◆9「……水袋。……水袋。干し肉。ロープ。水袋」
それから先は、進めば進むほど魔族の姿を見かける機会が増えていった。
幸運なことに、先に相手を発見するのは常に俺の方で、その度に適当な場所に身を隠してやり過ごすことができた。
魔族領の奥深く。
こんな場所を人間がうろついているわけがないという先入観で、ほとんどの魔族が無警戒なのだ。
だが、ここまで潜入が上手くいっている最大の要因は、やはり隠密に特化したステータスのお陰だと思う。
耳を澄ませば魔族の足音や息遣いなどが遠くからでもよく聞こえた。
僅かな痕跡でも、魔族の足跡を見逃すことはなかったし、景色に紛れて動く物体にもいち早く気付けた。
目や耳だけではなく、自分自身どこで察知しているかも分からない敵の気配が、面白いように感じ取れるのだ。
今もまさに、俺だけが一方的に相手を観察できる高い樹の上で、俺は魔族の一団を見下ろしていた。
下半身が大きな蛇で上半身が裸の女の魔物に、牛頭の大男、やせっぽっちで子供のような体格の小鬼どもが数匹、その他諸々。
そんな彼らに背後から見守られる形で、二本足で立つイノシシの化け物のような姿の魔物が、その巨体よりもさらに巨大な大岩とにらみ合うようにして対峙している。
先ほどから観察している感じ、どうやらあの大岩は、最近山の頂上付近から転がり落ちてきて、この道の先にある洞窟の入口を塞いでしまったという状況らしい。
「やっちゃってくださいよ。パガスさまぁ!」
「アタイも、たまにはあんたのカッコイイとこ見てみたいわねぇ」
「もしできたら今夜は俺がお前にたらふく酒をおごってやるよ」
仲間から囃したてられたイノシシ男は気勢十分。
鼻息を荒くし、太い腕をぶんぶんと振り回す。
俺は指にはめていた〈見極めの小筒〉を抜いて、イノシシ男をのぞいてみた。
〈イノシシ男:パガス〉
【体力18,精神6,筋力33,技量11,敏捷8,知性4,魔力12,魅力2】
(ぬっ。なかなか強いな)
俺はすれ違った魔族をよくこうやって盗み見て、自分との力量差を測るのを習慣にしていた。
これまで見た者たちは皆、一対一で戦えばおそらく負けないであろうという、ほどほどのステータスをしていたのだが、このパガスという奴は侮れない。
少なくとも俺の元々のステータスである【筋力18】【技量16】では苦戦は必至だろう。
パガスは付近の枝葉を震わせるほどの怒号を発したかと思うと、大岩に向かって渾身の正拳を繰り出した。
だが──。
「いっでぇ! か、硬ぇ! 硬すぎる!」
大岩はびくともせず、パガスはその岩肌に額をこすり付け、じっと痛みに耐えるように動かなくなる。
馬鹿なのか?
そもそもどんな力自慢でも、岩相手に素手でってのはないだろう。
まあ【知性4】ならそれも仕方ないか。
ん、だが待て。
あいつの【魅力2】って、よく考えたら今の俺よりあのイノシシ男の方が魅力的だってのかよ。
納得いかん。
「どうする? みんなで押してみる? そこの谷底に転がせば──」
「駄目だろうな。そもそも皆で押すための足の踏み場がない」
「シグルス様にお願いしましょうよ。シグルス様ならきっとこんな岩、真っ二つにしてくださるわ」
「馬鹿だなあ。この洞窟が通れないのに、どうやってシグルス様を呼んでくるんだよ」
そこにちょうど、上半身が鷲のような鳥の姿をした魔族が、トボトボと徒歩でやって来て、岩の前の騒ぎに加わった。
「あ、いいところに。アンタ、ちょっとひとっ飛びして魔王城にいるシグルス様呼んできなよ」
「ええぇ!? 嫌だよ。ひとっ飛びなんて簡単にぃ。休み休み飛んで、上に上り切るだけでも半日は掛かるよ」
鳥型の魔族はほとんど垂直に切り立った岩肌を仰いで首を振る。
そう言って一旦は断ったものの、他に手はないからと皆に詰め寄られ、彼は結局、面倒臭そうに翼を広げ、絶壁に挑むために羽ばたいていった。
その様子を見て俺はなんだか彼が不憫に思えてくる。
さすがにあの岩壁は俺でも無理だ。
【技量36】【敏捷40】のクライミングテクニックをもってしても。
というか高すぎる。
先が霞んでいて天辺が見えない。
【体力7】では、とても頂上までもたないだろう。
鳥型魔族を見上げて見送っていた他の魔族たちは、やがて大岩の前から離れ一本道をくだり帰っていった。
シュタリ
無人(無魔族?)になった山道に俺はひとり下り立つ。
見上げた大岩は俺の身長の10倍はありそうに見えた。
しばし思案してから俺は懐から〈無限の袋〉を取り出し、中身をまさぐった。
む。水袋か。
まあいい、ちょうど良かったと俺はゴクリと水をあおる。
(んんー……。やっぱりイマイチだ)
〈無限の袋〉の中に入れておいたおかげで、ヒンヤリ冷えたままなのは助かるが、革袋の臭いが染み付いていて、イシダの館で飲んだときとは雲泥の差なのである。
まあ贅沢だな。
と俺は自分を戒め、もう一度〈無限の袋〉にトライを始める。
……水袋。……水袋。干し肉。ロープ。水袋。パン。水袋。両手持ちハンマー。
──あ、これはよい。これはこのまま出しておこう。
この旅でもう何度となく繰り返された〈無限の袋〉チャレンジの末、俺はようやく本命であった〈生まれ直しの石板〉を引き当てる。
大岩から少し離れた木陰に身を隠してから俺は石板に触れた。
〈勇者:エリオット〉*
【体力7,精神5,筋力70,技量5,敏捷5,知性13,魔力1,魅力1】
……まあ、こんなものではないか。
あまり時間をかけて悩んでもいられない。
俺は今は不要と思われる能力をざっと下げ、生じた余剰ポイントを全部【筋力】に割り振って〈生まれ直し〉を実行する。
「──っ!」
頭の中に光が満ちる不思議な感覚。
一瞬、寝入る寸前のような酩酊感があり、自分の首がコクリと落ちる感覚で俺は目を覚ます。
目印としていた木の影の角度と長さを見て、俺はほとんど時間が経過していないことを確認する。
「よ、よし」
俺は期待を込めて両手持ちハンマーを持ち上げた。
うむ。はっきりと自覚できるほど軽くなっている。
あー、いや、ハンマーが軽くなったわけではないな。
俺の筋力が増幅されているのだ。
【筋力70】。
およそ常人の14倍という人間離れした筋力。
実際、人外である先ほどのイノシシ男と比べても、倍以上ある計算である。
俺は前後左右を振り返り、周囲に誰もいないことを確認したのち、再び大岩の前に立った。
しっかりと柄を握りハンマーを振り上げる。
「せーのっ」
──轟音。
至近で雷鳴が轟いたような大音量が山道に響き渡った。
直後、ピシリという別の音とともに大岩に亀裂が入った。
真っ二つに割れた大岩はグラリと揺れて、片側半分が傾き、横の谷底へと落ちていく。
思わず身を乗り出してその行方を追うと、行く手の見えない谷の奥底からズシーンという低い地響きが上がってきた。
本当に、これを俺がやったのか。
洞窟の半分を塞ぐ残った方の大岩を振り返り、俺は嘆息する。
まるで神話で語られる英雄の所業である。
──たぶん、能力値を極端に偏らせたときにこそ真価を発揮すると思うんですよねぇ。
イシダが憶測で語っていた言葉を思い出す。
なるほど確かにこれはインチキだ。
これだけの力があれば、コソコソ暗殺するまでもなく、魔王に正面きって挑んでも圧倒できるかもしれない。
俺はこの先の旅路に自信を深めながら、割れた大岩の隙間から暗い洞窟の中へと足を進めた。