」
自分で言って、息が楽になった。
彼が握り返す力が、少し強くなった。
「佳乃さん」
「はい」
「結婚してください」
もう答えたのに、と思った。
でも、改めて言われると、頷くだけでは足りなかった。
「はい。よろしくお願いします」
彼が立ち上がった。
私も立った。椅子が床を擦る音が大きく響いて、少し笑ったところで、彼の腕の中に入った。
しばらく、何も話さなかった。
開いた窓から風が入り、テーブルに置いたスーパーのレシートが、床へ落ちた。
入籍する日は、夏のうちに両方の親へ話してから決めることにした。
家は当分、二つのまま。
交通費を出し合うことや、病気になったときのこと。結婚の報告をする前に二人で確かめたいことを、夕飯までかけてノートに書いた。
話し終わったら、二人ともお腹が空いていた。
昼に買った茄子を切っていると、彼が冷蔵庫を開けた。
「挽き肉、全部使います?」
「使っちゃいましょう」
「多くないですか」
「明日のお昼も、食べられますよ」
航平さんが、そこで手を止めた。
「帰るの、明日の夕方でしたね」
「はい」
「よかった」
たいしたことのない返事なのに、私はしばらく、包丁を動かせなかった。
お見合いの日、駅で別れたら、それきりのはずだった。
今は、明日の昼食の分まで、二人で作っている。
「佳乃さん、味噌、どのくらいでしたっけ」
私は手を洗い、彼の持つレシピを覗き込んだ。
去年、教室でもらった紙だった。端に小さく、彼の字で書き込みがある。
『佳乃さんは、少し甘め』
「それ、いつ書いたんですか」
「いつだったかな」
彼がレシピを遠ざけようとするので、端を押さえた。
「見せてください」
「味噌、先に量りましょう。焦げます」
フライパンの中で、茄子が音を立てていた。
私は大さじを彼に渡し、砂糖の容器を自分のほうへ引き寄せた。
「今日は、航平さんの好きな甘さにしましょう」
「僕、そんなに甘いのは」
「知ってます。だから、一緒に味見してください」
彼が私の隣に戻ってきた。
差し出された小皿に、私はたれを少し落とした。
~完~




