2026/4/20
よう!新生活きつくね?つかもう4月も終わっちゃうね!
私が私と言うようになったのはいつからだったか。もひゃ覚えてね~ですよ。なんでなんすかね。
私は一人称を『私』にすることで、何をしたかったか。それは自らを切り離すこと。客観視、という言葉を知っているかね?ま、簡単に言えば自己乖離だ。自らを他人にして、自分を対象に他責する。自分の心は痛まないけど、人のせいにしたっていう事実が失敗を自分のせいではないと正当化していたのだと思う。そのくせは治っていない。
昔の話だが、お世話になった家庭教師の先生がいたんだ。親身な先生でね、できの悪い私をまともな人間のフリができる人間にしてくれた。当時、私は出来が悪いから、宿題を忘れることが何度もあったんだ。そのたびに怒られて、言われたんだ。「君が起こられてるんだ」って。僕は僕なんだっていう、当たり前の事が、僕には理解できなかった。でも、一人称が私になった頃、『私は私なんだ』と、やっとその言葉の意味を理解した。
その時私は16位だったかな。中二病も多少薄まって、過去を振り返り、自らの痴態を自覚した頃だった。普通、自己が自己であることは、疑いようのない事実だ。でも、当時の私にはそれが理解できていなかった。どこか、自分に疑問を抱いていたのだ。それがどういったものなのかは説明できない。説明できたとしても、その疑問は例えば『人間にはなぜ心が存在するのか』というような、いまだ答えの分からない疑問になってしまう。現在の私でも、あまり具体的には表現できない形になってる。
それはなぜか。私の自己乖離は、心理学的な解離症のようなものとは違う、自ら定めた曖昧なルールによって自ら引き起こしていたからだ。ここは全くもって専門外なので、俺はでたらめを言う可能性が高いから、眉唾程度に聞いてほしい。そのルールは、『私はあくまでも観測者』『肉体の私は、精神の私とは違う』。ゲーム感覚というのに近いだろうか。私はあくまでも『私』という存在を眺めているだけの愚か者に過ぎないという事だ。自分であって自分でないということ。何といえばいいか、私は『私』と同一の声、肉体、名前を持った物語の主人公であると仮定してほしい。そして、『私』という主人公に全く感情移入をしていない感じだ。そう。感情移入していないキャラクターに思い入れがなくなるように、私は当時とっても忘れっぽくなっていた。より言えば、阿保だった。
客観視と言えば聞こえはいいが、実際は自らを興味のないキャラクターとして自分を愛せなかっただけなんだ。第二次性徴もあり、肉体と精神の乖離が始まることと、自らを客観視しようとしたことが重なったことで、自分を見る視点が随分と遠く離れた場所に置かれたのだろう。失敗を恐れるがあまり、失敗を気にしないように、あるいは忘れるためにそういったことが起こるのだろう。ちょっと調べたが、解離性健忘のようなものだろう。
それは未だに治っていない。まだまだ忘れっぽい。昨日の晩に何を食べたか、今日の朝何を食べたか、明日何をすべきなのか。これらを最低1つは毎日忘れている。ひどいときは全部忘れることもある。前日が忙しくても、何をしたのか覚えていないから、急に疲労がたまったように感じる日もある。これ、超面倒。思い出せるときもあれば、全く思い出せない事もあるのがたちが悪い。覚えられるならすべてを記憶しておきたい。この文を書いたことすら、しばらく忘れるんだろ?クソが。ああ、なんか急にイライラする。こういう時は、何か『忘れている事』に気が付いたときが多い。何かを忘れたということはわかっても、何を忘れたかがわからない。気持ち悪い。
はあ。書いてたら疲れてきた。今日はこの辺でお開きにしよう。これ読んだ奴は速く寝るんだぞ。早寝早起きして健康を得るんだぞ。




