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猫観のイリオ  作者: あいえる


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プロローグ『パラティリシ/観測者』


 熱い風がただでさえ荒れた大地を焦がしていく。

 耐性の無い防具を身にしている者は同様にその身を焦がし、渇いた地に次々に倒れていった。


 金属加工した鎧であれ、革を加工した軽装備であれ。

 竜が吐く炎への対抗手段を持っていない者はその場を生き残れないのは、一目瞭然であった。


 盾や鎧に細工をしている者。生まれた時からその才を手にしている者。契約を交わした者に頼っている者など。

 黒き竜を前に未だに立っている者は数える程しかいない。数十といった数なんて意味は無かったということだ。


 ぎらと畏怖を抱かせるその暗い瞳が敵を捕らえる。

 周りを飛ぶ虫に等しい存在だった者達がここで初めて敵として認識されることになる。


 ――それは偶然。意図していない遭遇。

 竜の吐いた炎による熱さが原因ではない、その発汗の感覚。


 自分達よりも遥かに大きな身体を持つ竜を見て、生き残った者達は共通して思っていた。

 どうすればここから逃げられるのか。どうすればここから生き延びられるのか。


 強敵を打ち倒すなんて選択肢は最初から無い。

 それは己の力を過小評価した結果ではない。恐怖に怖気づいたのが理由でもない。


 一騎当千。まさに軍勢を相手にたった一人で立ち向かえる英傑。

 そんな力を持った者が冷静に判断した結果が勝つことができないという状況なのであった。


 しかし、だから諦めるという思考回路を持つ者は一人としていない。


 逃げる方法を。生き延びる方法を。

 じり、僅かな砂を踏みしめるその音がよく聞こえるのは。


 それは驚くほどに静かで。そして呆れてしまう程に変化の無い風景で。

 次はあるのか。あの竜の炎を次は耐えることができるのか。次が来る前に動くべきなのか。


「――退避っ!」


 およそ指令を出すような立場に見えない少女の一声が状況を動かす。

 ある者は即座に言葉通り逃げの一手を。そしてある者は一瞬戸惑った後、逃げの選択を。


 焼き焦げた肉の匂いというにはあまりにも他物が混じり合った異臭。

 蛇に睨まれたなんとやら。背を見せたことによる視線からの解放が生んだものが嗅覚の正常性であった。


 緊張に張りに張った糸が少し緩んだせいで正常へと向かいつつある感覚は、事態を好転させることなどない。

 冷静へと迫る迫る一歩を重ねる度に近づくのは狂乱への分かれ道。


 唸る。それは敵への最終警告かそれとも既に決まった火の息を吐き出す前触れか。

 一度聴いてしまえば片時も忘れることができない恐怖の象徴。果たして、その恐怖を明日に思い出すことができるのだろうか。


 それは音が先だったか。それとも熱いと感じるのが先だったか。

 はて視界を覆う炎があったと認識したのが一番であったのか。


 号令を下した少女を竜の吐いた炎が包む。

 先頭、否。それは殿(しんがり)のあるべき姿がそこにはあった。


 敵からの追撃を防ぐたった一人で維持しなければならない最終防衛線。

 瞬間、彼女の頭の中にあったのは何であったのだろうか。


 真っ赤に染まる視界。血管の先まで気泡が生まれているかのような、沸騰を思わせるかのような錯覚。


 熱い。熱いと叫びたくなるのは感情が昂っているせい。

 見事に竜の炎を防いでいるその事実と視覚からの情報が交じり合っているせい。


 自らを称えたくなるこの一瞬が長く。

 そして思考を加速させるには短すぎた刹那に、迫るのは龍の巨体。


 全身を護ってくれる金属製防具よりも遥かに防御力の劣る軽装備。

 胸や頭など、急所以外は動きやすさを重視したおよそ竜の大質量からの一撃には耐えられそうにない装備。


 叩かれるようにして全身が吹き飛ぶような当たり方であれば受け身の取り方次第でどうにかなったのかもしれないが。

 しかし、事態の全てが思うようには進まない。いかに最善をと努力を尽くしても泣きに終わることもある。


 防御が間に合っていれば。否、この場合は防御が間に合わなかったおかげと言えるだろう。

 意図した回避であったのか恐怖にたじろいだ結果の後ずさりであったのかはさておき。


 横っ腹が竜の爪に持っていかれた。変に抵抗が無かったおかげだろうか、内臓が余計に引き抜かれることは無かった。

 勢いが殺されなかったおかげで詰めの通った軌道そのままの箇所だけ綺麗さっぱりになったのだ。


「――っ!」


 それは喉から出た悲鳴であったのか、ただ腹から空気が抜ける音であったのか。

 食事中にむせて口から食べていた物が出ていく感覚。涎か、血か。固形物を吐き出したかのように思えたのは相当の量が排出されたということなのだろう。


 一度真っ白に……いや、それとも真っ黒にか。それも判別できない一呼吸の内に少女の瞼の裏に張り付いていた瞳孔がチラリと顔を出す。

 果たして僅かに視界に入った竜の顔が正常に脳で処理されているのかどうかだが……。


 鞭のようにしなって襲い掛かる竜の尾に反射の類一つもなく無抵抗のままであったということは、既に意識など飛んでいるのであろう。

 もっとも、仮に意識を保ったままであったとしても結果に変わりはなかったのであろうが。


 骨が折れているだけであれば上々。手足が千切れていないのであれば幸い。生きているのならばそれに勝るものはない。

 どこまで少女は弾き飛ばされたのか。水面を跳ねる薄石の如く、大地を跳ね転がった少女の身体は人としての形を保っていた。


 日頃の訓練の賜物か。今回に限っては運によるものなのか。

 臓器の一部がごっそり消え失せている以外は問題ないと言えるだろう。


 戦闘の終わりを悟ったのか。逃げた人へ警戒など一瞬に終えて翼を広げる黒き竜。

 転がる何十もの死体に影を落とし、そして一度の羽ばたきで大空へと飛び消えていく。


 生き残ったのは逃げた者の数名と最後まで竜に立ち向かった少女であった。


 ――それは荒れた地での日常。竜を目の前にするなんて出来事が発生するのは稀だが、生物同士の争いという括りでは特別珍しくはない。


 数分。それとも一刻を経ての覚悟か。

 穢れに染まった獣の餌食になる前にと殿を務めた少女を救うべく動いた者達と。


 そしてそれを遠くで観測していた者が一人。


「……綺麗だ」


 虚ろな瞳が。ハイライトの乏しい瞳が徐々に変化していく。

 呟いた言葉の意味は。このだだ広い死んだ土地でたった独りで居た意味とは。


 揺れるのは天秤。自らの役割を放棄するのか、否か。

 目の前で起きた出来事をきっかけに彼は生きる道を選ぶことになった。


 物事を観測し結果を確定させるシステムに生まれた存在が人の形を成していく。

 さて。見てしまったからにはどうにもこのまま終われないだろうと。


 それは神の眼をも欺くための。それは自らの想いを欺かないための。

 はて。物事は一体どの瞬間に結果が確定するのだろうか。


 人の目で見た瞬間か。人は関係なく生物がその目で見た瞬間か。光が何か、フィルター越しに記憶させた瞬間か。

 仮に起きた出来事が何にも干渉されないままであれば結果は確定しないのか。


 結果が記録される前であれば自在に中身を改変できるのであるとするのならば。

 では。目の前の出来事は信頼に足るモノであるのか?


 誰かの。何かの力によって改ざんされている可能性があるのならば。

 果たしてこの世界は何を以てして現実を真実だと受け入れれば良いのか。


『――目を背けてしまえば無かったことになるのだろうか』


 神の落とした力の欠片。

 想いを願いを実現させるための力を人は魔法と呼ぶ。


 獣を狩る武器の一つとして。肉を焼く手段の一つとして。目を背けたい事実を誤魔化す装置の一つとして。

 万能であるが故に誰しもが平等にその力を持つべきであったのだろう。憂いことにその才に選ばれた者は数多くなく。


 人を救うことにも逆に脅かすことにも利用され。魔法の才を持つという価値は際限がなかった。


「君はここで死んでいい存在じゃない」


 それは奇跡。願望を例外なく叶える力を魔法と呼ぶのなら。

 なぜ人は死にそして生きるという概念が存在しているのか。


 それは未だに人が死を克服していないから。

 いかに魔法の力であっても人の死から目を背けることができていないから。


 魔法は万能ではないのか。魔法だけでは万能に至っていないということなのか。

 では果たして何の要素が加われば万能たり得るのか。


 少なくとも、今。その瞬間に。


「君はまだ生きていて」


 死を否定した一例が生まれてしまった。

 そしてそれは、人の死が改ざんされたということ。


 万能を否定する要因であった人の生死が。

 たった一人のその行動によって魔法の概念を歪ませていくのであった。


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