【第五章】第七話~リンクする想い~
凪との書道教室が何日か過ぎた頃、すっかり凪は元気になっていた。むしろ今までよりも自信に満ちている。
夏希と黒岩が喜んでいると、凪がとりあえずこの書道教室を解散しようと言い出した。
凪は親にも強く言えた。だからもう、大丈夫だと。
そして九月中旬、涼香から部活が終わったら一緒に帰ろうと言われる。
とうとうその日が来た。夏希は何度も悩んだけど、自分の答えをもう一度見つめ直すのだった……。
それから何度も放課後、凪の書道教室に黒岩と参加した。
相変わらず凪の指導は厳しいけど、徐々に凪も明るく元通りになっていく様子に私も黒岩も嬉しくて、教えた成果を見せてあげたいと一生懸命取り組んだ。もちろん一朝一夕で字が上達する事なんかない。それでも意識を変える事で多少マシになったような気がする。
「凪も黒岩君も初日よりは良くなってるよ」
「間宮の教え方が上手いからだな」
黒岩が嬉しそうに笑う。普段クールを装ってるから、あまりこういう顔は見ないので新鮮だ。これは凪も嬉しいだろうな。
「ほんとだね。ねぇ凪、こうして教えるのってどういう感じ? 今までの書道の向き合い方と変わった感じする?」
顎に人差し指を添え、凪が少し考える。
「そうだね、今までは自分の上達や周囲の評価ばかり考えていたけど、こうして誰かに教えて上達するのを見るのは楽しいかも。私の技術や想いが伝わってるのかなって思うと、嬉しくなるよ」
「なんだか凪、最近はすっきりした顔してるもんね」
そう、凪は本当に変わった。それは落ち込んでいた時の顔からではなく、それ以前の普通だった時よりも随分成長したように見える。変に力が入っておらず、自然体だけど自信に満ちていた。
「二人のおかげだよ。実はこの前、両親に言ったんだよね。私はこれからなんだから、もっとしっかり見てって。挫折した事の無い人なんかいないし、成功し続ける人もいない。お父さんやお母さんだって、常に一番じゃないでしょうと」
「えぇ、ほんとに凪がそんな事言ったの?」
私は驚き、黒岩の方を見る。黒岩も信じられない様子だったらしく、目を丸くしていた。
「うん。初めて親に対して強く言ったんだ。だからビックリしてたよ」
「親御さん、何か言ってたのか?」
「何だかんだと言ってたけど、今の私の実績と当時の両親の実績はどうなのって言ったら黙ったよね。見下すとかそういうんじゃないんだけど、頑張ってる事は正当に評価されたいからさ。それに、そう言えたのは本当に二人のおかげなんだ」
ふっと凪が目を細めた。
「二人が落ち込んでいた私を励まし、付き合ってくれた。教える喜びを改めて知り、そこから見方が変わったの。そうしたら私、何のために書道を続けていたのかって思い出してね。色々あるけどやっぱり、好きなんだなって」
「そうじゃないと続けられないよな」
実感がこもったように黒岩がそう言いながらうなずく。黒岩だって演技などで色んなオーディションを受けたり、レッスンしたりして苦労している事も多いはずだ。だから凪に自分を重ねる部分もあったのだろう。
「そうなんだよね。だから、もう大丈夫。勝手なんだけどこれで二人の書道教室は終わりにしようと思うんだ。ほら、二人とも忙しいでしょ。夏希は吹奏楽部あるし、黒岩君も芸能界に入るために色々やる事だってあるだろうから」
凪が私達にそれぞれ微笑みかけると、自然と私達も同じような顔をしていた。あぁ、凪はもうこれで大丈夫なんだ。そんな安堵が半分を占めていた。
もう半分はこのスパルタ授業を受けなくて済む事だ。
「そうだね、私もそろそろ部活に戻らなきゃって思ってたんだ」
「俺もまぁ、そうだな。間宮の姿見てたら、もっと頑張らないとって思ってたから」
温かな空気が漂う。私達は同じ環境で頑張っていたからか、不思議な絆が生まれていた。正直黒岩とこんなに一緒にいる事なんか無かったし、話す事も今までそんなに多くなかった。だからこそ、新た発見も色々あった。
凪だってそうだ。
今までは友達として接してきていたけど、どこか「六人の一人」という感覚だった。真剣に相談した事も無ければ、相談された事も無い。仲は良いけど、本音をぶつけ合える関係ではなかった。
それはまだ今でもできていないのかもしれない。だけどこの時間は確かに私達を強く結びつけるのに必要で、大事な時間だった。だって私の心が満たされていくのを感じていたのだから。
「でもまぁ、書道の授業の時はアドバイスくらいはするからね。成績、ちょっとでも良くなる方がいいでしょ」
「ありがとう凪」
「悪いな。まだまだ求めるレベルには達してないから、ありがたいよ」
それにしても本当に凪の前だと黒岩はよく喋る。私はそんな黒岩を微笑ましく思いながらも、意識して表情を変えない。二人ともきっと、そういうのに触れると冷めてしまうタイプだろうから。
「それじゃ、そろそろ私は行くね」
「うん、またね」
私は手を振り、その場を離れた。黒岩はついてこない。私はその意味にすぐ思い当たると、こっそり含み笑いをしながらカバンを取りに教室へと向かった。
「ねぇ夏希、今日一緒に帰ろうよ」
九月中旬のある日、帰りのホームルームが終わったので部活に行こうとしていたら涼香にそう言われた。
部活のある日は帰る時間が同じだから、別に特別な事が無い限りはそうしている。だけどわざわざそう言うって事はきっと、その日が来たのだろう。
涼香が私に想いを伝える日。
「わかった」
私はいつものように、何気なく答える。けれどその言い方が変じゃないか、どこか演技しているように思われているんじゃないだろうか、気が気じゃなかった。だけど涼香はそこに言及せず、特に何も言わずそのまま音楽室へと歩き出す。
隣を歩く涼香の横顔はいつも綺麗だ。見慣れているのに気持ち一つでこんなにも見え方が変わってくるなんて、不思議な感覚。温かくて、苦しい。切なくて、嬉しい。愛おしくて、怖い。そんな相反する感情が渦巻く。
「ん、どうかした?」
つい見惚れる時間が長かったのだろう、涼香が不思議そうに私を見てきた。私はちょっと慌てて首を横に振る。
「何でもない。今日も上手くできればいいなって思ってたんだ」
「夏希は凪と習字してたから、少し部活から離れてたもんね。でもすぐ取り返せてたじゃない」
「そうなんだけどさ」
いつも通りの涼香の口調、何も変わらない声のトーン。もしかしたら今日は特に何も無いのかななんて思っちゃうけど、でもきっと隠しているだけだ。
どうしてそんなに上手く隠せるんだろうか。もしかして芸能界とか大人の世界で色々あったから、上手くなったんだろうか。それがもしかしたら、私が思っている以上に涼香の心の壁を高くしているのだろう。
私がこうやって接している涼香は本当の涼香じゃないんだろうか。
部活が終わると私と涼香は教室へカバンを取りに戻った。九月中旬ともなれば何だか少しずつ日が短くなっているような気がして、夕焼けが妙に赤い。音楽室を出てからほぼ無言だった私達は互いに何かを意識している。けれどまだそれを表に出せない。
「涼香、オーディションはどんな感じなの?」
その沈黙に耐えられなくなった私はもう何度か聞いた話題を振る。もちろんこの世界線ではこの質問はまだしていない。
「あー、まぁ二次は通ったかな。でも、厳しいと思う」
苦笑いしつつ涼香がカバンを持つ。そこには以前私がプレゼントしたシマエナガの小さなぬいぐるみがついていた。それは去年ネットで見つけ、可愛かったから贈ったもの。私のカバンにもついていて、それを見る度に特別な関係を強く思う。以前は友達として、でもこの放課後以降はどうだろうか。
「涼香がそう言うって事はかなり大がかりなやつなんでしょ?」
「まぁ、ね。だから厳しいと思うんだよね。だって大手事務所から名だたる人が出てるからさ。正直、うちの事務所や私なんかじゃ太刀打ちできないよ」
「映画?」
「そうだね。村部隼太監督がカンヌに出すって噂の映画。だからね、遠藤環さんとか姫野未来さん、佐伯桂里奈さんとか日本を代表する俳優ばっかりだよ。正直そのレベルなら私なんかじゃどんなに演技力があっても無理」
日本を代表する監督、そして映画やドラマはほぼこの三人でヒロインを回している現状では確かに涼香じゃ分が悪い。
「合宿とか頑張ったのにね」
少し悔しそうに私が言うけど、涼香は一つ笑っただけ。
「そもそも、無謀な挑戦だってわかっているのにね。事務所も親も大金かけてるから、引くに引けないんだと思う。これで落ちたってなったら、どうなるんだろう」
ふっと涼香の視線が下がった。けれどすぐ、無理して笑う。
「ごめん、愚痴っちゃって。帰ろう」
サッと歩き出す涼香の背に、立ち止まったままの私が伝える。
「別に私になら幾ら言ってもいいのに」
「……ありがとう」
涼香が立ち止まり、聞こえるか聞こえないかの声でそう言ってきた。だから私は今度こそ涼香の隣に立ち、一緒に教室を出た。
グラウンドからまだ響く運動部の掛け声。私達はそれを背に校門を出、いつもの帰り道を歩く。まだ少し熱のこもった秋風が通り抜けると、秋の匂いがした。夕焼けが街並みを赤く染め、幻想的な光景が広がっている。
今見る景色はいつだって新しいはずなのに、どうしてか懐かしさを強く抱く。
そんな事を考えてしまうのはきっと、これからの事に緊張しているからかもしれない。いつもなら涼香ももう少し色々話しかけてくれるのに、さっきから無言。でも不機嫌そうってわけじゃなく、どこか普通を演じているように見える。
通り過ぎる車の音、どこか遠くで駆け抜けるバイク、脇を過ぎる自転車。近くの公園からは小学生の大きな声が響いた。世界は音で溢れているはずなのに、私達の間は無言のまま。だからこそ、一歩ごとに緊張が高まっていく。
いつもの分かれ道に差し掛かったが、涼香は何も言わずそこを曲がらない。そのまま私の家の方へ向かい、かと思えば違う道を曲がる。初めての時は驚いたけど、もう三度目ならば見慣れた道だ。
住宅街の方に入り、次第に表通りから離れていく。そうして周囲の喧騒がほとんどなくなった頃に現れる、人気のない小さな公園。その滑り台の所まで近付くと、涼香は足を止めうなだれた。
何度か見た光景、何度も失敗した選択。だからもう、迷っていない。
もう一度私は自分の中の答えを握りしめる。最初はわからなかった、二回目はわかっていても戸惑った。それは私の中で答え合わせが出来ていなかったから。その意味からくる未来を想像できなかったから。だから涼香を傷付かせてしまった。
親友に恋をする。それは今までの関係全部壊すと言う事。
私は失う恐怖が勝っていた。そもそも女の子と恋愛するなんて考えた事も無かった。だから躊躇した。でも今、じっくりと自分の心と涼香の心に向き合い、答えが出た。
一歩前へと踏み出す。すると涼香も私の方へと歩み寄り、抱きついてきた。柔らかな匂いと感触に愛おしさを感じながら私はすぐ抱き締め返す。
すると私の胸元に顔を埋めた涼香が、更に強く抱きついてくる。少しずつ涼香の体温が伝わってきた。
「夏希」
苦しいほどのハグ。けれどそれが今は嬉しい。私は涼香の頭を抱えるように抱き締め直す。
「涼香、好きだよ」
ビクリと涼香の身体が震える。けれど私はまだ力を緩めない。
「私、ずっと考えていたの。一番の親友に恋をするのは変じゃないのかって。だって涼香は幼馴染で、辛い時も楽しい時も一緒に過ごして、誰よりも特別な存在。でもだからこそ、それ以上の人はいないんだって思ったの」
胸元が熱い、涼香が震えている。
「結局ね、色々考えたら涼香よりいい人なんかいないって気付いたんだ。だからその、好きなんだよね、涼香の事」
「……わたし、も」
腕の中で涼香が震え、その言葉を絞り出す。私はその言葉の響きに視界が揺れる。
「私も、夏希の事が好き。ずっと、ずっと好きだったの。でも夏希が違っていたらどうしようってずっと思ってた。もし夏希が気持ち悪いって思ったらどうしようって、ずっと怖かった。怖かったの。そうなったら夏希、私から離れちゃうって思って。それが一番怖くて」
力を緩めると、涼香が顔を上げた。その綺麗で可愛い顔は涙で濡れ、顔を赤らめながら必死になって私を見詰めてくる。それは普段の涼香からは想像できないような顔。
でも、より美しかった。
「よかった。私も同じ気持ちだったんだ。私も涼香がいなくなるのが一番怖いの。でも、この気持ちをどうしても伝えたかった。特別な親友から、もっと特別になりたいって欲が出ちゃったの。だって、もう好きって気持ちを抑えられなかったから」
最初はこのループを何とかしたかった。そのため、涼香がどうすれば幸せになれるのか考えていた。やがて涼香が私の事を好きだと知った時、私はそれを上手く活用してループを抜け出そうと思った。
でも今は違う。涼香と気持ちが繋がったのが一番嬉しい。
「夏希ぃ、好き、大好き。大好きだよぉ」
ずっと涼香と一緒にいた。そして次第に大人びていく涼香に焦りを覚えた事もあった。大人の世界で揉まれているから仕方ないとわかっていながらも、正直辛かった。置いてけぼりにされているような気がしたから。
だけど今、目の前の涼香はあの頃のよう。幼少期、辛くて私にすがったあの時のよう。もしかしたらあの頃から涼香はずっと自分の気持ちに蓋をしていたのかもしれない。皆が期待する小泉涼香を演じるため、本心を押し殺し、そのうちに自分の心を見失っていたのかもしれない。
「涼香、愛してる」
だからやっと今、本当の涼香を見れたのかもしれない。
「わたしも。わたしも、夏希の事を愛してるんだから」
愛を求め、孤独に頑張っていた少女に私は心打たれて寄り添おうとあの日決めた。周囲の声にも負けず、二人で成長してきたつもりだった。でも今、それはあくまでつもりが重なっていただけで、本来の涼香はまだこんなにもか弱く、泣き虫で、必死に愛を求めているんだ。
本当にもう、可愛いんだから。
そう思う私も視界が滲み、こぼれ落ちた。




