第7話:代償と葛藤(リアナ視点)
風が髪を揺らした。
眼下に広がる都市の光は、まるで別の星のように遠い。
リアナは携帯端末を開いた。そこには、今はもう使われていない名前――
「カイ」という文字が、連絡先の最下部に残されていた。
「……まだ消してなかったんだ、これ」
小さく笑ったその声は、どこか震えていた。
「なんで、あの時……引き止めてくれなかったのよ」
リアナはぽつりと呟く。
それは、誰に向けた言葉でもなく、自分自身に刺すような棘だった。
「ねえカイ、私さ……強くなんかないよ。
あのとき、あなたが“行くな”って言ってくれたら、たぶん私……」
言葉は風にさらわれて消えた。
彼女は思い出す――あの裏庭での会話。
見ないふりをした彼の苦しそうな目。自分だって泣きそうだった。
でも、泣いたら負けだと思ってた。
「……私のこと、好きだったでしょ? 知ってたよ、ずっと」
そう言って笑ったリアナの目には、うっすらと涙がにじんでいた。
「私も……ほんとは、あんたと、行きたかったんだよ」
そのとき、携帯の画面が光った。
だが、通知はビジネスの予定だけ。彼からのものではなかった。
リアナの胸の奥で鳴る音は、まるでガラスがひび割れるような脆く鋭い響きだった。彼女は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
レイモンドの言葉が、まるで呪いのように頭の中で反響する。
「私の女だ」。
その一言が、彼女の過去も未来も飲み込んでしまったかのようだった。
「なぜ、レイモンドを拒絶しなかったのか?」
彼女は自分自身に問いかける。だが、答えはわかっていた。
レイモンドの力、財、影響力――それらは、リアナがずっと夢見てきた
「上へ行く鍵」だった。
――1年前。
孤児院の裏手で、皆で植え込みの手入れをしていたときだった。
黒塗りの輸送車が止まり、職員たちが妙に慌ただしく動き出した。
「資金援助の視察」と説明された男は、スーツ姿で涼しげに現れた。
それが、レイモンドだった。
「立派な若者たちだね。どんな夢を持っているのか、ぜひ聞かせてほしい」
大人びた微笑みと、異様なほど落ち着いた眼差し――
だがその視線は、確かに“物”を値踏みするような光を帯びていた。
彼は名簿を見ながら、数人と個別に話し、
次に――リアナの方を向いた。
「君。少しいいかな?」
呼ばれたとき、理由もなく背筋がぞわっとした。
彼の目は、他の誰とも違っていた。
――探していた“何か”を見つけたときの目だった。
リアナはその後、院長室に呼ばれた。
「特別な支援枠に推薦したい」と言われた。
「出世のチャンスだ」と。
断る理由など与えられなかった。
孤児として育ち、誰にも頼れず、ただ自分の才覚だけで生きてきた彼女にとって、彼の提案はあまりにも魅力的だった。たとえそれが、魂を売り渡す契約であっても。
――レイモンドの私邸に初めて招かれた夜。
それは「契約」の夜だった。
夕食は華やかだった。
会話は洗練され、彼の微笑みは紳士的だった。
だが、食後に案内されたのは、寝室だった。
「拒むつもりかい?」と彼は優しく聞いた。
「君が今の道を望まないなら、それでも構わない。
ただ、今夜が“選択の夜”であることは、覚えておいてほしい」
リアナは何も言えなかった。
選ばれたこと。
その「価値」を自分のものにするには――ただ、従うしかなかった。
彼の手が肩に触れたとき、震えそうな心を押し殺して、リアナはそっと目を閉じた。
『これでいい。これで、夢に近づける。』
そう自分に言い聞かせた。
だけど、あの夜――
ベッドの中で、天井を見上げながら、ぽつりと思った。
「……カイ、ごめん」
その言葉は、声には出なかった。
でも、心の中で何度も響いていた。