表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

『幻の湖の聖女』と呼ばれた私、婚約破棄されたので湖ごと故郷へ帰らせていただきます~月光でしか汲めない万能薬、二度と献上いたしませんわ~【短編/完結】

作者: uta
掲載日:2026/07/15

「――君との婚約は破棄する。聖女の資格もない女に、王家は不要だ」


煌びやかなシャンデリアの下、社交界の中央で、王太子ジェラルドが高らかに宣言した。


彼の隣には、栗色の巻き毛を揺らして勝ち誇る男爵令嬢アメリア。周囲の貴族たちが、扇の陰でひそひそと囁き合う。


断罪の視線が、すべて私に――湖水公爵家の令嬢、リーゼロッテ・フォン・ゼーヴァッサーに突き刺さる。


ですが。


(あ、これ。前世で読んだ婚約破棄テンプレのやつだ)


私は背筋を伸ばしたまま、内心でひどく冷静にそう思っていた。


(ってことは、私、悪役令嬢ポジション? いや待って。落ち着け私。この国の『聖水』――全部うちの湖から出てるんですけど?)


前世の私は、日本の水質分析技師だった。過労で倒れ、気づけばこの世界へ転生していた。


そして今世の私が管理するのは、『月光の幻湖』。満月の夜、月光を浴びた時にのみ湖面に浮かび、そこでしか汲めない万能薬『月銀水』を産する秘湖だ。


国中の病人を救ってきたあの薬は、『聖女の祈りの奇跡』などではない。


水温、月齢、湖底の菌床管理、毒性の中和、採取タイミングの計算――前世の知識を総動員した、徹底的な科学的品質管理の成果である。


それを、誰も知らない。


「聞いているのか、リーゼロッテ! 貴様は聖女の名を騙り、王家の権威を利用してきた!」


ジェラルド殿下が声を張り上げる。


「私が本物の聖女なのに」


アメリアが小首をかしげ、勝ち誇った笑みを浮かべた。「湖なんて、ただの水たまりですわ。祈れば聖水くらい、私だって出せますもの」


――ほう。


私は静かに息を吐いた。怒りは、不思議と湧いてこない。


ただ、無給で無休、命の危険を冒して満月の夜に湖へ通い、国中の病人を救ってきた日々が、脳裏をよぎっただけ。


その私を、「資格なし」ですって?


(……かしこまりました)


私は、優雅に一礼した。



「かしこまりました」


私は顔を上げ、澄んだ声で告げた。


「では、湖水公爵領の管理権と、月銀水の献上契約――すべて、返上させていただきますわ」


一瞬、広間が静まり返った。


ジェラルド殿下が眉をひそめる。「……何を言っている?」


「言葉のとおりですわ、殿下」


私はドレスの内側から、一枚の証書を取り出した。淡く魔力の光を帯びた、契約魔法の証。


「この国と月銀水の供給契約は、『聖女リーゼロッテ個人』と結ばれたものです。公爵家でも、湖水領でもございません。わたくし個人、と」


証書を掲げる。金の文字が、シャンデリアの光を弾いた。


「婚約の破棄は、すなわち――王家とわたくしの関係の終焉。ならば、この契約もまた、ここに解除されるのが道理でございましょう?」


ざわり、と貴族たちがどよめいた。


(さあ、どうぞ気づいてください。あなた方が飲んでいた『聖水』が、明日から一滴も届かなくなることに)


「な……そんなもの、認めるわけには――」


「認める、認めないの問題ではございません」


私は、静かに、しかしはっきりと殿下の言葉を遮った。


感情を荒らげることなく。ただ淡々と。


「契約とは、双方の意思で成り立つもの。片方が『不要』と切り捨てたなら、それはもう、契約ではございませんわ」


アメリアが、勝ち誇ったまま笑っている。契約の意味など、何一つ理解していない顔で。


「けっこうですわ。祈れば聖水が出せるのでしょう? でしたら、何も問題ございませんわね」


私は微笑んだ。心の底から、穏やかに。


「では――失礼いたします。ごきげんよう、殿下」


ドレスの裾をつまみ、最後の一礼。


背を向けて歩き出す私を、誰も止められなかった。


(さようなら、私を『当然』のように使い潰した国。二度と、あなた方に月銀水は渡しません)



公爵家の馬車に乗り込むと、老家令のマルグリットが、静かに待っていた。


白髪を隙なく撫でつけた、いつもの品格。彼女は私の顔を見るなり、すべてを察したように目を細めた。


「お嬢様。……婚約を、破棄されたと」


「ええ。しかも『聖女の資格なし』ですって」


私は座席に身を沈め、ようやく令嬢の仮面を少しだけ緩めた。


「マルグリット。私、疲れてしまったわ。満月のたびに氷のような湖に入って、菌床の温度を測って、毒を中和して……それを『祈りの奇跡』と呼ばれて、感謝の一つもなく」


「……存じております」


マルグリットは静かに頷いた。


「お嬢様が、どれほど過酷な労働と危険を冒してこられたか。私は、そのすべてを間近で見てまいりました」


彼女は、膝の上に置いていた分厚い綴りを、そっと私に差し出した。


「採取日誌。供給帳簿。そして――契約書の写し。すべて、記録に残してございます」


私は、思わず息を呑んだ。


採取した月銀水の量、日付、月齢、水温、救った病人の数――何年分もの労働の記録が、寸分の狂いもなく整理されている。


「では、お嬢様」


マルグリットが、静かに微笑んだ。


「契約書の綴りは、こちらに。……逆転の武器は、感情ではございません。記録でございます」


(……ああ、そうだった)


前世でも、今世でも。


私を救うのは、いつだって「祈り」ではなく「事実」だった。


「マルグリット」


「はい」


「故郷へ帰りましょう。湖のほとりへ。――今度は、私自身の手で、価値を売るの」


老家令は、深く一礼した。


「かしこまりました。経理も、人事も、この私めが。……お供いたします、お嬢様」



――アメリア視点


満月の夜。


私は、王都から遠く離れた『月光の幻湖』の湖畔に立っていた。


「ふふ、こんなただの水たまりで、あの女は聖女気取りだったのね」


月光を映した湖面は、確かに美しい。けれど、それだけ。


「見ていなさい。本物の聖女がどういうものか、教えてあげるわ」


私は両手を組み、うっとりと祈りを捧げた。


「聖なる月の光よ、我が祈りに応え、聖水を――」


……何も、起きない。


湖面は、ただ静かに月を映しているだけ。


「……おかしいわね」


もう一度。今度はもっと大きな声で。


「聖水よ、浮かびなさい! 私は本物の聖女なのよ!」


やはり、何も。


さざ波ひとつ、立たない。


(あの女は祈るだけで聖水を出していたのでしょう? どうして私にはできないの?)


苛立ちが募る。私は、知らなかった。


月銀水の採取には、水温の調整も、月齢の計算も、湖底に育てた菌床の管理も、そして――採れた原水の猛毒を中和する繊細な手順も、すべてが必要だということを。


祈りなど、一切、関係ないということを。


「……いいわ。だったら、この水を汲んで持ち帰ればいいだけよ」


私は湖面に手を伸ばし、月光に浮かんだわずかな銀色の水を、瓶に汲み取った。


「これで十分。誰も、本物と偽物の区別なんてつかないんだから」


――ええ、そうね、アメリア。


あなたには、区別がつかない。


その水に、どれほどの毒が溶けているのかも。



月銀水の供給が途絶えて、ひと月。


王都では、静かに、しかし確実に、異変が広がっていた。


かつて月銀水で抑え込まれていた疫病が、再び流行し始めたのだ。


病床に伏す民が増え、貴族の子女までもが熱に倒れる。医師たちは口を揃えて言った。「あの万能薬さえあれば」と。


だが、聖女はもういない。


ジェラルド殿下は焦った。「アメリア! お前が聖女なのだろう! 早く聖水を!」


「え、ええ。もちろんですわ、殿下」


アメリアは、湖畔で汲んできた「偽月銀水」を、王家に献上した。


毒性の中和など、一切されていない、ただの湖水を。


それを飲んだ貴族たちが、次々と倒れた。


激しい嘔吐、痙攣、高熱――中毒症状だった。


「な、なぜですの!? 私はちゃんと湖から汲んできたのに!」


蒼白になるアメリア。


医師が震える声で告げた。「これは……聖水ではありません。毒です。中和されていない、ただの毒水だ!」


広間が凍りついた。


「聖水を、祈りで出せると仰っていたのでは?」


「本物の聖女だと、断言されていたはずでは?」


貴族たちの視線が、一斉にアメリアへ突き刺さる。かつてリーゼロッテに向けられたのと、同じ視線が。


「ち、違うの! これは何かの間違いで――!」


「間違い、ではございませんわ」


――ざわめきの中、凛とした声が響いた。


広間の扉を開けて現れたのは、月光を溶かしたようなプラチナブロンドの令嬢。


リーゼロッテ・フォン・ゼーヴァッサー。


手には、分厚い帳簿の綴りを携えて。



「お久しぶりでございます、殿下。アメリア様」


私は静かに広間の中央へ進み出た。誰一人、言葉を発せない。


「な、なぜお前がここに――」


「王家からの、正式な要請でございましたので」


私は帳簿を、そっと机の上に広げた。


「まず、事実を整理いたしましょう。皆様が『聖女の奇跡』と信じておられた月銀水――あれは、祈りで生まれるものではございません」


ページをめくる。何年分もの、緻密な記録。


「採取に必要なのは、水温の管理。月齢の計算。湖底に育てた特殊な菌床の維持。そして、原水に含まれる猛毒の――中和処理でございます」


アメリアの顔が、みるみる青ざめていく。


「アメリア様が献上なさった水には、その中和処理が施されておりませんでした。ゆえに、飲んだ方々が中毒を起こされた。……当然のことでございます」


「そ、そんなの、あなたが後から仕込んだのかもしれないじゃない!」


「では、この帳簿の日付を、ご覧くださいませ」


私は淡々と指し示した。


「毒性の中和記録は、すべて満月の翌日に記帳されております。何年も前から、欠かさず。……祈りで聖水が出るのなら、なぜ私は、毎月これほどの手順を踏んでいたとお思いですか?」


沈黙。


貴族たちが、ようやく理解し始める。


「あの薬は、奇跡ではございません。――労働でございます。私が命を削って積み上げた、技でございますわ」


私は、手荒れした指先を、そっと掲げてみせた。


何度も凍える湖水に浸かり、荒れ果てた指。これこそが、私が「祈り」ではなく「働き」で奇跡を支えてきた、動かぬ証。


「わ、私は……私は本物の聖女なのに……!」


アメリアが崩れ落ちる。もう、誰も彼女を庇わない。


「アメリア・ハーロウ。聖女詐称、および毒物献上の罪により――拘束せよ」


衛兵の声が、広間に響いた。



アメリアが引き立てられていったあと、ジェラルド殿下が、ふらりと私の前に歩み出た。


かつての傲慢さは、影も形もない。


「リーゼロッテ……私は、間違っていた」


「……はい?」


「戻ってきてくれないか。婚約を、いや、契約を――もう一度」


私は、静かに殿下を見つめた。


愛したのは、奇跡だったのだろう。だが、その奇跡を支え続けたのが誰だったのか、彼はようやく気づいたのだ。


遅すぎるほど、遅く。


「殿下」


私は、いつもどおりの丁寧語で告げた。


「あなたは、あの夜、はっきりと仰いました。『聖女の資格もない女に、王家は不要だ』と」


「あれは……あれは、誤解で――」


「誤解ではございません。あれは、あなたの本心でございましょう」


私は、一歩も引かなかった。声を荒らげることもなく。


「私が支えていたものの価値に、あなたは最後まで気づかなかった。……いいえ、気づこうともなさらなかった。それだけのことでございます」


(無給で無休、命がけで働いた私を『資格なし』と切り捨てておいて、都合が悪くなったら『戻ってこい』ですって? 冗談じゃないわ)


「契約は、すでに解除されております。そして――」


私は微笑んだ。凍える湖よりも、澄んだ心で。


「私はもう、誰かに『献上』するための聖女ではございません。ごきげんよう、殿下。どうか、お元気で」


背を向けて歩き出す。


今度こそ、二度と振り返らない。


王家の権威が音を立てて崩れていくのを、背中で聞きながら。



故郷の湖畔。


満月の夜、月光を浴びた湖面に、銀色の月銀水がふわりと浮かび上がる。


その幻想的な光景を前に、私は諸国から訪れた使者たちと、静かに商談を進めていた。


「月銀水は、品質保証つきでのご提供となります。採取量には限りがございますので、契約は先着順。価格は、こちらの品質等級表をご覧くださいませ」


前世の水質管理知識と、起業のノウハウ。


搾取される聖女から、価値を自分の手で売る経営者へ。


私の右腕として、マルグリットが経理と契約を一手に取り仕切る。


「すべて、記録に残してございます。ご安心を」


その彼女の言葉が、今はどれほど頼もしいことか。


使者たちが去ったあと、私はひとり、湖畔にたたずんだ。


「……ずいぶん、板についてきたな」


低く、ぶっきらぼうな声。


振り返ると、銀灰色の毛並みの獣人騎士が立っていた。鋭い金の瞳、傷跡の残る強面。


ヴォルフ・グラウフェル。


湖を守る古き契約者、『湖の守り人』の末裔。


「あなた、いつからそこに」


「ずっとだ」


彼はそっけなく言うと、無言で何かを差し出した。


小さな軟膏の瓶。


「……手、荒れてる。使え」


私は、思わず目を見張った。


「これ……」


「あんたが命削って積み上げてきた技だ。あれは奇跡なんかじゃねえって、俺だけは知ってた」


ヴォルフは、ぶっきらぼうに顔を背けた。照れているのが、丸わかりだった。


満月の夜、危険な湖へ通う私を、彼は何年も陰から護衛し続けていたのだと――今になって、知る。


(この不器用な優しさに、私はどれだけ支えられていたのだろう)


「あんたの水は、あんたのものだ」


彼は、大きな手を差し出した。


「今度は――誰にも渡すな」


私は、その手をそっと取った。


(……ええ。今度は、私が選びます)


手荒れた指先に、彼の手のぬくもりが、じんわりと沁みた。



それから、ひと月。


月光の幻湖のほとりに立ち上げた「ゼーヴァッサー商会」は、諸国からの引き合いで大盛況だった。


品質管理は徹底し、契約はすべて書面で。感情ではなく、記録と信頼で回る商い。


前世の私が夢見た、まっとうな仕事のかたち。


「お嬢様」


マルグリットが、一通の書状を手に近づいてきた。


「王家より、使者が。……謝罪と、月銀水の再契約を求めているとのことでございます」


私は、手にしていた品質等級表から顔を上げた。


遠く、湖畔へと続く道の向こうに、王家の紋章を掲げた馬車が、砂埃を上げて近づいてくるのが見える。


「まあ。ずいぶんと必死ですこと」


私は、くすりと笑った。


(疫病は止まらない。権威は地に落ちた。今さら頭を下げに来たわけね)


隣で、ヴォルフが低く唸る。「追い返すか?」


「いいえ」


私は、ゆっくりと立ち上がった。


「せっかくいらしたのですもの。まずは――こちらの『価格表』を、じっくりとご覧いただきましょう」


満月の光が、湖面に銀色の道を描く。


かつて無給で搾取された聖女は、もういない。


ここにいるのは、自らの価値を、自らの手で売る経営者。


馬車が、刻一刻と近づいてくる。


さて。


――どう転ぶと、思う?


(了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ