◆28「あ、熱いです。身体が火照って。背中が……。翼が」
井戸の側に置いた大きなタライに水を溜め、シーツをその底に沈める。
標的はいつ頃付いたものかも不確かな食べ物か何かの染みである。
肘の上まで腕まくりをした俺は、ヤシ油をまぶしたタワシでゴシゴシと攻め立てる。
正直、それでどれだけ汚れが落ちたと言えるのか、あまり達成感はなかったが、指の皮がめくれ始めたのを見て、自分の血で汚すことになっては本末転倒だなと思い、途中で諦めることにした。
ゆすぎと脱水にもそれなりの時間を使ったあと、干し竿にシーツをかけて留め、ずっと曲げたままだった背中の筋をムンと伸ばす。
「ぐぬぅ、意外と重労働だな、これは……!」
晴天の空を仰ぎ、なお反り返る俺の視界。
グルリと半周したそこに、いつの間にそこにいたのか、逆さまになった宰相ホロウの顔が見切れた。
「コホン」
「あ、あぁっ、すみません。つい……、油断を」
慌てて身なりを整えかしこまる俺に対し、ホロウは軽く「よい」と言って取りなした。
「それが素の性格なのであろう。相応しく振舞おうという頑張りは認めるが、常に気を張るものではなかろう」
「は、はい……。ありがとう、ございます……」
なんだろう。
随分優しげな好々爺の印象である。
「これまで粗野な暮らしを強いられてきたのだろうから無理もない」
「…………」
「ふむ。その割には無垢な手指だが」
「あ、あのこれは……。水仕事はあまりしたことがなく……」
ホロウは俺の手を取り、真っ赤に腫れた指先を物珍しそうに眺めていた。
無垢に見えるのはきっと〈生まれ直した〉ばかりだからだ。
身体自体は十五歳なりの少女に違いないが、この身体には十五年の歳月が流れていない。
生まれたての赤子のように何一つ汚れや傷のない肌。
俺は自分の素性を疑われているのだと思い、内心で激しく動揺していた。
「後ろを向け。背中を見せるのだ」
俺は恐々としたまま回れ右をする。
目の前には、さっき竿に掛けたばかりの白いシーツがまぶしく光っていた。
ああ、さっき洗っていたのとは違う場所に別の染みを見つけてしまった。
仕事の雑さを叱られたりしないだろうか。
あーいや、一国の宰相がそんな暇ではないか。
「翼に触るぞ。よいな?」
「は、はい……。どうぞ」
仮にそれが作り物の翼であったなら、恐怖のあまり全てを自白していたかもしれない。
だが、如何に貧相とはいえ、いま俺の背中にあるのは紛れもなく本物のデーモンの翼であった。
意図せず翼がピョコンと跳ね、それがホロウの手を叩く。
その感触があった。
それからホロウが用心深く翼の先や根本をなでさする感覚が続く。
(うぅ、こそばゆい。駄目だ。暴れるな。暴れるな、俺の翼……!)
しばし続いた触診が終わると、向き直った俺に対し、ホロウが小さな小瓶を握らせた。
「これは……?」
「一息に飲み干せ。苦いが、案ずるな。毒ではない」
本当だろうか。
黒い陶器の小瓶は外からでは色も臭いも分からない。
だが、俺を害するつもりなら毒殺などという回りくどいことはしないだろう。
拒む素振りは心象を悪くすると思い、俺はままよと小瓶のフタを開け、一気にあおった。
「……!」
苦い。無茶苦茶に。
いや、苦いなんてものではなく……辛い?
いや、痛い。痛いぞ。
舌全体が針で刺されたようにチクチクと痛みだした。
さらに通り過ぎた喉に焼けるような痛みが襲ってくる。
それに……。
「どうだ?」
「あ、熱いです。身体が火照って。背中が……。翼が」
俺が背中を丸め、未知の感覚に必死に耐えるかたわら、ホロウは満足そうに口角を上げ、とがった鼻をなでさすりつつ俺が苦しむ様子を眺めていた。
「はぁはっ、……はっ、……はっ、……んんっ」
「よしよし。あとで同じ物を部屋に持たせる。これから毎晩、寝る前に一瓶ずつ服用するように」
「は、はあ。毎晩……ですか……」
「うむ。思ったとおりだ。おぬしの翼が小さいのは、単純に魔力が足りぬからだ。おそらくは、ニンゲンどもの土地の貧しい食物しかとってこなかったことが原因だろう」
いいや。【魔力】が少ないのは〈生まれ直しの石板〉でケチって5ポイントしか割り振らなかったからだ。
人間の成人の平均値が〈5〉でも、魔族にしては【魔力5】というのは栄養失調を疑われるレベルに低いものだったらしい。
だが、まあ、俺のここに至るまでの半生の説明とも合致するし、その都合のよい誤解をわざわざ否定することもないだろう。
「喜ぶがよい。翼が熱く火照るのはまだまだ成長する余地があるということじゃ。三年もすれば、先代の魔王様のようにとはいかずとも、十分な色艶をもった翼となるであろう」
喜ぶ?
そうか。それは喜ばしいことなのか。魔族の、デーモンにとっては。
しかし、これを毎晩だと?
「お気遣いいただき、ありがとうございます……」
俺はいまや全身に回った火照りをどうにかなだめ、姿勢を正しつつ礼を述べる。
「うむ。最早その身はおぬしだけのものではない。よく食べ、魔力を養って労わるがよい」
「?」
それは俺が魔王に仕える侍女──財になったからという意味だろうか。
もしくは、貧相な翼のままでいさせることは、それを侍らせる魔王に恥をかかせることになる、とか?
「それとな。今日より水仕事や力仕事の類いを禁じることにする。それらは他の者に任せよ」
「え?」
やはり、仕事ぶりには落第点が付いたか。
見よう見まねで女の真似事をしても、元の俺が長年剣の修練に明け暮れた粗野な男では土台無理があったのだ。
だが、使えぬ奴と見限られ放逐されるわけにはいかない。
俺の頭にはすでに、新たに練り直した次の作戦があったのである。
「で、でしたら、恐れながらお願いがあります。私めに、魔王様のご教育係を命じていただけないでしょうか?」
「教育係、とな?」
「はい。僭越ながら私には人間の社会を放浪して蓄えた知識がございます。彼らが何を思い、どんな理屈で行動するのか……。私のような者が魔王様のお役に立てるとすれば、彼ら人間の性質をお教えすることなのではと、そんなことを考えておりました」
「……敵のことを知っておれば、戦いとなったときにそれだけ有利になるだろうと、そういうことを言いたいのか?」
「はい。そうでございます」
「ふむ……」
ホロウは鉤鼻の稜線を指でなぞりつつ考える素振りをしていた。
だが、結論が出るまでそれほど長くは掛からなかった。
「よいだろう。どのみち、おぬしには魔王様のお相手をする時間を長く取るようにと申し付けようとしていたのだ。身の上話をして差し上げるだけでも十分見識の役に立つに違いない」
「はい。ありがとうございます」
よし、やったぞ。
思いのほか上手く事が運んだな。
魔王の暗殺に代わる、俺の新たな作戦。
それは、まだ幼い魔王を俺の思い通りに教育し、懐柔し、人間と敵対する必要などないと理解らせることであった。
簡単な道ではないが、それは魔王討伐と同じく、誰も成し遂げたことがない偉業──それどころか、これまで誰一人として考えたこともない〈魔族と人間の和平〉という壮大な絵図が、俺の新たな野望となっていたのである。




