◆44「いいや、そなたはエリスだ。たとえ憶えてはおらずとも、エリスなのだ」
(えっ──!?)
自分の身に何が起きたのか、とっさには分からなかった。
身体が上向きに倒れていることにもすぐには気付かなかったくらいである。
俺は結婚式の花嫁のように抱え上げられ、空高くに舞っていたのだ。
抱き上げているのは──ロキだ。
目を上げた先に、俺の顔をのぞく紫色の瞳があることで俺は事態を悟る──いや、その突拍子もない現実を受け入れるしかないと諦めを付けた。
(しかし、なぜ──!?)
「どうして助けた?」
「お前、歳はいくつだ?」
ロキは俺の質問を完璧に無視して反対に自分の質問を押し付けてきた。
「じゅう……十五だが?」
「十五……」
ロキが顔を伏せ、肩を小さく震わせるのを、俺は怪訝な思いで見つめる。
あ、いや、待てよ。
〈無限の袋〉の中にいる間にも十五年が過ぎているから……正確に言えば、その倍の三十歳だと答えるべきだったかもしれない。
だが、袋の中のものは収納されたときと同じ状態が保たれるようだから、そのあいだ歳は取っていないと見なすべきなのか?
いや、そもそも、なんで出し抜けにこんな質問をされているんだ俺は。
「何故、あんなことを言った?」
「あんなこと? どのことだ? そんなことより俺はなんで俺を助けたのかって聞いてるんだよ。こっちの質問は無視か?」
「大事なことなのだ! はぐらかさずに答えろ。良き王におなりくださいと、お前は言ったであろう?」
「あ、あぁ……それはぁ」
まさかあの距離であれが聞こえていたとは。
自分自身の耳にもほとんど届かない小さなつぶやきでしかなかったはずなのに。
「わ、分かんねえよ、自分でも。なんであんなこと、口走ったのか……」
おそらく死を覚悟して昂った思いがそう口にさせたのだ。
思いがけず死に損なった今となっては、感傷が過ぎるその言葉に俺は赤面を禁じ得ない。
バツが悪くて仕方がない。
対してロキは、俺の胸に顔を押し付け、抱き締める力を強くしたのだった。
「い、痛い痛い。鎧が、肉を挟んで痛ぇよ!」
「ああ、ごめん。ごめんよエリス」
「エリ──。えぇ!?」
「やっぱり、憶えてるわけじゃないんだね」
「な、なんのこと……でしょう?」
俺はどうにも居た堪れなくなり、プイとそっぽを向く。
今の俺はどこからどう見ても人間の男である。
たしかに迂闊ではあったが、まさか、さっきのあの一言だけで正体がバレるとも思えないのだが……。
だが、ロキの声はまるで子供の頃に戻ったかのよう無邪気にはしゃぎ、その純真な目は、この俺の身体を通してエリスの面影を見ようと必死であった。
「ずっと探してたんだ。あの日からずっと。最初は攫われただけで、絶対どこかで生きてるって信じて、城の中や近くの森を探し回った。角と翼が生え揃ったあとは、魔族領中に範囲を広げて。でも見つからなくて、諦めかけてたときに夢を見たんだ。エリスが生まれ変わって人間の土地で暮らしてるって夢を」
「……もしかして、魔族が人間の領土に攻め込んで来た理由って……」
「そうだよ。君のことを探しに来たんだ。直接会えば分かるって信じてたけど……。ごめんなさい。まさか、性別まで変わってるだなんて思わなくて」
「ちょっ……。ちょっと待てよ。まさか、そんな見た夢一つで軍を動かしたってのか?」
俺の動揺には二つの理由があった。
一つは、俺はそれほどまでロキに想われていたのかという驚き。
たった一カ月程度の交流でしかなかったのに、それを十五年間も忘れずに、恋い焦がれて……?
その驚きの中には、何も告げず、まだ幼かったロキを置いて姿を消してしまったことに対する申し訳なさと、自分に真っすぐ向けられた好意に対する照れ臭さも含まれていた。
そしてもう一つは、俺の存在が、魔族対人間の戦いを招いた──いや、いずれ避けられなかったのかもしれないが、その時期を早めてしまったという後悔である。
俺が魔王城に潜入し余計な画策をしたせいで、人間と魔族の和平どころか、侵略行為を焚きつける結果となったらしいのだ。
「ただの夢などではないぞ。魔王様の夢見というのは、それだけで特別な意味を持つのだ」
唐突に声がした方を見ると、いつの間にかホロウが同じ高さまで浮かんで上ってきていた。
ロキとは異なり翼を持たぬホロウは、代わりに足下に光り輝く魔法陣を敷き、その上に立つことで浮遊しているようだった。
「どれ」
ホロウはおもむろに俺の額に指を当て、呪文を唱えた。
今もなお、ロキに抱えられたままの俺にそれから逃れるすべはない。
無茶苦茶に暴れてみてもよいが、仮に逃れたとしても、地上まで真っ逆さまに落ちて死ぬだけだ。
俺はいつかエリスの身で受けたときと同じ、青白い魔法の光に包まれ目をつぶる。
「御随意に。お訊ねください」
「待てホロウ。今のエリスは何も憶えておらぬようだ。自分を人間の男だと思い込んでおる者に訊いて何が分かるものでもあるまい?」
「ご心配めさるな。この術の本質は尋問ではありませぬ。真実を明らかにするのが我が秘術。本人が知らずとも、必ずや、その魂が答えを返しましょう」
「そうか。なら……」
ロキは得心し、改めて俺の顔と向き合う。
「正直に答えるのだ。そなたはエリスの生まれ変わりだな?」
ロキの表情は真剣そのもの。
すでにホロウが掛けるこの術の効果を知っている俺は答えを濁さざるを得ない。
「な、なんのことだか、俺にはさっぱり……」
「ええい。肯定でも否定でもいい。はっきり申せ」
顔が引きつるのを懸命に堪える俺に対しホロウが詰め寄る。
ロキはそんなホロウを無言で威圧し牽制すると再び俺を見つめた。
落ち着いて、辛抱強く、それでいて、すがるような目線で訴えかける。
「頼む。結果がどうであれ、そなたの命は保証すると約束しよう。だから、ひとこと言ってくれ。私はエリスという女の生まれ変わりですと」
このロキに向かってそんな残酷なことが言えるか?
彼が十五年間も想いを寄せ、軍を動かしてまで追い求めた愛する女性──エリスの正体が、人間の勇者である俺──魔王を暗殺するために身を偽って潜り込んだ卑怯者の男だったなんて事実、明かせるはずがない。
「……知らない。エリスなんて女。俺はエリスの生まれ変わりなんかじゃない」
〈生まれ変わり〉ではなく〈生まれ直し〉なんだから。
などという詭弁はホロウの術の前では通じなかった。
俺がやけになり吐き捨てるように言った直後、身体の芯をしびれるような痛みが打つ。
身体をのけ反らせ、目をつぶる俺の瞼の裏に真っ赤な光が映った。
「この色! その言葉。偽にあります。つまりは、魔王様の問い掛けは真!」
そばでホロウが高らかに宣言するのを俺は朦朧とした頭で聞く。
痛みが引き、次に目を開けたときには、目にいっぱいの涙を溜めたロキの顔があった。
何か言おうと開きかけたロキの口が、グッとこらえるようにきつく結ばれる。
感極まった彼の表情に俺は目を奪われ、そして、次の瞬間には唇も奪われていた。
「…………、──!」
【魅力60】は伊達ではないということだろう。
魔王の口づけを受けて、俺は一瞬トロリと瞼を蕩けさせ、没我の境地へと誘われた。
堕ちかけた。
だが、ギリギリのところで俺は我に返る。
ロキが作り出す雰囲気と勢いに思わず流されそうになったが、生理的にあまりに自明な違和感がムクリを首をもたげ、それを邪魔したのだ。
俺はカッと目を見開き、両手を突っ張って、ロキの顔を無茶苦茶に押して引き剥がす。
「んっ、んんーんっ、んっ……、プハッ! ま、待てよ。正気に戻れ。俺はエリスじゃない。エリ……、エリオットだ! 男。ぉ男同士で、キ、キスなんて──」
俺は濡れた唇を手の甲でぬぐいながら抗議した。
我ながらみっともなく慌てた声で嫌になる。
反対にロキの方は、昂りに任せてあんなことをしでかしたというのに、まるで憑き物が落ちたように平然とした口調で言い返すのだった。
「いいや、そなたはエリスだ。たとえ憶えてはおらずとも、エリスなのだ」
屈託のない笑顔のロキ。
ロキがきっぱりとそう言い放った瞬間、俺の胸が熱くなる。
何かが焦げ付き、烙印を押されるような感覚。
三度目ともなれば嫌でも察しが付く。
またも塗り替えられた。
俺の魂に、エリスという女の名が再び刻み直されてしまったのだ。
「だが、すまん。無理矢理というのは良くなかったな。続きはそなたが元の記憶と肉体を取り戻してからの楽しみとしよう」
「──っ、続き……?」
俺はポカンと口を開けたまま言葉を失くす。
キスの続きで一体何をされるのかという想像で頭がいっぱいになり、熱くなり、うまく頭が回らなくなる。
いまロキはなんと言った?
元の記憶と、肉体?
「ホロウよ。こうなればすぐに計画を、儀式を実行に移すのだ。魔王城へ帰還するぞ」
「ははっ」
ホロウが頭を下げると、彼の姿は足下の魔法陣に吸い込まれるようにして瞬時に消え失せる。
ロキに抱えられたまま上空に二人きりで残された俺は、ようやくまともに考えるだけの余裕を取り戻し、おそるおそるロキに訊ねる。
「儀式って一体──」
「ああ。そなたは何も案ずることはないぞ。余に任せておればよい。そなたの美しき亡骸を奪って隠した〈大罪人シグルス〉を処刑し、幽世からそなたの半身を開放するのだ。その上でもう一度生まれ変われば、必ずやエリスの記憶と肉体は蘇るであろう」




