深夜の家出
周りから見れば下らないと思われるかもしれないが――慎也は家出を決意した。
こんな真夜中に飛び出したところで、行く当てもなく、中学生という身であるがために、警察のお世話になるのが関の山かもしれない。それでも、この家にはいられなくなってしまった。
部活の合宿に使ったボストンバッグに、黙々と衣類を詰め込んでいく。ストーブのコンセントは抜いてあり、冷え切った部屋を暖めるのは慎也自身の息だけであった。
部屋に充満する闇の手伝いもあってか、慎也は厚手の手袋にダウンジャケットを身に纏っていても、身震いを止めることはできなかった。指先の感覚が消えていくのと同様に、自分が部屋の中にいるという感覚も消えていく。
それでも、意識だけははっきりさせていた――二度と帰ることはないだろう。
突然、階下から奇怪な音が鳴り響いた。ピクリと反応を見せる慎也は一旦その手を休めた。
携帯のアラームは必要最低限の音量で、夜中の二時にセットしていた。この時間ともなれば、隣の部屋の姉でさえ寝静まる時間帯であることを、慎也は熟知している。つい先日も、家族の誰もが起きないことを確認したばかりであった。
下で寝ているはずの母か父が目覚めたのだろうか。
耳を澄ますと、不思議と身震いが止まった。慎也自身の呼吸も家の闇に吸い込まれ、僅かに聞こえてきたのは、遠くの方で鳴り響く救急車のサイレンだった。
一向に物音は聞こえない。それでも、慎也は張り詰めた糸を弛めようとはしなかった。下着を一枚、ボストンバッグにしまう毎に耳を澄ませる。衣擦れの音に紛れて、階下で何か音がなっているような気がしてならなかった。
何も聞こえやしない。
時間の感覚も薄れ、どれくらいの間同じことを繰り返していたのか、慎也はわからなくなっていた。それと同時に、焦りも生まれた。短い間だったかもしれない。本当は一時間くらいそうしてたのではないだろうか。階下の音が空耳であった、と自分に言い聞かせ、ボストンバッグに荷物を詰め込む作業を速めた。
行く当てもないため、それほど多くの荷物は邪魔になるだけだった。それでも、この凍寒を凌ぐには厚手の衣服が必要になる。背負い上げたボストンバッグはパンパンだった。
漫画本や辞典を残した本棚の隣にある、今までお世話になった勉強机の上には、一枚の紙切れが載せてある。家族を悲しませることは重々承知していたが、それでも慎也は手紙を書かずにはいられなかった。暗闇に目が慣れるまでもなく、慎也はそこに書かれたことを思い返し、そっと口遊んだ。
不意に、脳裏に浮かんできたのは、母親の「おはよう」と寝覚めを迎えてくれるエプロン姿だった。学校のある日は必ず弁当を作ってくれる。時々、箸を入れ忘れたりして、学校で大変な思いをしたことを慎也が告げたときも、優しい眼差しで謝ってくれた。
それから、普段ほとんど口を開かない父親が酒を呷り、顔を赤く染めたときのけたたましさが耳に響いた。唸り、項垂れ、執拗に同じ言葉を繰り返す。まつわり付くような煩わしい声も、慎也はこれから先聞けなくなってしまう。
紙切れを手に、慎也は自室を出た。姉の部屋の前を通ると、微かに寝息が聞こえる。些細なことでも喧嘩をしていた、慎也にとって好敵手とも言えそうな、良き姉。色々愚痴を言われるかもしれない。それでも、慎也は彼女のすべてを許そうと誓った――生意気な弟で御免。煩わしい弟で御免。それでも、ありがとう。
階下に目をやるが、何も見えやしない。耳を澄ましても、あの奇妙な音はどこかへ行ってしまった様だった。慎也は一段目に足を落とした。手すりに捕まり、着地と同時に体重をいなす。幾度となくやってきた行いだった。多少の軋みなら家族は起きないが、なるべく音を出すわけにはいかなかった。
二段目、三段目、と足を下ろしていく。
暗闇の中で目を泳がせ、微々たる音も漏らすまい、と耳がヒクヒクと勝手に動いた。指先の感覚はほとんどなく、足裏の親指の付け根に神経を集中させていった。
足元を照らすほどではないが、窓から差し込む街灯の光に、慎也は一息吐いた。光があるというだけで、どことなく安心感を覚える。
慎也は再び足を下ろし始めた。足を下ろす毎に突き刺さったのは、我が家との別れだった。家から出て行かなければならないというのに、次第に、足を下ろすのが億劫になっていく。
最後の一段を下りきると、慎也は自然と息を詰まらせていた。嗚咽をこらえ、台所へと入っていく。漬物も食器もすべて片付けられたテーブルの上には電子ポットだけが寂しく置かれていた。震える手を堪え、慎也は紙切れをポットの隣に添えた。
腫れぼったい目で廊下を見渡し、そっと頭を下げる。
今まで、お世話になりました。さようなら、と。
翌朝になり、テーブルの上に置かれた紙切れを発見したのは、慎也の予想通り母親だった。そこに書かれたことを何度読み返しても混乱するばかりだった。
ハッとし、二階に駆け上がるも、慎也の姿はやはりなかった。
「お父さん、お父さん、起きて! 慎也が……慎也がいなくなっちゃったのよ!」
ゆっくりと体を起こし、目の開ききらない父親に紙切れを見せ付ける。
「見てよ、お父さん! ほら、こんな、置手紙まで!」
その文面に父親の目も冴えていく。
「『エロ本が見つかったので、出て行きます。慎也』……」
丁寧に折りたたんだ紙切れを母親に託し、父親はゆっくりと立ち上がった。
「……男の旅だな」
「家出よ!」
【完】