『幻の湖の聖女』と呼ばれた私、婚約破棄されたので湖ごと故郷へ帰らせていただきます~月光でしか汲めない万能薬、二度と献上いたしませんわ~【短編/完結】
「――君との婚約は破棄する。聖女の資格もない女に、王家は不要だ」
煌びやかなシャンデリアの下、社交界の中央で、王太子ジェラルドが高らかに宣言した。
彼の隣には、栗色の巻き毛を揺らして勝ち誇る男爵令嬢アメリア。周囲の貴族たちが、扇の陰でひそひそと囁き合う。
断罪の視線が、すべて私に――湖水公爵家の令嬢、リーゼロッテ・フォン・ゼーヴァッサーに突き刺さる。
ですが。
(あ、これ。前世で読んだ婚約破棄テンプレのやつだ)
私は背筋を伸ばしたまま、内心でひどく冷静にそう思っていた。
(ってことは、私、悪役令嬢ポジション? いや待って。落ち着け私。この国の『聖水』――全部うちの湖から出てるんですけど?)
前世の私は、日本の水質分析技師だった。過労で倒れ、気づけばこの世界へ転生していた。
そして今世の私が管理するのは、『月光の幻湖』。満月の夜、月光を浴びた時にのみ湖面に浮かび、そこでしか汲めない万能薬『月銀水』を産する秘湖だ。
国中の病人を救ってきたあの薬は、『聖女の祈りの奇跡』などではない。
水温、月齢、湖底の菌床管理、毒性の中和、採取タイミングの計算――前世の知識を総動員した、徹底的な科学的品質管理の成果である。
それを、誰も知らない。
「聞いているのか、リーゼロッテ! 貴様は聖女の名を騙り、王家の権威を利用してきた!」
ジェラルド殿下が声を張り上げる。
「私が本物の聖女なのに」
アメリアが小首をかしげ、勝ち誇った笑みを浮かべた。「湖なんて、ただの水たまりですわ。祈れば聖水くらい、私だって出せますもの」
――ほう。
私は静かに息を吐いた。怒りは、不思議と湧いてこない。
ただ、無給で無休、命の危険を冒して満月の夜に湖へ通い、国中の病人を救ってきた日々が、脳裏をよぎっただけ。
その私を、「資格なし」ですって?
(……かしこまりました)
私は、優雅に一礼した。
◇
「かしこまりました」
私は顔を上げ、澄んだ声で告げた。
「では、湖水公爵領の管理権と、月銀水の献上契約――すべて、返上させていただきますわ」
一瞬、広間が静まり返った。
ジェラルド殿下が眉をひそめる。「……何を言っている?」
「言葉のとおりですわ、殿下」
私はドレスの内側から、一枚の証書を取り出した。淡く魔力の光を帯びた、契約魔法の証。
「この国と月銀水の供給契約は、『聖女リーゼロッテ個人』と結ばれたものです。公爵家でも、湖水領でもございません。わたくし個人、と」
証書を掲げる。金の文字が、シャンデリアの光を弾いた。
「婚約の破棄は、すなわち――王家とわたくしの関係の終焉。ならば、この契約もまた、ここに解除されるのが道理でございましょう?」
ざわり、と貴族たちがどよめいた。
(さあ、どうぞ気づいてください。あなた方が飲んでいた『聖水』が、明日から一滴も届かなくなることに)
「な……そんなもの、認めるわけには――」
「認める、認めないの問題ではございません」
私は、静かに、しかしはっきりと殿下の言葉を遮った。
感情を荒らげることなく。ただ淡々と。
「契約とは、双方の意思で成り立つもの。片方が『不要』と切り捨てたなら、それはもう、契約ではございませんわ」
アメリアが、勝ち誇ったまま笑っている。契約の意味など、何一つ理解していない顔で。
「けっこうですわ。祈れば聖水が出せるのでしょう? でしたら、何も問題ございませんわね」
私は微笑んだ。心の底から、穏やかに。
「では――失礼いたします。ごきげんよう、殿下」
ドレスの裾をつまみ、最後の一礼。
背を向けて歩き出す私を、誰も止められなかった。
(さようなら、私を『当然』のように使い潰した国。二度と、あなた方に月銀水は渡しません)
◇
公爵家の馬車に乗り込むと、老家令のマルグリットが、静かに待っていた。
白髪を隙なく撫でつけた、いつもの品格。彼女は私の顔を見るなり、すべてを察したように目を細めた。
「お嬢様。……婚約を、破棄されたと」
「ええ。しかも『聖女の資格なし』ですって」
私は座席に身を沈め、ようやく令嬢の仮面を少しだけ緩めた。
「マルグリット。私、疲れてしまったわ。満月のたびに氷のような湖に入って、菌床の温度を測って、毒を中和して……それを『祈りの奇跡』と呼ばれて、感謝の一つもなく」
「……存じております」
マルグリットは静かに頷いた。
「お嬢様が、どれほど過酷な労働と危険を冒してこられたか。私は、そのすべてを間近で見てまいりました」
彼女は、膝の上に置いていた分厚い綴りを、そっと私に差し出した。
「採取日誌。供給帳簿。そして――契約書の写し。すべて、記録に残してございます」
私は、思わず息を呑んだ。
採取した月銀水の量、日付、月齢、水温、救った病人の数――何年分もの労働の記録が、寸分の狂いもなく整理されている。
「では、お嬢様」
マルグリットが、静かに微笑んだ。
「契約書の綴りは、こちらに。……逆転の武器は、感情ではございません。記録でございます」
(……ああ、そうだった)
前世でも、今世でも。
私を救うのは、いつだって「祈り」ではなく「事実」だった。
「マルグリット」
「はい」
「故郷へ帰りましょう。湖のほとりへ。――今度は、私自身の手で、価値を売るの」
老家令は、深く一礼した。
「かしこまりました。経理も、人事も、この私めが。……お供いたします、お嬢様」
◆
――アメリア視点
満月の夜。
私は、王都から遠く離れた『月光の幻湖』の湖畔に立っていた。
「ふふ、こんなただの水たまりで、あの女は聖女気取りだったのね」
月光を映した湖面は、確かに美しい。けれど、それだけ。
「見ていなさい。本物の聖女がどういうものか、教えてあげるわ」
私は両手を組み、うっとりと祈りを捧げた。
「聖なる月の光よ、我が祈りに応え、聖水を――」
……何も、起きない。
湖面は、ただ静かに月を映しているだけ。
「……おかしいわね」
もう一度。今度はもっと大きな声で。
「聖水よ、浮かびなさい! 私は本物の聖女なのよ!」
やはり、何も。
さざ波ひとつ、立たない。
(あの女は祈るだけで聖水を出していたのでしょう? どうして私にはできないの?)
苛立ちが募る。私は、知らなかった。
月銀水の採取には、水温の調整も、月齢の計算も、湖底に育てた菌床の管理も、そして――採れた原水の猛毒を中和する繊細な手順も、すべてが必要だということを。
祈りなど、一切、関係ないということを。
「……いいわ。だったら、この水を汲んで持ち帰ればいいだけよ」
私は湖面に手を伸ばし、月光に浮かんだわずかな銀色の水を、瓶に汲み取った。
「これで十分。誰も、本物と偽物の区別なんてつかないんだから」
――ええ、そうね、アメリア。
あなたには、区別がつかない。
その水に、どれほどの毒が溶けているのかも。
◇
月銀水の供給が途絶えて、ひと月。
王都では、静かに、しかし確実に、異変が広がっていた。
かつて月銀水で抑え込まれていた疫病が、再び流行し始めたのだ。
病床に伏す民が増え、貴族の子女までもが熱に倒れる。医師たちは口を揃えて言った。「あの万能薬さえあれば」と。
だが、聖女はもういない。
ジェラルド殿下は焦った。「アメリア! お前が聖女なのだろう! 早く聖水を!」
「え、ええ。もちろんですわ、殿下」
アメリアは、湖畔で汲んできた「偽月銀水」を、王家に献上した。
毒性の中和など、一切されていない、ただの湖水を。
それを飲んだ貴族たちが、次々と倒れた。
激しい嘔吐、痙攣、高熱――中毒症状だった。
「な、なぜですの!? 私はちゃんと湖から汲んできたのに!」
蒼白になるアメリア。
医師が震える声で告げた。「これは……聖水ではありません。毒です。中和されていない、ただの毒水だ!」
広間が凍りついた。
「聖水を、祈りで出せると仰っていたのでは?」
「本物の聖女だと、断言されていたはずでは?」
貴族たちの視線が、一斉にアメリアへ突き刺さる。かつてリーゼロッテに向けられたのと、同じ視線が。
「ち、違うの! これは何かの間違いで――!」
「間違い、ではございませんわ」
――ざわめきの中、凛とした声が響いた。
広間の扉を開けて現れたのは、月光を溶かしたようなプラチナブロンドの令嬢。
リーゼロッテ・フォン・ゼーヴァッサー。
手には、分厚い帳簿の綴りを携えて。
◆
「お久しぶりでございます、殿下。アメリア様」
私は静かに広間の中央へ進み出た。誰一人、言葉を発せない。
「な、なぜお前がここに――」
「王家からの、正式な要請でございましたので」
私は帳簿を、そっと机の上に広げた。
「まず、事実を整理いたしましょう。皆様が『聖女の奇跡』と信じておられた月銀水――あれは、祈りで生まれるものではございません」
ページをめくる。何年分もの、緻密な記録。
「採取に必要なのは、水温の管理。月齢の計算。湖底に育てた特殊な菌床の維持。そして、原水に含まれる猛毒の――中和処理でございます」
アメリアの顔が、みるみる青ざめていく。
「アメリア様が献上なさった水には、その中和処理が施されておりませんでした。ゆえに、飲んだ方々が中毒を起こされた。……当然のことでございます」
「そ、そんなの、あなたが後から仕込んだのかもしれないじゃない!」
「では、この帳簿の日付を、ご覧くださいませ」
私は淡々と指し示した。
「毒性の中和記録は、すべて満月の翌日に記帳されております。何年も前から、欠かさず。……祈りで聖水が出るのなら、なぜ私は、毎月これほどの手順を踏んでいたとお思いですか?」
沈黙。
貴族たちが、ようやく理解し始める。
「あの薬は、奇跡ではございません。――労働でございます。私が命を削って積み上げた、技でございますわ」
私は、手荒れした指先を、そっと掲げてみせた。
何度も凍える湖水に浸かり、荒れ果てた指。これこそが、私が「祈り」ではなく「働き」で奇跡を支えてきた、動かぬ証。
「わ、私は……私は本物の聖女なのに……!」
アメリアが崩れ落ちる。もう、誰も彼女を庇わない。
「アメリア・ハーロウ。聖女詐称、および毒物献上の罪により――拘束せよ」
衛兵の声が、広間に響いた。
◇
アメリアが引き立てられていったあと、ジェラルド殿下が、ふらりと私の前に歩み出た。
かつての傲慢さは、影も形もない。
「リーゼロッテ……私は、間違っていた」
「……はい?」
「戻ってきてくれないか。婚約を、いや、契約を――もう一度」
私は、静かに殿下を見つめた。
愛したのは、奇跡だったのだろう。だが、その奇跡を支え続けたのが誰だったのか、彼はようやく気づいたのだ。
遅すぎるほど、遅く。
「殿下」
私は、いつもどおりの丁寧語で告げた。
「あなたは、あの夜、はっきりと仰いました。『聖女の資格もない女に、王家は不要だ』と」
「あれは……あれは、誤解で――」
「誤解ではございません。あれは、あなたの本心でございましょう」
私は、一歩も引かなかった。声を荒らげることもなく。
「私が支えていたものの価値に、あなたは最後まで気づかなかった。……いいえ、気づこうともなさらなかった。それだけのことでございます」
(無給で無休、命がけで働いた私を『資格なし』と切り捨てておいて、都合が悪くなったら『戻ってこい』ですって? 冗談じゃないわ)
「契約は、すでに解除されております。そして――」
私は微笑んだ。凍える湖よりも、澄んだ心で。
「私はもう、誰かに『献上』するための聖女ではございません。ごきげんよう、殿下。どうか、お元気で」
背を向けて歩き出す。
今度こそ、二度と振り返らない。
王家の権威が音を立てて崩れていくのを、背中で聞きながら。
◆
故郷の湖畔。
満月の夜、月光を浴びた湖面に、銀色の月銀水がふわりと浮かび上がる。
その幻想的な光景を前に、私は諸国から訪れた使者たちと、静かに商談を進めていた。
「月銀水は、品質保証つきでのご提供となります。採取量には限りがございますので、契約は先着順。価格は、こちらの品質等級表をご覧くださいませ」
前世の水質管理知識と、起業のノウハウ。
搾取される聖女から、価値を自分の手で売る経営者へ。
私の右腕として、マルグリットが経理と契約を一手に取り仕切る。
「すべて、記録に残してございます。ご安心を」
その彼女の言葉が、今はどれほど頼もしいことか。
使者たちが去ったあと、私はひとり、湖畔にたたずんだ。
「……ずいぶん、板についてきたな」
低く、ぶっきらぼうな声。
振り返ると、銀灰色の毛並みの獣人騎士が立っていた。鋭い金の瞳、傷跡の残る強面。
ヴォルフ・グラウフェル。
湖を守る古き契約者、『湖の守り人』の末裔。
「あなた、いつからそこに」
「ずっとだ」
彼はそっけなく言うと、無言で何かを差し出した。
小さな軟膏の瓶。
「……手、荒れてる。使え」
私は、思わず目を見張った。
「これ……」
「あんたが命削って積み上げてきた技だ。あれは奇跡なんかじゃねえって、俺だけは知ってた」
ヴォルフは、ぶっきらぼうに顔を背けた。照れているのが、丸わかりだった。
満月の夜、危険な湖へ通う私を、彼は何年も陰から護衛し続けていたのだと――今になって、知る。
(この不器用な優しさに、私はどれだけ支えられていたのだろう)
「あんたの水は、あんたのものだ」
彼は、大きな手を差し出した。
「今度は――誰にも渡すな」
私は、その手をそっと取った。
(……ええ。今度は、私が選びます)
手荒れた指先に、彼の手のぬくもりが、じんわりと沁みた。
◇
それから、ひと月。
月光の幻湖のほとりに立ち上げた「ゼーヴァッサー商会」は、諸国からの引き合いで大盛況だった。
品質管理は徹底し、契約はすべて書面で。感情ではなく、記録と信頼で回る商い。
前世の私が夢見た、まっとうな仕事のかたち。
「お嬢様」
マルグリットが、一通の書状を手に近づいてきた。
「王家より、使者が。……謝罪と、月銀水の再契約を求めているとのことでございます」
私は、手にしていた品質等級表から顔を上げた。
遠く、湖畔へと続く道の向こうに、王家の紋章を掲げた馬車が、砂埃を上げて近づいてくるのが見える。
「まあ。ずいぶんと必死ですこと」
私は、くすりと笑った。
(疫病は止まらない。権威は地に落ちた。今さら頭を下げに来たわけね)
隣で、ヴォルフが低く唸る。「追い返すか?」
「いいえ」
私は、ゆっくりと立ち上がった。
「せっかくいらしたのですもの。まずは――こちらの『価格表』を、じっくりとご覧いただきましょう」
満月の光が、湖面に銀色の道を描く。
かつて無給で搾取された聖女は、もういない。
ここにいるのは、自らの価値を、自らの手で売る経営者。
馬車が、刻一刻と近づいてくる。
さて。
――どう転ぶと、思う?
(了)




