◆54「ですが、今は承知しています。ロキ様」
「エリス? 大丈夫なのか? 返事をしてくれ。言葉は話せるか?」
ロキが俺と目線の高さを同じにしてひざまずき、不安げに俺の顔をのぞく。
俺は両手を床に突き、うな垂れたまま動けないでいる。
そんな俺たちのすぐ脇に青白い魔法の光が立った。
魔法陣の上に現れたのはホロウ。
身体が半分透けて見えるところをみると、どうやら実体としてそこにいるわけではないらしい。
「魔王様。これは一体。何が起きたのです?」
ホロウの幻影が周囲を見渡し驚いた声で言う。
「くせ者だ。どうにか仕留めることができたが……、それ以上のことは上手く言えん。分からぬのだ。お前もこっちにきて何が起きたのか知恵を貸せ」
ロキの話を聞きながら、ホロウはなお周囲の観察を続けていた。
一度俺の上を通り過ぎた視線が反転して二度見し、その目が大きく見開かれる。
「たしかに。並々ならぬ事が起きたようですが……、詮索は後になさいませ。当面の危機が去ったのであれば、魔王様こそ、急いでこちらにお戻りください」
「何事だ?」
「王城のすぐそばに巨大な魔力源が出現してございます。折しもニンゲンどもが集結し、反攻の兆しを見せている矢先。これが噂に聞く奴らの召喚術であるとすれば、迎え撃たねば。恐るべき相手です。魔王様のお力なくしては我々の勝利は危うい。それほどの脅威かと」
「くぅ、次から次に……。エリス、立てるか? いや、立てずとも連れていくしかないな。そなたをここに置いては行けぬ」
ロキが俺の腰に手を回し、持ち抱えようとするのを、俺は自らの足で立ち上がって制止した。
〈生まれ直しの石板〉は二つに割れ、消えてしまった。
もはや人間の男に戻る手立ては存在しない。
俺はこの先ずっと、魔族の女として生きていくしかなくなってしまった。
魔族と人間の抗争。
その事態を収拾できるだけの力を持っていたはずのイシダももういない。
俺だ。俺がどうにかしなければ──。
「魔王様……。ロキ様。どうか、進駐した兵をお引きください。人間と戦う必要はないと、和平の道もあるのだとお教えしたはずですよ」
俺がエリスの声音でそう言うと、ロキの顔色がみるみる変わる。
苛立ちと不安に駆られていた表情が和らぎ、幼い子供の頃のロキを彷彿とさせる泣き笑いの顔に取って変わった。
「おお、エリス……。エリス……。エリス、エリス、エリス!」
ロキは以前のように俺の腹のあたりに顔を埋めようとするが、大きく育った彼の肉体がそれを阻む。
代わりに、ロキは俺の身体を高々と担ぎ上げ、逆になった身長差の帳尻を合わせた。
「えっ、ちょっ、タンマ。いや、あの、待ってください。話を聞いて」
「エリス。思い出したのだな? 全部。余と交わした約束のことも?」
「あれは、魔王様の名をお呼びすることの意味をよく知らなかっただけなのですが……」
俺は首を下向きに曲げ、ロキと目を合わせながらそこで一旦言葉を区切る。
ロキの笑顔が少し曇るのを見て、俺は静かにその先を続けた。
「……ですが、今は承知しています。ロキ様」
「で、では」
「はい、ご一緒いたします。次代の魔王を孕めとおっしゃるなら、ご寵愛賜る覚悟です」
「おお。これは、夢ではないのだな。ホロウ。聞いたか? 見たか? あのエリスが帰ってきたぞ!」
「──ですが」
喜び浮かれるロキに対し、俺はきつい調子を込めて言う。
「不遜ながら一つ、いえ、二つ。条件がございます」
「条件? なんだ。申してみよ」
「一つは、先ほども申し上げたとおり、人間の領土に派遣している兵を引き上げることです。人間とは戦わず、和平を。共に繁栄する道をお探しください」
「分かった。そなたの言うとおりにしよう」
「魔王様!」
ロキの二つ返事に対し、慌てたのはホロウだ。
ロキは魔法陣の上の幻影に掌を向けてそれをなだめる。
「よい。少しやってみて分かった。あの痴れ者たちを統治するなど面倒で敵わんとな」
「し、しかし……」
ホロウは渋っていたが、ロキは取り合わぬ構えである。
担ぎ上げていた俺を下ろして立たせ、自分の伴侶となる最愛の人と向かい合う。
「もう一つは何だ? 二つ望みがあると言っていただろう?」
「はい。どうか、シグルス様をお救いください」
ロキの表情が露骨に曇るのが分かった。
「シグルス様は私を助け、人間の勇者と対抗するために残り僅かな魔力を使い果たしたのです。本当はいつでも逃げることができたのに、縛めを解かずにここに残り続けたのは、魔王様への忠義あってこそでございます」
「そんなことは分かっておる!」
ロキの激昂に、俺は驚き身を引く。
「だったらなんで……」
「忠義と愛は別物であろう……」
俺たちは互いに押し黙った。
俺は悲しげに吐かれたロキの言葉の意味を考える。
忠義と愛は別物。
それは言わずもがな、シグルスによる魔王に対する忠義と、エリスに対する恋情は別々に同居し得るということだ。
だが俺は、同じ言葉によって、自分自身のロキに対する心情を揶揄されたようにも感じていた。
ロキや、彼が統べる魔族のために子を為すと誓った忠義とは別に、本当の愛は、ロキではなく、シグルスに向いているのではないかと……、そう疑われているのだ。
自らが嫁ぐ条件として別の男の助命を願い出るということは、そのように勘繰られても仕方がないように思える……。
ロキの真意は分からない。
ただ、ロキが吐露した言葉によって、三人の間で絡み合う微妙な関係性を、俺自身がはっきりと意識したのは確かであった。
たった今、魔族の女として生きていくことを決意したばかりの俺に訪れた人生の大一番。
今後の自分の人生や、シグルスの命、それに魔族と人間の命運は、俺の態度一つに委ねられていると言っても過言ではなかった。
だが、この誤解、どう取り繕う?
いや、そもそもそれは本当に誤解なのか?
女であることに不慣れな俺は、ロキとシグルス──二人の男に向ける心情の正体を見定められずにいた。




