◆22「うむ、苦しゅうないぞよ」
この巨大な魔王城の浴場が、驚くほど大きく立派であったことは改めて言うまでもないだろう。
言うまでもないので、そのくだりはバッサリ省略する。
ああ、いや。
「お背中をお流しします」と言って一緒に入ろうとするメディラの申し出を断ったことだけは一応明言しておこうか。
俺の沽券のために。
「大勢から見られている気がして」と言ったのが効いた。
それでメディラは渋々引き下がったが「次回は必ず別の世話係を付けますから」と念押しするのを忘れなかった。
まったく。どういうことなのだ。
俺は魔王の世話をする侍女として潜入するはずなのに、俺の方が世話をされるだと?
翼の生えたデーモン族とはそれほど貴重な存在なのか。
絵画に描かれる魔族は、こんな貧相な翼ではなく、皆、広げた両腕よりも大きく立派な翼を生やしていたと思うのだが。
もっとも、人間が描く魔族は容姿も軒並み醜悪に誇張されていて、今の俺──エリスのような人間に近い見た目の魔族がいることだって、こうして魔族の地に足を踏み入れるまで知らなかった。
俺や、他の人間たちは魔族のことをほとんど何も知らない。
いや……、知ろうと、していなかったのかもしれない……。
俺が身体や髪を洗って湯舟から上出ると、頭巾を被ったメディラが湯払いのための大きな布を持って待ち構えていた。
頭巾の隙間からは、頭の蛇が二匹だけ顔をのぞかせていた。
どうやら行儀のよいメスの二匹だけを厳選したということのようだ。
だが、だからと言って、俺が身の置き場に困ることに変わりはなかった。
自分以外の目に裸体をさらし、なされるがままに身体のあちこちを撫で拭かれているのである。
このこそばゆさ、複雑な心境を、どのように表現すれば足りるだろうか。
どうか早く服を着させて欲しいと心の中で願うこと数分。
ようやく持ち出された俺の服は、袖を通すことも恐れ多い煌びやかなドレスであった。
祝いの席でもないのに何故ドレス? とは思ったが、もしかすると背中の羽根を外に出すために、ざっくりと背中を露出させたデザインのこれが選ばれたのかもしれない。
「うむ、苦しゅうないぞよ」とでも言うように、ちんまい羽根がピョコピョコと動く。
それから椅子に掛け、長い髪から、長い長い時間かけて水気をぬぐわれ、丁寧に梳いてもらい、さて、いい加減腹が減ったなと思い始めた頃合いで、最初に通された部屋に連れて行かれた。
部屋に戻ると大きなテーブルの上に、とても食べきれないほどの料理が、作りたての湯気と香ばしい匂いを立ち昇らせていた。
たった一人の食事である点を除けば、〈勇者〉の称号を賜った際に、人間の王城で受けた歓待にも引けを取らないもてなしである。
(う、唾液が……)
長い間、冷たい干し肉や乾いたパンだけで過ごしてきたツケが回ってきた。
空腹の目の前にこんな物を並べられてはたまらない。
「魔王様はもうお休みでございますので、お目通りは明日ということに」
「え? えぇ、そう。ありがとう」
俺は心ここに在らずで応答する。
侍女として採用されることになれば、自分はメディラと同じ使用人になるはずであるから、本来であればこのような賓客扱いを受けることに対し、遠慮を申し出るべきではないかと思われたが、さすがに今さらである。
あまりワガママを言って、メディラを困らせるものでもないだろう。
他人目がないことをよいことに、俺が舌と手のおもむくままテーブルの食事を腹に送り込んでいると、ふと背後から話し声が聞こえてきた。
こっそり振り返ると、僅かに開いた扉の隙間に、部屋の外で立ち話をする二人の姿を見つける。
一人はメディラ。
もう一人は昼間に外から偵察したとき見かけた鉤鼻の老魔族であった。
【知性】と【魔力】に長けた侮れぬ奴だ。
たしか、宰相のホロウ。
「なるほど、あれがそうか。うむ。小さいが間違いなかろう」
「では……」
「うむ。承知した。あとのことは任せるがよい」
「はい」
「だが、侍女の職が勤まるかどうかはワシの手に負えんぞ」
「それはもう」
「気難しいお方じゃからな」
「はい。わたくしどもが不甲斐ないばかりにご苦労おかけします──」
二人が連れだって去る。
俺は喉の途中にあったものをゴクリと飲み込んだ。
気難しいお方……か。
状況から考えて十中八九、魔王のことだろう。
そう言えばメディラが、魔王は今日はもう就寝したので目通りは明日になるとか言っていたな。
……魔王と会えるのか。
さすがに出会い頭に斬りかかるわけにもいくまいが……。
うーん。緊張してきた。
せっかくの美味い食事がろくに喉を通っていかない。
俺は七切れ目のキッシュを平らげたのち、小柄ゆえの小食を詫びて食卓を離れる。
敵地の真っただ中でまともに眠れる気はしないが、少しでも身体を休めておかなければ。
明日はいよいよ、恐るべき魔王と相対するのだ。
俺は義務感に押されてベッドに身体を横たえた。




