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SideA-3

 想いを伝えて、丁度三年目だっただろうか。その日はひどく曇っていた。空は今にも泣きだしそうで、色は徐々に失われつつある、そんな日だった。

 二人で肩を並べて歩いていると、彼女が、いつになれば結婚するの、と訊ねてきた。僕は、とうとう答えを出せねばならないか、と思ったものだ。今までにも、彼女からこの手の話を幾度となく耳にしてきた。その度に僕は答えをはぐらかし、先延ばしにしてきた。決して彼女が嫌いだったのではない。結婚することが嫌だったわけでもない。ただ、この日常を変えることが怖かったのだ。ちょっとした衝撃で壊れてしまいそうな、このガラクタのような日々が愛しくて仕方がなかった。けれども、僕はもう覚悟を決めていた。

 彼女と共に、人生を過ごすことを。


 僕は、彼女と向き合い、しっかりと目を見させた。自分の気持ちが、決して偽りではないということを証明するために、今まで答えを出せずにいて済まない、という気持ちを示すために。そして、優柔不断な僕を(いまし)めるために。

 その時の彼女の瞳は、ひどく潤んでいた。底のない大穴のように深く、暗い瞳。ゆっくりと上下する肩。薄く朱に色づいた頬。僕は永久にそれを忘れないだろう。

 結婚してほしい。よく覚えていないが、僕はきっとそう言ったと思う。月並みな言葉だ。洒落てもいないし、何一つ飾られていない、プレーンなもの。甘くもない、辛くもない、酸っぱくもない。場所も、夜景が見えるレストランではなく、すぐ横を車が走っている道だ。ロマンチックの欠片も見当たらない。

 決意を伝えた後、僕はスーツの内ポケットからマリンブルーの箱を取り出して、蓋を開いた。中に入っていたのも、内側に彼女の名前が刻印されている以外、何の変哲もないシルバーリングだ。

 それを見た途端、ぼろぼろと、今まで溜めこんでいたものを吐きだすかのように大粒の涙を流し、そして彼女は大声で泣き始めた。その姿はまるで赤ん坊のようだった。僕には、その涙が悲しくて流されているものではないことが分かっていた。つい三年前の僕も、まったく同じだったからだ。きっと、あの言葉が欲しくて、欲しくて仕方がなかったのだ。磁石ならば同じ極同士は離れていくものだが、僕らは違う。例え同じであっても、()かれあう。

 喜んで。彼女ははっきりそう言った。僕は黙って頷き、指輪を彼女の薬指へとはめてやった。華奢(きゃしゃ)な指に輝くそれは、見事に彼女と調和して、本当に美しかった。彼女は指輪を着けた方の手を口元にもっていき、くすくすと笑った。濁った空と、透き通るような彼女。その二つの不釣り合い感と言ったらなかったが、とても愉快だった。

 彼女はそれから、ゆっくり気持ちを語りだした。聞けば、このまま答えが出ないようであれば別れることも考えていたという。やはり、彼女の気持ちは移ろいでいた。僕の予感は的中していたわけだが、素直に喜べないでいた。関係が崩壊してしまうという最悪の事態は免れたわけであるし、これから待つ結婚生活を思うと胸が躍ったが、何か、心の隅に、べっとりとこびりつく存在を僕は感じた。

 僕はそれを拭い去るために、彼女を力一杯に抱きしめた。けれども、それは、影のようにまとわりついて離れてくれやしなかった。それどころか、増々大きくなり、僕の心を覆っていった。黒く、鈍く、重く。

 と、その時。さぁっという音と共に、濁った空が泣き始め、その涙でアスファルトを濡らし始めた。雨は一気に勢いを増し、すべてを破壊し尽くさんばかりに打ち付けた。僕と彼女は、近くにあったバス停へ向かい、一時を(しの)ぐことにした。そこから見える光景は(もや)がかかっているように見えた。激しく大地へ降り注ぐ雨で、一切の視界は閉ざされていた。唯一はっきり見えるものは彼女だけで、彼女は光を射し込ませない森林のように憂鬱そうな表情で、何も見えない前方をただ眺めていた。彼女の体は濡れ、水を吸った服が体に張り付いている。僕のスーツも、ひどい有様だ。

 時折、目の前を通過する車両のライトが雨に反射する。

雨が止む気配はない。この季節の雨にしては、しつこい上に冷たかった。濡れたままでいては、きっと彼女は風邪をひいてしまう。彼女が小さなため息をついている。きっと、この雨に雰囲気を壊されて腹が立っているのだろう。僕も同じで、この雨が恨めしくてならなかった。いつまでもこうしてはいられない。

 傘を探してくるよ。僕がそう言うと、彼女は笑顔で頷いた。そして、無理はしないでね、と小さな口で呟いた。けれども、僕にその言葉は聞こえていなかった。彼女が最後に交わそうとした言葉を聞き逃していただなんて、僕はなんて愚かなのだろうか。悔やんでも悔やみきれない。

バス停から飛び出していった僕は、どこかにコンビニエンスストアでもないものか、と雨に打たれながら探し続けた。春の陽気、それとは真逆の寒々とした空気。まるで真冬のように張り詰めた世界。息を吸えば、肺に湿気が染み込んできた。

 僕は、その雨に打たれることが好きだった。この雨に耐え、傘を見つけたその先にあるもの。彼女と寄り添って歩き、ずっと見続けることのできる笑顔。たったそれだけのことを考えるだけで、恨めしい雨は愛しくなった。冷たいはずの心は、増々熱を帯び始めた。しかし、その熱い心も徐々に冷えていった。

 傘は、一向に見つからなかった。

 落胆して、ふとアスファルトを見やると、そこに一羽の小鳥がいた。茶色い毛で覆われていて暖かそうであったが、その小さな体は、ぴくりとも動いてはいなかった。きっと、バケツを一気にひっくり返したかのような豪雨に打たれ、飛び立つことができず、そのまま息絶えたのだろう。周りを見渡しても、彼を救おうとする仲間はいなかったし、死を(とむら)う仲間もいなかった。灰色の大地へ降り注ぐ雨音が、彼の悲しみの声を()き消していたのか、この声は聞き届けられなかったのだろう。もう二度と、仲間と大空を飛びまわることはできない。

 僕はそう思うと、ひどく悲愴な気分になった。せめてもの弔いに、小鳥の死骸を拾い上げ、花壇の土の上へと寝ころばせ、目を閉じ祈った。


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