◆6「うまい! なんだこりゃ!」
「──ットさん。エリオットさん。大丈夫ですか?」
イシダに身体を揺すられて俺は目を覚ました。
目の前には削りたての材木の香りのする床面がある。
俺はイシダの私室の床にうつ伏せで寝転んでいるのだった。
それが分かってから俺は自分の身に直前に起こったことを思い出す。
覚えているのは、自分が石板の表面に浮かんだ〈生まれ直し〉という文字に触れて押し込む場面だ。
直後に、頭の中に眩い閃光が満ちる感覚がして、それで……。
「あー良かった。どうですか記憶は? 私のこと、分かりますか?」
俺を床から助け起こしている間にも、イシダは矢継ぎ早に質問を寄こす。
「あぁ大丈夫だ。俺は、どのくらい寝てた?」
「すぐに揺すって起こしましたので、5秒もないはずです」
「5秒……。だが、意識を失うのは困るな。少なくとも敵に囲まれた状態で使えるようなものじゃなさそうだ」
「そのようですね。私もうっかりしてました。想定はできたのに。せめてベッドで横になって使ってもらうべきでしたね」
「いいよ。気にするな」と言って椅子に掛け直す俺に、イシダは手元にあった水差しからコップに水を注いで差し出した。
ゴク……ゴク……ゴクリ
「うまい! なんだこりゃ!?」
新鮮で上等な水だ。
清流から汲み上げたばかりの清涼感があった。
俺は木のコップに半分ほど注がれた水を、次の一口で一気に飲み干す。
「どうぞ。いくらでもありますから」
空になったコップに水のおかわりが注がれた。
何気ないその様子を見て俺は違和感を抱く。
「ちょっと。見せてくれ」
再び水をグビリとやりながら、イシダの手から水差しを奪う。
思ったとおり軽い。
いや、そうではなく。
思ったよりも、水差しの見た目よりも随分と軽いのだ。
水差しを上からのぞくと、案の定、なかは空っぽだった。
俺はコップの水をもう一度飲み干すと、試みに、水差しの注ぎ口をコップにあて傾けてみる。
すると、確かに空だったはずの水差しからは勢いよく水があふれ出し、コップをなみなみと満たした。
「よくお飲みになりますね。〈生まれ直し〉のあとはそんなに喉が乾くのですか?」
「いや……、そうじゃないよ。これは? この水差しを説明しろよ」
イシダのおとぼけにイラだって俺は声を荒げた。
「それは〈無限の水差し〉ですね。以前それを巡って城下でちょっとした騒ぎになったことがあるので、ご存知かと思ってました」
「いや、知らないな。そんな話」
「ですか……。ネットのない社会では、情報が流布するスピードや質が相当異なるようですねぇ」
「?」
後半の感慨深げな話の意味はよく分からなかったが、〈無限の水差し〉という名前から想像される効能を考えれば、騒ぎになったというのは、大いにうなずける話だった。
おそらく、いや絶対、それはちょっとした騒ぎなどではなかっただろう。
「この水差しもくれ。いや、貸してくれよ」
「ぇえ~? これは駄目です。お貸しできません」
「なんでだよ。これは絶対役に立つ。旅の途中、安全な水にありつけることが、どれほどありがたいことか、お前分かってないんだろう?」
「いや、それは想像できますよ? 実は以前にも、どうしても頼むとせがまれて、この国の王子にお貸ししたことがあるのですが、それのせいで人死にが出たんです。これはやめておきましょう。王様からもそのように言われていますし」
ぐぬぬぅ。
やはりそういうことか。
〈転生勇者〉が持つという魔法の武具についての噂があるわりに、具体的な情報がなく、漠然としていたのは、王が詳細を知る者に対し、口外を禁止する令を発したからに違いない。
俺は気を取り直して、イシダが所有する他の魔法道具について余すことなく聞き出すことにした。
だが、確かに最初にイシダが言ったとおり、どれだけ聞いても、実際にそれらを使って見せてもらっても、魔王討伐に直接役立ちそうな物はなさそうだった。
なんというか……。
妙に生活臭がする道具ばかりなのだ。
どれも便利で超常的な道具には違いないが、身の回りを清潔に保つ香炉とか、どんな国の文字でも読めるようになる眼鏡とか、長旅の際に率先して持参したい物ではない。
この館全体に張られているという防御結界の印などは、野営時の安全を確保する上で有用そうではあるが、おそらく自衛もままならないであろう非力なイシダから、それを取り上げるのは可哀そうだ──。
「やはり、〈無限の水差し〉がいいな。持ち運べる水や食料の量が旅の移動速度を決めると言ってもいい。魔族領にとどまる期間は短ければ短いほど危険が減るからな」
「うーん。ですかぁ……」
すでに〈生まれ直しの石板〉と〈見極めの小筒〉という有用な道具をもらっておきながら、なおも食い下がる俺に対し、イシダは少し疲れた顔である。
「分かりました。では、これをお持ちください」
最後はやや投げやりにも聞こえる口調で、イシダは懐から一枚のズタ袋を取り出し、俺に押し付けてきた。
なんの変哲もない。麻で編まれた普通の袋に見える。
それに、中に何かが入っている様子もない。
ぺたんこに折りたたまれた、ただのズタ袋だ。
俺は一応、口を開いて中を確認してみるが、やはり何も入っていなかった。
「まあ、入れ口は大きいし、出し入れはし易いだろう。それに作りも丈夫そうだな。ありがたくもらっておこう」
旅の荷物を詰める雑のう袋としては質の悪い物ではない。
俺は、これをイシダの「もうお引き取りください」の意だと受け取り、なんの気なしに立ち上がりかけた。
「いえいえ。そうではなくてですね」
「え?」
「出し入れの際、中は見ないようにして使うのです」
イシダは一旦俺に預けたズタ袋を取り返すと、自分の膝に置いてその中を手探りし始めた。
袋の口を俺から隠すようにし、自らも目をつぶっている。
袋からさっと手を戻すと、その手にはよく磨かれた短剣が握られていた。
「武器や防具の類いはないって、話じゃなかったか? いや、というか中はたしかに空だったはずだが……」
俺は短剣を受け取り、それをつぶさに眺め返す。
はてさて、この短剣にはどんな不思議な効果が宿っているのか。
「ああ、違います。それは露店で買った普通の短剣ですよ?」
「っ……なんだよ」
紛らわしい。
「この袋はなんでも入る〈無限の袋〉なんです」
「なんでも……?」
「そう、なんでも。いくらでも入る魔法の袋です。実は私が持っている他の魔法の道具も全部この中に入っていたものでして」
「なんだって!? なんでも? どれだけの量でも入れて持ち運べるのか!」
俺はズタ袋──もとい、〈無限の袋〉を受け取り直し、早速さっきの短剣を入れてみた。
目をつぶり、中を見ないようにして納め、口を閉じる。
目を開ける。と、すでに袋は平らになり、短剣の凹凸は見えなくなっていた。
祭りの日に現れる奇術師の大道芸であれば、よくある類いのものではあるが……。
そっと袋を持ち上げても、そこに短剣の重さはない。
そのまま乱暴に振っても中で何かが暴れる様子もない。
袋の口を開けて中を見る。
やはり、ない。
消えてしまった。
俺は逸る心を抑えて再び袋の中に手を突っ込む。
あっ、何かが指に触った。
無心でそれを引き抜くと、それは何かがギュウギュウに詰まった巾着袋だった。
なんだこれは? この中身は──?
「ああっ、それはご容赦を」
イシダが急に情けない声を上げる。
巾着袋にはうなるような金貨が詰まっていた。
「あまり使う機会がないので出し忘れておりました。それは王様より預かった当面の研究資金でして」
あのハゲぇ。同じ〈勇者〉のはずなのに、随分扱いに差を付けるじゃないか。
静かに湧き出る怒りの感情を腹の中に納め、俺はイシダに巾着を返す。
気を取り直し、もう一度同じようにトライすると、今度はさっきと同じ短剣を取り出すことに成功した。
「ふむ。これは凄いな。本当にこれをもらっ……借りてもいいのか?」
「ええ。入っていた魔法道具は全部外に出して置いてありますし」
「何でも入れておけるのなら、この中にしまっておけばいいのに。散らかるだろ」
俺はこの部屋のテーブルや棚のスペースを占領している本や小物を見回しながら言う。
「さっきエリオットさんも体験したでしょ? 中に入れた物を探しにくいのがその袋の難点なんですよ」
「はあ……。なるほどな」
「私がこの世界に召喚された際、衣服以外に唯一所持していたのがその袋でして。一体どこでどうやって手に入れたものか、私には全く記憶がないのですが」
「それを聞くと余計に大事な物に思えるな。言ってみたらイシダの形見みたいな物のわけだろ?」
「ええ。だから最初はお渡しするつもりではなかったのです」
「いいのか? 今さらだが、借りると言っても絶対に返せる保証はないぞ? 俺が旅の途中で野垂れ死んだら──」
「ああ、そのことでしたらどうぞお気になさらず。貸した相手が死亡したり、又貸ししたりすると、私の手元に返ってきますので」
「は? どういうことだ?」
「自動的にです。〈無限の水差し〉をお貸しした王子が賊に襲われた際にも、いつの間にかこの部屋の棚に戻ってきておりまして。どういう理屈かは皆目分かりませんが、どうやらそういう〈仕様〉のようですね」
イシダがケロリとした顔でかいつまんだのは、おそらく背後で相当の血が流れたに違いない──王によって闇に葬られたらしい例の事件のことであろう。
そういえば、祝いの席で国王や大臣が話していたな。
──食えぬ奴だ。
──頭抜けた変わり者にございます。
ボヤくようにそう言っていた彼らの顔を思い出し、俺もその人物評に改めて賛同する気になったのだった。