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課長!定時で帰りたいからって吸血鬼の力を使うの、やめてもらえませんか!?

作者: 酩蘭 紫苑


 「……はぁ」


蛍光灯の白い光が目に染みる。


壁の時計の短針はとっくに7を通り過ぎ、長針はそろそろてっぺんに届こうとしていた。


午後7時58分。


今日もまた私の残業記録は無事に更新されるらしい。


私の名前は佐藤(さとう)陽菜(ひな)

中堅商社『双葉商事』の総務部で働くごく普通のOLだ。


……普通、ではないかもしれない。


やる気と真面目さだけは人一倍なのだが、いかんせん要領が悪く、気がつけばいつもデスクに山積みの書類と睨めっこ。

社内ではすっかり「オフィスの残念な妖精」だか「地縛霊」だとか、とにかく不名誉なあだ名で定着してしまっている。


そんな私とは対極の存在が直属の上司である血吸沼(ちすいぬま) (わたる)課長だ。


色素の薄いサラサラの髪に、フレームレスの眼鏡の奥で静かに光るアメジストのような瞳。

非の打ち所のない美貌にどんな仕事も的確かつ迅速に処理する手腕を併せ持つエリート。


しかし彼を彼たらしめている最大の要素はその徹底した省エネ主義にあった。


「では、お先に失礼します」


終業チャイムが鳴り終わるのと同時に発せられる涼やかなテノールの声。

彼が定時である18時を1分でも過ぎて会社にいたことは伝説のツチノコが発見されるのと同じくらい有り得ないことだった。


その徹底ぶりから陰では「定時退社の鬼」と呼ばれている。

鬼。言い得て妙だ。



今日も今日とて、血吸沼課長は疾風のごとくオフィスから姿を消した。残された私と終わりの見えない書類の山。


溜め息はもはや呼吸の一部と化していた。



事件が起きたのはそんな残業地獄に喘いでいた金曜日の夜のことだった。


一週間のご褒美に、と朝買っておいた高級プリンが私を呼んでいる。


ふらふらと給湯室に向かい、共有冷蔵庫の扉を開けた。


自分の名前を書いた付箋が貼ってあるはずのプリンは……ない。

代わりに見慣れない銀色のパウチがずらりと並んでいた。


「……なにこれ」


手に取ってみるとひんやりと冷たい。


よく見るとパウチには『Tomato Juice Type-B+』というラベルが貼られている。トマトジュース? にしてはなんだか物々しいパッケージだ。

しかもご丁寧に『CHISUINUMA』と、課長の名前まで印字されている。


「課長、こんなの飲んでるんだ……健康志向なのかな」


そう思った次の瞬間。


私の目はラベルの隅に印字された小さな文字を捉えていた。


『医療用血液製剤(代替品)』

「……え」


血液?


声にならない声が出た。


心臓が嫌な音を立てて跳ねる。


手のひらから急速に血の気が引いていくのが分かった。

脳裏に浮かぶのはいつだって血色の悪い、青白いまでの美貌を持つ上司の顔。


定時になるとまるで太陽から逃げるように帰っていく姿。


血を、吸う、沼。


彼の珍しい苗字がやけに恐ろしい意味を持って頭の中に響き渡った。


まさか、まさか。そんな非科学的な。


私は震える手でパウチを元の場所に戻し、その日はどうやって仕事を終えたのか、ほとんど覚えていなかった。



「あの、課長……」


週明けの月曜日。

私は意を決して始業前の血吸沼課長に声をかけた。

彼はデスクで、すでに何かの作業を始めている。


しかしその手元にあるのは会社のノートPCではなく、私物のゲーミング仕様らしきタブレットだ。


「なんだ佐藤。始業前から残業の話か?」

「ち、違います! そうじゃなくて……その、これ!」


私はバッグからこっそりと例のパウチを取り出し、彼のデスクに叩きつけた。

もちろん金曜の夜に一本拝借……いや、証拠品として押収しておいたものだ。


課長はちらりとパウチに目をやると一瞬だけ動きを止めた。しかし、すぐに興味を失ったようにタブレットに視線を戻す。


「ああ、俺のだ。それがどうした」


「どうした、じゃありません!これ、なんですか!血液って……」

「見たままだが」


あまりにあっさりとした肯定に私は言葉を失う。


もっとこう、動揺したり、慌てて取り繕ったりするものではないのか。


私が呆然としていると課長は心底面倒くさそうに溜め息を一つ吐き、眼鏡の位置を直した。


「バレたか。佐藤、口は堅いか?」

「へ?」

「俺、吸血鬼なんだ。で、夜は趣味のゲーム実況と動画編集があるから昼間は極力体力を使いたくない。だから定時で帰る。以上だ。分かったらさっさと席に戻れ。もうすぐ朝礼が始まる」


……以上だ、じゃない!


情報量が多すぎて私の脳のキャパシティは完全にオーバーした。


吸血鬼? ゲーム実況? なにそれ、どういうこと!?


私がフリーズしていると課長はタブレットの画面を指でなぞりながら、追い打ちをかけるように言った。


「それから佐藤。お前のせいで俺が時々定時で帰るのを躊躇うことがあるのを自覚しろ」

「私の、せい……?」

「ああ。部下が一人、終わらない仕事で死にそうな顔をしているのに、自分だけ颯爽と帰るのは現代のコンプライアンス的にどうなんだ、という無言の圧力がな……。非常に効率が悪い」


心外だ。

私が勝手に終わらないだけだ。


しかし血吸沼課長の理屈は常人のそれを遥かに超越していた。


「というわけで、前々から考えていた提案がある」


彼はそう言うと初めてタブレットから顔を上げた。

アメジストの瞳が、まっすぐに私を射抜く。


「今日からお前の業務を俺がコンサルしてやる。目標は絶対定時退社だ。これはお前の為じゃない、俺が心置きなく趣味に没頭する為だ。いわば業務命令だと思え」



こうして残業OLと省エネ吸血鬼上司による、奇妙な「業務改善」を目的とした秘密の共犯関係が唐突に幕を開けたのだった。



「課長、この能力は反則です!」

「効率的だろう。文句あるか?」


共犯関係が始まって三日目。

私は血吸沼課長の能力のヤバさを身をもって体感していた。


例えば先週から三日もかかっていた経費精算のデータ入力。私が一件一件ちまちまと打ち込んでいるのを課長は背後から見て、盛大な溜め息をついた。


「貸せ」


そう言って私のキーボードを奪うと彼の指が目にも留まらぬ速さで動き出す。


タタタタタタッ!


まるで高速再生の映像を見ているかのような動きで画面上のセルが次々と埋まっていく。

ものの5分で私が一日がかりでやるはずだった作業は終わってしまった。


「……これが吸血鬼の力」

「百年以上キーボードを叩いていれば人間でもこれくらい出来るようになるんじゃないか? 」



またある時は他部署に提出する書類の確認をお願いしに行った時だ。

いつも何かと理由をつけて修正を依頼してくる意地の悪いことで有名な山田部長。


今回もダメだろうな、と半ば諦めていた私に課長はぼそりと言った。


「『昨日のゴルフコンペで、社長から貰った高級ウイスキーを早速飲んだが、奥さんには内緒にしている』。そう伝えろ」

「は、はい!?」

「いいから早く行け。時間が惜しい」


私が恐る恐る、課長に言われた通りの「お噂」を世間話に混ぜ込むと山田部長の顔色はみるみるうちに青ざめ、書類は一発で承認された。


課長、まさか心を読んだんじゃ……。


血吸沼課長のコンサルはまさにチートだった。

彼の指示通りに動けばあれほど山積みだった仕事が嘘のように片付いていく。


そしてついにその日がやってきた。


壁の時計が、17時55分を指している。


私のデスクの上は完璧に片付いていた。

やり残した仕事も、明日に回すべき懸案事項もない。


「……終わった」


呆然と呟く私に、隣の席から声がかかる。


「なら帰るぞ、佐藤。5分前行動は社会人の基本だ」


血吸沼課長はすでにカバンを持って立ち上がっていた。


私は慌ててPCの電源を落とし、タイムカードを手に取る。


18時00分。


機械が吐き出したカードには寸分違わぬ定時退社の時刻が刻まれていた。


会社のエントランスを出るとまだ空は明るい。

西の空がオレンジ色に染まり始めている。

なんてことのない風景がなんだかキラキラして見えた。これが定時退社……!


「お疲れ。……まあ、たまには悪くないな、こういうのも」


隣を歩いていた課長がふと、そんなことを言った。


見上げると彼の口元にほんの少しだけ笑みが浮かんでいるように見えた。

いつも無表情な彼の、初めて見る優しい顔。


「さて、帰って配信の準備をしないと。今日の企画は高難易度ホラーゲームなんだ。絶叫に期待しておけ」

「え、見る前提なんですか!?」

「当たり前だ。チャンネル登録と高評価、通知のオンを忘れるなよ」


すぐにいつもの調子に戻ってしまった課長に私は思わず笑ってしまった。


まあ、いいか。


残業妖精と省エネ吸血鬼。

私たちの奇妙な共犯関係はまだ始まったばかりなのだから。


「分かりました。でも、スパチャはしませんからね!」

「それは君の自由だ」


夕暮れの道を並んで歩く。

明日からはどんな吸血鬼能力が飛び出すのだろうか。


少しだけ、明日が来るのが楽しみになっている自分がいた。





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