◆29「どうした? 顔が赤いが大丈夫か?」
シーツ以外にも洗い物はまだ残っていたが、ホロウが去るとそれと入れ替わりで現れたパルセアが、有無を言わさず俺の仕事の残りを奪ってしまった。
彼女の仕事振りを姑のようにそばで見張っているのも気が引けたので、俺はやむなく洗い場から退散することにする。
と言って特に行くあてなどなく、俺は昼食までの短い時間、魔王城の城内をブラブラと散策することになった。
時折見かけるのは、いまだ物珍しい新参の侍女をひと目見ようと、遠くの物陰からこちらをうかがう衛兵たちの姿だ。
彼らは俺と目が合うとキョロキョロと挙動不審に目を泳がせたり、ぎこちなく会釈を返したり。
反応は様々だが、総じてこちらに対し恐縮している印象があった。
みな、俺の【魅力99】に当てられているのだろう。
あるいはデーモン族の女であることが魔族たちにとって、それだけ稀有で恐れ多いことなのか。
好意を向けられること自体に悪い気はしないが、しかし本来、恐れ縮こまるべきは俺の方である。
単純な戦闘力ではほぼ全員が、素の俺よりも遥かに強い猛者揃いなのだから。
彼らがその気になればいつでも、俺を組み伏せ、自由を奪うことくらいは造作もないはずだ。
抗い、声を上げる暇さえあるかどうか。
俺は微笑み返す表情とは裏腹に、化け物の巣窟に迷い込んだか弱き乙女の心境であった。
……心境というか、事実、物理的・肉体的には、か弱き乙女そのものでしかない我が身ではあるのだが。
だから、遠くの空から近づいてくる黒い馬の影が目に入ったときには、自然と気が休まる思いがしたのだった。
パカラッパカラ パカ パカ パッ カッ ポッ……
四方の石壁に蹄の音が響き渡る。
俺は自分でも意識しないうちに足早となり、馬上の人──暗黒騎士シグルスのもとに歩み寄っていた。
「お帰りなさいませ、シグルス様」
「そなたは……、おおエリスか。見違えたぞ」
シグルスは流れるような動きで馬を下りる。
そのシグルスから横腹を軽く叩かれると、影馬〈シュレプネル〉はその場で煙のようにかき消えてしまう。
もしかして養うための馬草も要らないのか。便利なものだな。
「お陰様で、魔王様の侍女としてお仕えする許しをいただけました」
「そうか。それは重畳。いや、そなたなら上手くいかぬわけがないと思っていた」
「シグルス様にお引き立ていただいたお陰です。是非、お礼を申し上げねばならないと」
「それでわざわざ出迎えてくれたというわけか」
「あー、いえ、お見かけしたのは偶然なのですが……。なにか、ここでお会いできる予感があったのかもしれませんね」
そこで俺、渾身の微笑み。
俺の中に棲む、ありったけの〈女〉を駆り出した笑みをシグルスへと差し向ける。
いかにも堅物そうな俺の騎士様は、相変わらず兜で顔を隠しており容易に感情を読ませない。
ただまあ、「う、うむ。そうか」などと返しに詰まっていたので、少しくらいの媚びは売れただろうか。
俺がシグルスのもとに駆け寄ったことには、俺なりの打算があった。
この魑魅魍魎が跋扈する魔王城で、この儚き身を護るためだ。
自分にはこんな強力な後ろ盾がいるのだぞと、今もきっと物陰から様子を窺っている者たちに対しアピールしているわけである。
その効果のほどを確かめようと身体をひねったとき、シグルスが俺の背中から生えたものに気付く。
「そなた、翼が?」
「あ、はい。みっともないものをお見せして、申し訳ありません……」
会話の流れに任せてそう口に出してみると、不思議なもので、なんだか本当にそれが恥ずかしいことである気がしてきた。
デーモンの娘にとって、このような発育不良の翼を人目にさらすことは、本能的に忌むべきことなのかもしれない。
「どうした? 顔が赤いが大丈夫か?」
「だっ、大丈夫です。これは、先ほどホロウ様からいただいたお薬のせいで、まだ少し身体が熱く、そのせいかと」
まるで火照った身体をそれで冷まそうとするように、背中の羽根がパタパタと動く。
我が身体の一部ながらいじましく感じてしまうが、成長すればちゃんと自分の意思で翼を羽ばたかせ、飛翔できるようになったりするのだろうか。
「……そうか。宰相殿が。そうであったか……」
俺は、シグルスの声が、心なしか暗く沈んでいることに気付く。
「すみません。お疲れのところお引止めして。魔王様へのご報告に参られるのですよね?」
「あ、ああ。……そうだ。そうであった」
魔王への報告という言葉によって、何か他に連想することがあったらしい。
見送るていで頭を下げる俺に対し、シグルスはその場に留まったまま。
「そなたに訊かねばならぬことがあったのだ。……これに見覚えはないか?」
これに、という言葉の途中でシグルスは虚空に手を挿し入れる。
確かに何もなかったはずの中空には、突然黒い影が──あの影馬〈シュレプネル〉のインク染みのような影が湧き、そこに突っ込まれたシグルスの右手はその先を失くしているように見えた。
その手は中で何かをゴソゴソと漁ったかと思うと、そこから引き抜かれたときには、抜き身の短剣を握っていた。
「──!」
しまった。
とっさのことで、驚きの気配を隠せなかった。
これは……、今さら知らぬふりはできないぞ。
俺は必死で頭を巡らせ、この失態にどう始末を付けるべきかを考える。
「それを、どちらで?」
「そなたと最初に出会った泉の底でな。私ではなく、あのとき共にいた者たちが後日発見したのだが。その者らが言うには、これは洞窟で遭遇した人間の斥候が使っていた武器ではないかと、そう言うのだ」
やはりあのときか。
今シグルスの手にある短剣は、俺が魔族領に潜入する際に常にベルトに差して携行していた短剣だった。
洞窟でパガスと一戦交えたときに使っていたのもこれである。
扱いやすい平らで幅広な握り。それに、刀身の根本近くにある大きめの欠けも馴染みの形で見間違いようがない。
俺が〈生まれ直しの石板〉で女に生まれ直した直後、泉でおぼれそうになったときにベルトから外れて落としてしまったのだろう。
濡れた装備品はまとめて〈無限の袋〉に放り込んだので、これまで失くしていることにも気付いていなかった。
「……申し訳ありません」
「なぜ謝る?」
シグルスの声音は容疑者を糾弾する者のそれではない。
エリスという女を疑うことなど、まったく思いも掛けておらず、それ故に俺の反応に困惑している様子だった。
「シグルス様が探しておられる人間の侵入者について、覚えがあったのに、そのことを黙っていたからです」
「見たのか?」
「あ、あの……。ここでは少し……」
俺は中庭の真ん中から周囲を見回す。
遠慮して去ったのか、さっきまでいたはずの魔族たちの姿は見当たらなくなっていたが、ここが人目につきやすい場所であることに変わりはないだろう。
そのことを察してシグルスは場所を変えることに同意した。
人目を忍ぶための一室を探して歩く間、俺の顔は、自分でもそうだと分かるほど、血の気が引き、蒼白となっていた。




